以前から,メディア(特にマスコミとされる既存メディア)に対する批判・非難はありました。それが,先日の大阪府知事による適切でないヨードうがい薬による情報の流布により,さらに高まったように見受けられます。その批判はおおむね,「誤った(しかも生命・身体の安全にかかわるような)情報を,マスコミは無批判に垂れ流すべきではない」というものです。このこと自体に異を挟むことは,通常,何人であれ,できないでしょう。既に得られている(通説的な)一定の知見と照合して,当該の情報がその知見に符合しない(どころか矛盾する)ならば,やはりその整合性を問い質すというのは,知識・知見との基本的な付き合い方です。

 

しかし,同時に,この批判・非難にはちょっとした欺瞞が隠れており,私はそれを無視することができませんでした。

この批判・非難の前提には,次のようなものが隠れていることがあります。すなわち,「人々は正しい情報を与えられたのならば,おおむね正しい(あるいは妥当な)判断を下す」という期待です。しかし,この期待が妥当なものとは思えません。なぜならば,当該の照合されるべき知見は既に人々の手に渡っているからです。つまり,十分な知性を有しているならば,「垂れ流された情報であれ,自主的に点検されるはずであり,人々は無批判に受け止めないはずだ」という前提こそが人々の知性を信頼する前提なのであり,むしろ「誤った情報を無批判に受け止め,刹那主義的に人々は行動する」という,人々の知性を信頼していないということこそが前提になっていなければ整合しないのです。そして,そのことは,次のような帰結に親和的です。すなわち,「メディア従事者も人である以上,その知性は必ずしも信頼できない」。結局,そこにあるのは,強靭な知性を持ち得ない人々のなしたことで社会は動くのであり,高等教育を真面目に修めた人間たちからすれば,社会の動きのほとんどは愚かなものでしかないという事実です。民主主義社会に生きる我々にとって,政治の質は民衆の質です。当然,議会・政府は多数派にフォーカスして動きます。多数派が「愚か」であれば,政治は愚かにしかならない。

 

このような言は,悲観的なエリート主義に見えるでしょうし,私自身そうであると自覚しています。しかし,徹頭徹尾事実に基礎をおけば,そう判断せざるを得ないのです。多くの人は,ようやく自身の身にその不幸が降りかからなければ事の深刻さを理解できないのです。「愚者は経験に学び,賢者は歴史に学ぶ」といわれますが,この世の大半は愚者で構成されています。我々はこの事実を直視すべきです。たとえエリート主義と非難されようが,高等教育で事実の重みをその身に叩き込まれてきた以上は,その非難は甘んじて受け,ノブレス・オブリージュを発揮する方が,よほど真摯であるように思われます。


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