固定概念やイメ―ジってなかなか拭い去れないものです。
自分で見たこと、直接聞いた話なら多少は違いますが、たいていの海外のネタなんてだいたいが2次情報か、3次情報、あるいはネタ元不明です。
発信者が自分で見聞きしたことを言ってるのかを判断するのも難しいし。「・・・らしい」と書いてるならまだ誠意がある方。そもそもテレビや新聞のニュースだってどこまで信憑性があるのか。
東京を観ただけの外国人に『日本は!』なんて語ってほしくないし、ニューヨークに行っただけでテキサスやワイオミングも含めたアメリカ全体なんて決して語れないはずです。
ニュージーランドだって、羊がいない場所もあるし、大都会もある。自然がない場所もあれば暑い日もある。でも、自分の中に定着してしまったイメージを覆すのは難しい。
でも、ついそうなってしまう。たぶん、楽だから。自分で考えなくて済むから。
日本はゴミゴミしてるけど外国は自然がいっぱい
日本はルールや決まりごとがおおいけど海外は自由
のような固定概念とか。
僕自身はむしろ逆の面もあると自分の経験からで思う。自分が行った範囲に限れば、日本ほど自然が豊かだなと感じた土地はないし、英語圏諸国の方が細かいルールが多くて厳しい。日本は何事も法で縛るより、みんないい顔したいから個人やマナーに委ねて知らん顔。ユルユル。
海外生活や外国暮らしに憧れを抱くのは、別に日本人だけじゃなく、誰だって未知の土地や物事に対して抱く自然な感情だと思う。だから、ナニジンであっても、動くだけの余裕があっても生まれた土地から一歩も離れない、離れたくない人の方が特異な人々なんじゃないかと思ってしまう。好奇心の向かう方向が違うのか。
とはいえ、ネットやメディアの急進化で、世界のことや人々の暮し、自然、風景、様子が手に取るようにわかるようになった。いや、わかった気になれるようになった、が近い。
結果、さらに固定概念や一方的なイメージが増幅してしまった気さえするのです。
不便な時代なら自分で直接確かめないと納得できないことが多かったはずなのに、今は端末の中だけでわかった気になれる。知った気になれる。みんな物知り顔になる。
自分自身、行ったこともない土地や会ったこともない人のことでも、いつの間にか知ったような気になって話してたりする。結構ヤバいですよね、これは。世の中に流れてる情報の実はほとんどがフェイクやうそ、誤解や超主観の類じゃないかと思ってしまう。
すくなくとも表向きはわかる。僕らが日本にいて、トランプ大統領を論じるのは簡単だ。
でも、なんでああいう人が最高権力者である大統領にまで選ばれたのかという深層なんて絶対にわからないと思う。でもわかったような記事を読むと、自分までわかったような気がしてしまう。
一億総評論家。
ちょっと昔、一億総白痴化という言葉があった。
自分自身、そう呼ばれた世代でもあるけど、今のように知ったかぶり時代の方がその頃より知性が下がった気がする。興味や好奇心の質が劣化した気がするからです。
知らないことを、素直に知らない、と言えるためには、少なくとも自分の足で歩くか目で見るかそこで話を聞くしかない。それをしないで出た情報は情報とは呼べない。
危険かどうか、渡って試すか、素直に従うか…
すくなくとも、自分の目で見ようと行動すると、いろんなことに目からウロコになる機会が得られる。
離れるまで感じたことがない日本への郷愁だってそのひとつ。
絶対に帰国しない、と思って飛び出した人もどこかの段階で、何かのきっかけで自分の中の里心に気付く。こればっかりはどうしようもない。
でも生まれた土地にしがみついてるだけ、仕事も生活も変化を嫌ってるだけなのに、それを里心、故郷への愛情だと誤解してるよりはいい。
離れてみないと気付かないことは絶対にあるはずだから。
なるべく若い内にそれに気付ければ理想かな。
こんな風景が猛烈に恋しくなったり
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