最近分かってきたことがある。
それは滝に入ることに積極的な気分の時とそうでない時の違い。
滝に入りたい気持ちが強いときと言うのはたいていは体が温まっているときで、体が冷えているときには滝に入ることに消極的な気持ちになっていたり、不安を感じていることが多い。
これはフィンランドのサウナと同じじゃないだろうか。
フィンランドのサウナでは、思いきり体をサウナで温めた後に冷たい湖に飛び込んで体を冷やすという映像を良く見る。
これは体に十分な熱量を持っているときは多少の冷たい水に浸かっても、体は冷えないので平気なのだ。
でも、元々からだが冷えているところに冷水を浴びれば、体は更に冷えていく。
それを能が感じとって、体が冷えているときには滝行に対して消極的な気持ちになりやすいのだと考える。
実際、体を十分に温めてから滝に入る方が安全とも思う。

他に、私はうどん屋でアルバイトをしているのだが、このアルバイトが連日続く時は、アルバイトのない日に滝行に行くことになるのだが、その日を待ち遠しく感じている自分がいる。
これは、私にとって滝行はアルバイトよりも苦痛の少ないことなのだと言うことだろう。
つまり、私にとってはアルバイトの方が苦行なのだ。
そう考えると、滝行をすることは自分を追い込むことに本当になっているのだろうかと言う疑問がわいてくる。
実際、僧侶によっては寺での修行よりも俗世で生きることの方が立派な修行だと言う人もいる。
とすれば、私は滝行に逃避しているだけなのかも知れない。

そんなことを考えながら、今日も岩谷の滝に向かう。
今日は空気が冷たい。
体が冷えると、滝に入る気持ちが萎えるので、厚着をして原付バイクに乗った。
これは今までで一番寒いのではないか?と思っていたが、道中の気温計では15度。
まあまあの寒さだがまだまだ冬の寒さにはほど遠い。
しかし、山を登って大聖院まで着くと、空気がひんやりしている。
やはり、このシーズンで一番寒い。

今日は誰も先客がいなかったので、さっさとお不動さんに挨拶を済ませて着替えをした。
行衣一枚になると震えが出てきた。
やっぱり止めときたいなと言う弱い自分が顔を覗かせそうになるのを、無理矢理押さえ込むようにして、休憩所の外に出た。手水で手を洗うと水が冷たく、指先が震えた。
でも、ここまで来たら後は入るしかないだろう。
行けぇっ!と自分を鼓舞する。
奥の滝までの20メートルほどをゆっくりと一歩ずつ進んでいく。
今日はこの前の烏はいるのかな?少し楽しみだった。
そうすると、滝の前のお堂の前でさらさらさらと落ち葉が舞い落ちてきた。
それも一枚二枚ではない。
花吹雪のようにたくさん。
ああ、今日は歓迎されているんだな。
そう感じて、勇気が出てきた。
よし、今日も頑張れるぞ。

滝に入る前の一つ一つの動作を落ち着いてしていく。
もう、冷たいことに不安は感じていない。
滝行場に入って、水の落ちてくるところを見るが今日は烏はいなかった。
でも、先ほどの落ち葉で、誰かが見守ってくれているのだと言うことを感じているので、安心だった。

気合いを入れて、落ちてくる水に手をかざす。
冷たい。
間違いなく今までで一番冷たい。
でも、問題ない。
今までにないくらいに今日は落ち着いている。
気合いを入れて、背中で水を受けると、真言を唱え始めた。
肩で水を受けると、前の方に水が伝わってくる。
その水が冷たくて、気を抜くと胸が縮こまりそうだったので、とにかく慣れるまでは声を出し続けた。

足まで伝わってくる水が冷たい。
たまに頭に水が当たると、頭がしびれるようにキンキンに冷える。
なのに、背中や肩はそれ程冷たいとは感じないのが不思議だった。
今日は無理をしないで般若心経10巻くらいで出ようかな?
最初はそう思っていた。
しかし、10巻を唱え終わると、あと10巻頑張ろうと思ってしまう。
そして、そこまでくると、ここで終わるのはもったいないような気がしてきて、更に10巻とどんどん進んでいってしまう。結局自己最多の般若心経35巻を唱えたところで止めることにした。
ただ、それで体力の限界と言うことではなかった。
寒さもそれ程強くは感じていなかったので、もしかすると、あと10巻くらいは唱えられていたかも知れない。
こうなってくると、余裕を持って終わるこの滝行は本当に修行になっているのだろうかと言う気もしてくる。
しかし、修行にはなっているのだろう。
入る直前までの弱気な自分の心に打ち勝つその過程が修行なのだとも言える。
少しは、強くなれているのだろうか。

滝から出てくると、一人の男性が滝の横のお堂でお参りをしていた。
私が滝に当たっているのを見られていたのかな?
ちょっと恥ずかしい気もした。

震えを押さえながら、休憩所横の脱衣所まで歩く。
滝に入っているときよりも、滝から出たこの時間の方が寒い。手を震わせながら、行衣を脱いで洗濯機に入れて脱水をする。
そして、体を拭くと休憩所に入り服を着る。
すると、先ほどのお堂でお参りをしていた人が休憩所に入ってきた。
どうも一見さんではないようだった。
私が服を着替え終わってカーテンを開けると、行衣に着替えてられた。
あそこで終わっていて良かった。
そうでないと、えらく待たせるところだった。
震えながら、本堂のお不動さんに手を合わせてお礼を言う。

中野先生がその間に温かいお茶を入れてくれていた。
「熱心やね」
と声をかけてくれた。
「自営の仕事が暇なもので、家でじっとしていてもろくなことを考えないので、滝に打たれに来ているんです。そうしたら、自分とも向き合えるでしょうし、弛んだ根性も多少は叩き治せるでしょうから。」
私がそう答えると、中野先生が何やら書き始めた。
「これあげるわ」
そう言って、ルーズリーフに書いた言葉を渡された。

時計の針の短針の如く
自分と向かい合って
修行すれば
時間が来れば
変わった事が解る

ありがたい言葉だった。
急いで何かを変えようとしなくても良いじゃないか、じっくりと取り組んでいけば、必ず変わるから。
確かに、学習塾の経営状況は急いで変わらないと大変なのだが、そこだけにファーカスを当てていたら修行にはならないだろう。
一度頂いたご縁だ。
その過程がどのようなものであっても、大切にこのご縁は守って行こう。
そうすれば、強くなった自分と出会えるときが来るかもしれない。

帰り道、磐船の滝に寄ってみた。
前回はその雰囲気と水量に恐れを感じたが、今日はそう言う感じはなかった。
何か、親しみに近い感覚。
いつかこの滝にも入るときが来るだろう。
そんな予感がした。