般若経典のエッセンスを語る23

2020年10月20日 | 仏教・宗教

 では、そもそも「実体」とはどういう意味だろうか。

 実体を意味する元のサンスクリット語は「アートマン」で、漢訳では「我」と訳されている。英語では substance と訳すことができるだろう。

 すでに述べたとおり、哲学・思想用語としての「実体」には、東西共通の定義があるという。

 第一に他の力を借りることなく「それ自体で存在する・できる」ということ、

 第二に「それ自体の変わることのない本性がある」ということ、

 第三に「永遠に存在する・できる」ということである。

 そして、大乗仏教の「空・非実体」とは、「我・実体」を否定するコンセプトなのである。

 第一に、ブッダ以来仏教のもっとも重要なコンセプトとされてきた「縁起」という言葉がある。

 「この世界のあらゆるものは他との縁・関係によって生起している」という意味である。

 それを否定的な言い方に変えると、「縁起でないようなものは、何もない・ゼロ」となる。それが「空」の一つの重要な意味だと言っていいだろう。

 これも先にも述べたように、大乗仏教の三大論師の一人とされる龍樹・ナーガールジュナに「縁起だから空である」という言葉があるとおりである。

 第二に、「無自性」というコンセプトもある。

 「自性」とは、それ自体の変わることのない本性・本体という意味で、それ自体の変わることのない本性・本体をもっていないことを「無自性」という。

 否定的な言い方をすると、「変わることのない本性・本体をもっているようなものは、何もない・ゼロ」ということである。

 「無自性だから空である」という定型句もある。

 第三に、同じくブッダ以来強調されてきたコンセプトに「無常」がある。

 「常なるもの無し」つまり「永遠に存在するようなものは、何もない・ゼロ」ということである。

 「無常だから空である」という定型句もある。

 この三つのコンセプトを合わせると、ちょうど「実体」の定義の逆になり、つまりすべては「非実体・空」だということになる。

 ブッダは、『阿含経』などで、ほぼ同じことを「縁起だから無我である」「無常だから無我である」というふうに「無我」という言い方で説いている。つまり「実体ではない」ということである(ただ、筆者の知るかぎりでは、ブッダは「無自性」という用語は使っていないようだ)。

 だから、「無我」と「空」はほぼ同義語だといってもいいのだが、大乗仏教では「空」のほうをより強調するようになった。

 その理由については、後で筆者の解釈を述べることにしたい。

 

 


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