2020年01月01日
日本対ブラジル その3 焦りと無理と、そしてミス
ブラジル、そして日本の選手達がピッチに散らばる。
それまで喧噪に包まれていた客席から一瞬、全ての音が消える。
イギリス人の女性主審が右手を挙げ、甲高く笛の音を響き渡らせると満員御礼となった客席45000人が歓声を沸き上がらせた。
キックオフの笛の音でセンターサークルのリメルダがボールをスパイクの裏で軽く擦り、ラムが真後ろに蹴り込んだ。
大きく舞い上がったボールをDFライン中央のジャネットが胸トラップで受け、走り込む羽奈をいなしながら右サイドバックのフェリシダーテにパスを出した。
フェリシダーテが縦にボールを送り、下がりながら右WFリンディノが受ける。
リンディノがトラップした瞬間、左右から吉川咲恵と鷹取うららが囲い込む。リンディノは囲まれる前に真後ろフェリシダーテに戻し、そこから中盤中央マルガリータに繋ぎ、マルガリータからモニカとボールを送る。
未だブラジル陣内ではあるが、速いボールが行き来している印象だ。
「ワイドな展開ね」
「そーさね。ブラジルらしいポジショニングだねー」
メインスタンドで試合を注視する加藤優子が呟くと、既にビール4本を飲み干した浜田由香里が顔を赤くして言葉を返した。
ブラジルは4-3-3のシステムだが、ピッチを大きく使ったポジショニングであり、日本のコンパクトなサッカーとは対照的だ。
選手間の距離をできる限り大きく広げ、マークを分散させながらスペースを作るのがブラジルという国の基本的な戦術だ。
選手間の距離が広い分、インターセプトの危険性が増えるはずなのだが、それをカバーするパススピードと、そのスピードのパスをしっかり納めるテクニックがブラジルにはある。
逆に日本はそのワイドなポジショニングでゾーンを形成しなければならず、それはより多く速く走らなければならないことになる。
試合の進め方で言えば、日本とブラジルの相性は最悪といって良かった。
モニカから中盤前に出たリメルダにボールが渡り、ルックアップしたリメルダが頭を振った。
そのリメルダに藤田みのりがマークに付く。
ぐんと距離を詰めるみのりに視線を向けたリメルダはボールを右足で納めながら体を向ける。
左サイド、顔を向けると左WFのフェアリーが駆けだし、後方から左SBのモニークも追うように走り出していた。
既にみのりはリメルダの眼前に迫り、ボールを奪おうと足を出す。リメルダは体を引きながらくるりと体を入れ替えてみのりをかわす。
筈だったが、そのリメルダの動きにみのりは付いてきていて、更にボールを奪おうと足を繰り出す。
リメルダは驚きの表情を浮かべながら今度こそ真後ろにボールを共に飛び退り、追うみのりから離れてバックパスを出した。
「相変わらず日本は勉強熱心ね」
埼玉県某所の宿泊施設で大画面テレビの前に集まった18歳以下イタリア女子代表、「アズーレ」のうち、最前列に陣取ったクラウディア・アンジェリがそう呟いた。
クラウディアの隣にはチコから宗旨替えをしたリリー・キャロネロが楽しそうな表情でクラウディアの腕に絡まっており、その様子を後ろに座るカーラ・ブランピッラが優しげな表情で見守っていた。お前はお母さんか。
ブラジルの最大の特徴と言えば個々のテクニックが挙げられるが、日本の選手達はそのテクニックを封殺するようなディフェンス、マークをしている。
これまでのブラジルの試合を見て、しっかりと研究しているのがよくわかる。
クラウディアはこれまでの日本の勤勉さを見て、それがかえって選手達に積極性を失わせ、また羽奈の創造的なプレーへの妨げになると思っていたのだったが、その考えに変化が生まれていた。
グループリーグ最終戦であるフランス戦で、羽奈が絡んだ同点弾のシーンは明らかに11人という組織の中で羽奈が新しいファンタジーを見せた瞬間だった。
