20世紀後半に活躍したフランスの哲学者、ミシェル・フーコーの初期の代表的著作である『狂気の歴史』の第1章は「阿呆船」というタイトルである。

 

この章では、最初に、ヨーロッパ中世の「らい病」に対する人びとの関係のとり方の経緯が探られている。

 

「中世初期から十字軍時代のおわりまで、らい施療院はヨーロッパじゅうにその呪われた区域をふやしていた」(21ページ)

 

フーコーは各国の具体的な数字を挙げている。フランスのみならず、イングランド、スコットランド、ドイツの状況を示しつつ、14世紀には急速に「らい施療院」の数と患者数が減っていったと述べる。

 

その理由として、長期にわたって「隔離」を行ったこと、近東との交易や交流が減ったことなどを挙げる一方で、数の減少が医学による勝利ではないことを、さり気なく書き込んでいる。

 

フーコーが気に留めるのは、そうした「らい患者」の数が減少した後に残された「痕跡」や「イメージ」である。言い換えれば、ある人たちを「隔離」「監禁」「排除」するという、社会における「構造」(システム)というべきものが、ここにおいて生み出された、とみなすのである。

 

実際に、その後、「貧乏人」「放浪者」「軽犯罪者」「気がふれたもの」が「らい病者」と同じような役割を果たすようになる。

 

もう少し厳密に言えば、15世紀末、「性病」が「らい病」のあとに猛威をふるうが、性病は前述したようなシステムに乗ることなく、その後、医学の対象となり、当面は、医療空間の内部に留置されることになる。

 

そして、17世紀に入って、「性病」は「狂気」とともに「監禁」や「排除」の対象として定められるに至る。

 

では、その間、すなわち、15世紀から17世紀のあいだ、「狂気」はどのようにして、「らい病」の後継者的な位置を担ったのか――ここに登場するのが「阿呆船」である。

 

 

 

 

「阿呆船」とは何か――それは、ある都市からある都市へと、「狂人」たちを運んだ船のことである。15世紀頃、小説や絵画のテーマにしばしばなる。

 

20世紀に寺山修司の演劇にも同じタイトルがつけられた作品があるが、おそらく寺山はフーコーにインスパイアされたと思われる(なぜなら、邦訳が出たのが1975年、寺山の戯曲の発表はその翌年であることから)。

 

 

 

 

当時は、必ずしも「狂人」全般が「阿呆船」に乗せられたわけではない。多くの「狂人」は都市空間もしくはその外部を「放浪」していた。しかし、他国の「狂人」については、そのかぎりではなく、船に乗せられることもあったという。

 

イメージが沸くだろうか。

 

要するに、各地から、「狂人」たちを次々と集めて、船に乗せてゆき、とある都市で放逐するのである。これはある種の「巡礼」であり、ある種の「浄化」の営みとみなされた(これによって「水」といえば「狂気」といったつながりが生まれた)。

 

だが、と、フーコーは問う。どうして、「阿呆船」は、この頃に芸術の題材としてしばしばとりあげられるようになったのか。

 

「その理由は、この船が、中世末期のころヨーロッパ文化の地平ににわかに起こった一つの不安をそっくり象徴するからである」(30ページ)

 

「一つの不安」ーーそれは、「狂気」と「狂人」が、「人間」や「理性」というものに対して、ある種の「力」を及ぼしてしまうのではないか、というおそれである。

 

ただし、ここでもまた、フーコーは繊細に記述を施している。単純に「阿呆船」の表象が頻出したのではない。まず、「死の舞踏」からの移行について検証する。

 

 

 

 

15世紀初頭にはペストや宗教戦争の影響を受けて、「死」を主題とする作品が数多く現れた。「死の舞踏」すなわち肉体をそぎ落とした骸骨が踊る「ダンスマカブル」は、そのなかでももっとも代表的な表象形式であった。

 

これが15世紀後半には、「阿呆船」へと関心が移ってゆくことになるが、これは、単純に「死」から「狂気」へ移行、とまとめることはできない、とフーコーは考える。そうではなく、「狂気」のなかに「死」を見ていることなのだ、とフーコーはとらえる。

 

「狂気はすでに到来しているの姿である」(32ページ)

 

言うなれば、「死者」や「死体」「遺骨」などにおいて「死」を想起するのではなく、「まだ」生きている「狂者」の「狂気」が「死」と連接しているという考え方が人びとのあいだで広まりつつあったのではないか、と考えるのである。

 

「狂気の主題が死の主題にとってかわったということは、両者の裂け目よりもむしろ、同じ不安のなかでの一つのゆがみを特色づける」(32ページ)

 

ここで言う「死」は、言い換えれば「虚無」であり、「狂気」はその「死=虚無」に至る兆候とされる。

 

一般的には中世から近代への移行期と言われる15世紀だが、文化や「知」の次元、すなわち、絵画や彫刻、版画、そして文学など、さらには祭りや演劇などにおいては、「狂気」が、きわめて魅力的な素材として扱われた時代だった。

 

「15世紀の人間には、自分の夢想の、おぞましくさえある自由と、自分の狂気の幻影のほうが、生身の欲望をかきたてる現実よりもはるかに多くの魅力があった」(36ページ)

 

もう少し厳密にみると、狂気には、大きく分けると2つの考え方があった、と言える。

 

1)動物をはじめ、自然のもつ不思議な力と関連している

2)世界の終末など、一般常識を超えた知を体現している

 

だが、同じ時代でありながら、そのほかに、また、別の形で、文学や哲学、道徳においては、狂気がとらえられている。つまり3)の考え方があるのである。

 

