第六のみ使いがラッパを吹いた後に万の二万倍の数の騎兵隊が登場します。(啓示9:16)彼らは、大いなるバビロンとその同盟国を攻撃します。(ダニエル11:40,42。啓示11:8;16:19;17:16)
これらの騎兵隊は、魂は不滅で、死後もそのまま天国に行く希望があると信じているでしょう。これは、聖書に基づいていない教えです。聖書は、魂とは、人間の肉体の体そのものであって、死んで塵になると教えています。
ですから、二億の騎兵隊に加わって戦闘行為に携わるのは、なんの報いももたらしません。それどころか、滅びを経験するだけです。
今回は、そのことを先回に引き続いてもう一回新共同訳や口語訳、NASBなどを用いて説明したいと思います。
(1)魂は不滅でも不死身でもない【新共同訳】
「わたしの魂を災いから引き出してください。」とあります。(詩編143:11新共同訳)ですから、魂とは、不滅で不死身のものではなく、災いにあいます。また、「わたしを見失う者は魂をそこなう。」とあります。(箴言8:36新共同訳) ここでも魂とはそこなわれ得るもので、不滅ではありません。
また、「飢え、渇き、魂は衰え果てた」とあります。(詩編107:5新共同訳)ですから、魂は衰え弱ります。魂は衰えるもので、死ぬことに対して不死身になっているわけではありません。
魂は飢えて衰えるので不滅ではありません
聖書は魂は、わたしたちの肉体の体そのもので死んでしまうと述べています。(エゼキエル18:4,20口語訳)魂は死ぬので、不滅なのではありません。死ねばわたしたちは滅んでしまいます。反対に、わたしたちが魂として生きていることは望ましいことです。
聖書は魂は死ぬと述べている
(2)魂とは飢えたり剣によって討たれることのある物質の人間の体そのもののこと【新共同訳】
新共同訳の詩編には、「わたしの魂を剣から救い出し・・・てください。」とあります。(詩編22:21新共同訳)ですから、魂は剣によって討たれることがあります。魂が剣によって討たれるとは、魂とはわたしたちの肉体を意味しているのではないでしょうか。
また、「彼らの魂を死から救い飢えから救い、命を得させてくださる。」とあります。(詩編33:19;107:9新共同訳)ですから、ここでは魂とは飢えて死ぬ場合があります。ですから、魂は飢えるのですから、わたしたちの肉の体そのものを意味しています。魂とは身体から離れることのできる霊的な部分ではありません。
また、詩編には、「我らの魂は塵に伏し腹は地に着いたままです。」とあります。(詩編44:26新共同訳)ですから、魂は塵の上に伏して塵と接触します。 魂が何か肉の体とは別の霊体のようなものであれば、塵と接触することはないのではないでしょう。ですから、ここでも魂は私たちの肉の体そのものであることが示されています。
魂は塵の上に伏すことがあります
魂は人の身体そのもの
また、「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。 」(詩編119:28新共同訳) ですから、わたしたちの魂は涙を流します。ですから、魂とは涙を流す目も含んでいます。このことも、魂とはわたしたちの体そのものを意味していることを示しているのではないでしょうか。
魂は涙を流すわたしたちの身体そのものを意味する
ですから、魂とはわたしたちの体とは別の不滅の霊体の部分を意味してはいません。聖書の魂という語は、塵と接触したり、飢えたり、衰えたり、涙を流したりするわたしたちの肉の体そのものを意味しています。
(3)人は死ぬと塵となり神を賛美できなくなる【新共同訳・NASB】
さらに、聖書は確かに、死者が復活するという希望を差し伸べています。新共同訳には、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」とあります。 (使徒24:15新共同訳)しかしながら、死者は復活するまでは、塵の状態にとどまつていなければならないと教えています。すなわち、人は死ぬと存在がなくなります。
詩編の中でもダビデは、死ねば塵となり、神を賛美できなくなることを認めていました。新共同訳では、「わたしが死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげあなたのまことを告げ知らせるでしょうか」という言葉があります。(詩篇30:10新共同訳)
NASBによると、そこは、“What profit is there in my blood, if I go down to the pit? Will the dust praise You? Will it declare Your faithfulness? “となっています。(Psalm30:9 NASB)
ダビデは死ぬと塵になり神を賛美できなくなると言った
ここで、ダビデは自分が死んで墓に下るならば、dustすなわち塵になり、そうすると神に感謝を捧げたり、神について告げ知らせることはできないと述べています。それゆえに、神に死からの助けを請い求めています。死ねば何もできなくなります。
ダビデは死からの救いを神に願い求めた
ダビデは死ぬと天に行くとは考えていなかった
もし、死んでも意識が存続して神のおられる天国に行くのであれば、死なないように神に願う必要はなかったでしょう。死ねば、復活するまでは塵になり、神について語ったりはできなくなります。
(4)魂は死んでも自動的に神のもとに行かないので基本的に避けるべきもの
基本的に聖書は死ぬことは、災いであり、可能であれば避けるべきものであることを述べています。例えばエゼキエル書には、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」という神の勧めの言葉があります。(エゼキエル33:11新共同訳)
もし、信仰の人が死ぬと自動的に天国に行く、もしくは、意識が存続することになっていれば、神は人間が死ぬことは望まない、生きることを喜ぶと言われなかったのではないでしょうか。生きることが望ましいことであって、死ぬことは災いです。そして、基本的に避けるべきものです。
ですから、魂は死んで自動的に天の神のもとに行くわけではありません。すから、戦って死ぬことは基本的に災いであり、避けるべきことです。
二億の騎兵隊の総攻撃に加わって死んでも天国に行けるわけではない
死は災いで基本的に避けるべもの
自分から貴重な命を無謀に投げ捨てて、死んでしまうことは避けるべきなのです。とりわけ、殺人をするために、大事な命を犠牲にするようなことはぜひとも避けるべきことです。悔い改めないで殺人を続ける人は神から復活させていただくことができなくなります。(啓示21:8)
大いなるバビロンに対する攻撃に加わって殺人をする二億の騎兵隊は、野獣の崇拝者ということになります。彼らは、今の命を失うだけでなく、復活がないと考えられます。(啓示14:10;21:8)決して天国にはいきません。それで、戦って死ぬ可能性のある二億の騎兵隊の戦闘に加わらないようにしましょう。