自由の概念とは,形式的に捉えれば,「義務を負っていない状態」を指します(拙稿「権利論の基礎」参照)。これだけを文字通りに受け止めれば,この世に自由はなく,我々は一定の枠の中で動くことができるという,「限定された自由」のみしか有していません(拙稿「社会と人」参照)。

 

なぜこのように「限定された」形でしか自由がないのかというと,伝統的な理解を前提とすれば,それは「社会契約」に基づいているからだということになります。社会契約の基礎には,「対等な個人」が,それぞれの生存と幸福追求のために,自らの持っている権利の一部を「社会(ないし国家)」に移譲し,その契約に服する義務を負ったと考えるのです。もちろん,これ自体はフィクションないしある種の神話ですが,この神話が意味するところは,我々がもはや万能の存在ではないということです。

この神話を受け入れるとして,「残された自由」があるということがいかなる意味を有するのかが問題になります。そう,自由は残されているのです。つまり,「他者からの支配」を逃れている。我々を支配できるのは,自分自身か,自分がその権利を委譲した代理人のみです。そして,この代理人は,「移譲された目的・範囲」内でしかその支配権を行使し得ない。つまり,支配権が及ばない範囲では何者の支配もないのです。

 

自由である者は,何人であれ,他者を支配することはできない。何人であれ他者に強制できない。これこそが平等です。自由は平等を基底としているのです。平等なきところに自由は存在しません。支配者は被支配者を同等の存在としては扱いません。支配者は被支配者を道具としてしかみなしません(もちろん,人が愛玩動物を愛でるように,「愛でる」ことはあるかもしれませんが)。しかし,平等を享受する自由人(これがフランス革命以後,近代的意味での市民です)は,同じ自由人たる他者を道具にすることはできません。せいぜい働きかけて,相手の意思を尊重する形で勧奨するしかないのです。そうである以上,平等を破壊しようとする者は,他者の自由をも奪おうとしている者であり,いわば「近代市民社会を破壊する者」だといわざるを得ません。

 

民主政を敷く国家においては,市民によって(直接・間接に)選出された執政者がいます。日本やイギリスでいえば内閣総理大臣でしょうし,アメリカやフランスでは大統領です。彼らは時に「権力者」や「支配者」と呼ばれ,市民よりも頭一つ抜けた存在であると考えられがちです。しかし,ここには,大きな落とし穴があることを指摘しておく必要があります。それは,すでに書いたとおり,彼らの権力ないし支配権はあくまで,市民から移譲された目的・範囲に限局されており,万能の権力・支配権ではないということです。市民から移譲された範囲を超えれば越権行為であるし,権限内であったとしてもその目的が移譲の目的と矛盾・対立するものであれば,権限の濫用といわざるを得ず,いずれも不当な権限行使です。彼ら代理人たる支配者すら,その前市民的権利を委譲し,「役目」として,「限局された期間」,その移譲された権利・権限を,それ自体のために行使するのに過ぎないのです。


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