それまで中世においては、狂気は「」の一つとしてとらえられていた。あくまでも「悪」という概念の範疇に収められうるとされていたが、ルネサンスには「悪」全体の上位概念へと位置づけを変える。

 

「悪全体の上位概念」というのは、要するに、人間の悪徳すべての根源に「狂気」がある、ということである。ただし、だからといって、はっきりとした支配的な力を行使するということではなく、あくまでも「人間とその弱点、その夢想、その幻想に関係」(40ページ)するにすぎない。

 

つまり「狂気」は「人間」以前の「動物」が持っている気質みたいなものが「人間」においても現れた(1)とか、「世界」の根本に宿ってきた原初的な力のようなものである(2)とか、そういう考え方ではなく、一人ひとりの人間の内部にある「特質」(3)として、とらえられるようになるのである。

 

たとえば「自惚れ」のような「自己への愛着」や「自己執着」「傲慢」こそ、最初の狂気のしるしである、とフーコーは言う。すなわち、自分のことを正しく認識・理解しない結果生まれる「ゆがんだ鏡」のようなものだ、ということになるだろうか。

 

そのために、「狂気」は「道徳」の領域とのかかわりを深くする。人間の「不正」がすべて「狂気」と重ねられる。

 

少しまとめると、15世紀ヨーロッパという同じ時代であっても、演劇や絵画と文学や哲学では、狂気に対して異なるかかわりを見せてていた、ということである。

 

狂気体験に対して、ブリューゲルやデューラーは、自分自身がそこに巻き込まれてゆくような近さがあるが、エラスムスの場合、距離をとり、遠方から眺める対象としてとらえられているといった違いがある、とフーコーは説明する。

 

その後、「阿呆船」に対するとらえ方も、「悲劇的経験」と「批判的意識」の2つに分かれる。

 

「文芸復興期の初頭、狂気について感じられ形づくられたすべては、批判的意識と悲劇的経験のこうした対決によって活気づけられている」(44ページ)

 

ところがその後100年のうちに、すなわち「近代」というものの意識のなかで、こうした構造は消えてなくなってゆく。具体的には、「批判的意識」がさらに強まる一方で、「悲劇的形象」の姿が見当たらなくなるのである。

 

例外は、ゴヤやサドの作品、また、その後、ニーチェ、ゴッホ、フロイト、アルトーがこの部分を掘り起こしているという意味で、別格であるとされる。

 

「悲劇的な形象」は消滅したのではなく、思索や夢想、そして「夜」のうちに密かに残り続けることになるが、フーコーにとって、「狂気」とは、他人事ではなく自分事であり、外在的なものではなく内在的なものであり、批判的な意識である以前に悲劇的経験として自ら抱え込んでいるものとしてとらえられている。

 

デカルトの「我、思う、ゆえに、我在り」に代表されるように、「西洋近代」とは、全面的に「狂気」を「理性の欠如」ととらえる。しかし、デカルトの一歩手前では、たとえばカルヴァンにおいては狂気とは人間が独自に持っている尺度である一方、「理性」とは「神」に付帯するものであった。エラスムスにおいても、クーザヌスにおいても、ほぼ同様の理解がある。

 

すなわち、「狂気」はあくまでも「理性」というものの絶対性を前提とした対立物とみなされたのである。もっと言えば、人間は「狂気」を本質としているからこそ、「理性」を欲し、「理性」を崇高のものとして奉ったということである。

 

また、やや別の考え方もその時代にはあった、とフーコーは細かく指摘する。「狂気」は「理性」の一つのパターンにしかすぎない、というものである。ここではモンテーニュやパスカルが引き合いに出されている。

 

他方、文学においては、狂気はどういた形象をとっていただろうか。セルバンテスがそうであるように、

 

1)空想的な同一化による狂気、

2)無益な傲慢から生まれた狂気、

3)正当な懲罰を加える狂気、

4)絶望せる情念による狂気、

 

などである。いずれにせよ、アルトーに言わせれば、ルネサンスの「人間主義」は、「人間の拡大ではなく減少」(45ページ)なのだ。

 

狂気は、このあと、大きな位置変容を起こす。「阿呆船」から「施療院」へ、である。端的に言えば、狂気は単なる「」の一つとして医療的知と技術の世界に委ねられることになるのである。

 

このように、フーコーの論点は、狂気とは一体何であるのか(何であったのか)ではなく、どうして、狂気は「悲劇的な経験」から「批判的意識」へと、その意味合いや社会的な「役割」を変えていったのか、そして、こうした変化がいかにして起こったのか、にある。

 

そしてまた、フーコーは、自らの内にある狂気と、社会における狂気の取り扱いとの間のギャップを問題にしている。狂気は他人事にはならないのだ。また、健康や理性と対置され、ネガティブな視点でとらえられるものではなく、ポジティブなもの、常に一つの可能性としてとらえられていることが、何よりも重要である。

 

ニーチェは、哲学の領域の、ぎりぎりの縁で「超人」について論じたが、フーコーは、こうして、もう一度、人間のもつ「力」としての「狂気」に私たちがどう向かい合うつもりなのか、挑戦状をたたきつけている。

 

コロナ禍の初期において、私たちは「阿呆船」とは言わないが、少なくとも、700名以上の感染者を出した「船」、ダイヤモンドプリンセス号を横浜の港に停泊させて、その対応に苦慮したことを、決して忘れ去ってはならない。

 

この船に乗っていた人たちの感染や死については、当初は、あいまいなままにしていたが、6月1日前後を境にして、厚生労働省は、各国の数値と独立させて「ダイヤモンド・プリンセス」というカテゴリーを新たに用意した。

 

こうしたことが何を意味しているのか、今後もこのフーコーの『狂気の歴史』を参照しつつ、考え続けてゆくべきであろう。