あぐです。
実に1年9か月ぶりのエントリーです。私生活が揺れ動いていましたが説明するのも面倒なので結論だけ申し上げますと、シングルファーザーやってます。
仕事の方は1年をかけて「掃除」をして、ようやくコントロールを手にしました。何とかコロナを乗り切って、「自由」を手に入れたいと思います。
さて、色々と整理がついて心に余裕ができたのか、最近また読んだり考えたりすることが多く、しかし相変わらずの記憶力で片っ端から忘れていくため、適宜文章化します。
今回は東浩紀著「一般意思2.0」の感想。
ここ数か月のあいだ集中的に政治の動向を追った結果、代議制民主主義というものはもはや機能していないという結論に至りました。これは与党がー野党がーという次元の話ではなく、原理的に。
社会が複雑になりすぎて、代議士はもはや民意を代表できなくなっています。(とはいえ、現政権がその乖離をここ10年で最も醜悪な形で見せつけているのは否定しません)
同時にTwitterを中心として様々な言論人の政治に関する発言を追ってみましたが、どれもこれも現行の仕組みを前提とした話ばかりで空虚さを感じさせていました。
そんな中で、一人変わった雰囲気で目に留まったのがこの本の著者の東浩紀氏。
もともとルソーのことが気になっていたので、まずは「一般意思」をタイトルに含むこの本から読んでみようと。
トピックについてはズバリで、代議制民主主義をアップデートするアイデアの話でした。問題意識はほぼ同じということもあり、「ふむふむ」と読み進めます。
しかし、その処方箋をそのまま受け入れるのは下記の点で難しいと感じます。(この本が出版されてから9年、おそらく著者の意見も変わっていると思いますが。)
1.まず、「一般意思2.0」が胡散臭い。自分も『みんなの意見は案外正しい』を読んでいたので言いたいことは分かるのですが、だからといって、これを政策決定に大きな影響を与えるリファレンスにできると言い切ることに躊躇を感じます。最適化問題だけでなく、価値判断を伴う問題にも「正しい」解を出せるのでしょうか?
2.「一般意思2.0」を可視化するアルゴリズムを誰が作り、その妥当性を誰が判断するのか。国民が判断するのが筋だけど、おそらく大多数は理解できないのではないでしょうか。
3.トピックの煩雑化が政治参加を阻んでいると言いつつ、著者の具体案は各種の政策決定の場を透明にして、かつ政策立案者に「一般意思2.0」の声をリアルタイムで見せるという。これは全国民が全政策に関わるのと変わらないではないでしょうか。
複雑な物事に複雑な解決を与えようとしてるようで、その必要性も含めどうもピンと来ません。もしかすると、当時SNSがもたらしてくれるかもしれない可能性に興奮してバイアスがかかっていたのでしょうか。(おそらく今は違う認識になっていると思います。)
私は物事が複雑で手に負えないなら、「分ければいい」と考えます。何もかも国レベルで扱うのではなく、特に生活に関わるトピックなどは積極的に市町村レベルまで予算も含め分権化すれば、当事者の政治参加もより容易になるでしょう。国は外交など必然的に「国レベル」でなければならないもののみ関わればよいでしょう。
そして政策実施だけでなく立案・決定も政治家や公務員だけでなく、企業、市民団体、グループに開かれたものにする。
どのレベルにおいても全ての参加者が納得する解などないのですから、熟議のプロセスを通じた個人的な意見の変容は避けることはできません。本書で使われた比喩として逆方向のベクトルのように極端な意見同士打ち消してすむものではないでしょう。そして、社会が複雑すぎて何もかも国レベルで扱いきれなくなっているのなら、そのことを認め分権し、身近なレベルで熟議を取り戻す。それが嫌なら解決そのものを放棄&懸案事項を放置するしかないと思います。
とはいえ、地方分権という言葉自体使い古された感があり、それはつまり「言うは易く行うは難し」ということで、これまた夢物語なのかもしれません。次に政治改革というものがあるとすれば、この方向性でなければならないという確信はありますが。
結局のところ、政治はもっともっと腐って地べたに落ちるほどにならないと、動き出さないのかもしれません。
とはいえ、こうした思考の結果、時の内閣に対する怒りは解消し、ストレスもなくなりました。
当面は選挙のお知らせはことごとく破り捨て、法の範囲内で税金は極力払わず、取り返せるものはすべて取返し(はよ10万円よこせ)、自由な生き方の探求に専念しようと思います。