これはリリー・キャロネロを擁するアズーレとは一線を画すものだ。
イタリアはリリーを組織から解放することで自由で闊達なファンタジーを描き出しているが、日本は組織という枠の中でファンタジーを管理している。
どちらが上なのかとか、そういう問題ではない。
その関わり方こそが、日本らしく勤勉で愚直な国を端的に表している。
しかし、その愚直に洗練した組織的サッカーが、ブラジルのような個々が創造する「自由」を象徴するサッカーにどこまで通用するのか。
神田明神でジャネットに対して、ああは言ったがクラウディアはブラジルを格下と見ているわけでは無い。
むしろ注意すべき強豪であると思っている。
だからこそ、親友である羽奈のいる日本に勝ってもらいたい。
ジャネットに吐いた強烈な言葉は、彼女の個人的な願望そのものだった。
キックオフの笛から5分が経過し、日本は深く攻め込まれないが未だにボールに触れることができないでいた。
足下の技術に優れたブラジルに対し、安易な1対1の状況を作らないようにゾーンを形成し、組織だってフォローアップの体制を構築する。
ピッチをワイドに使うブラジルに対して今のところはできているが、やはり今日の試合も神経をすり減らすことには変わりない。
(ホント、楽な試合なんてひとつも無い……)
みのりはげんなりとした思いを頭に浮かべながら周りの仲間に声をかけ、走り回る。
とはいえ、14歳でプロサッカー選手としてデビューしてから楽な試合をひとつでも経験したかと言えば、それはNOであり、それはこのサファイアカップでも同様だ。
楽では無い、苦しい試合をひとつひとつ経験していくことで自身の力が積み上がる。
その積み上げた結果が準決勝という試合を経験させている。
そのこと自体は誇りに思っている。自信にも繋がっている。
その誇りと自信が更なる強豪との戦いの糧となるのだ。
それを知っているのはみのりだけではない。
このピッチに立つ11人全てが知っているし、ベンチで声を張り上げる仲間達も知っている。
「さあ行くよ!しっかり守ってしっかり攻めるわよっ!!」
みのりは大きな声を張り上げた。
『キックオフから6分が経過。ブラジル、慎重にボールを回しています。日本はしっかりと人数をかけてカバーしていますね』
『そうですね。でもここまであの子達はまだボールに触れていないですね』
『確かにそうですが、決定的に攻め込まれてもいません。よくやっているのでは?』
『そうですねえ。そういう見方ができるのは外野の私たちだけですね。実際に中で戦ってるあの子達はきっとそうは思えなくなってる。そろそろミスが出る頃ですよ』
エンジェル・イレブンはこの試合の前に対戦チームであるブラジルを徹底的に研究し尽くしている。
だからこそテクニカルで大きなパス回しでも対応ができている。
しかしそれでもボールが奪えなければ段々と焦れてくる。
焦れは焦りを生み、そして焦りは無理を生み、無理はミスを誘発する。
ボールはブラジル最後方のCBモニークに回り、羽奈と吉川咲恵が前後から挟み込むように囲む。
ブレンダはワンタッチで右サイドバックのフェリシダーテに通した。そのフェリシダーテには松風かなえが駆け寄るが、それをいなすようにフェリシダーテから斜め中央下がったリメルダにボールを送る。
「ここだっぴょんっ!」
「待ってうららっ!」
そのパスを読んだ鷹取うららが前に駆け込んでパスコースにスライディング。
これが焦り。
うららの足は僅かにパススピードに負け、ボールに触れない。うららは滑り込んだ格好で前に抜ける。
うららがゾーンから離脱した。
「ちっ!」
みのりが舌打ちをしながらボールを受けたリメルダに向かって走り込む。本来ならばこの位置のリメルダに付くのはうららであり、みのりはフォローアップに回る役目だった。
リメルダは意地の悪そうな笑顔を見せながらワントラップ、そしてみのりが駆け込む前に左サイドに向けて大きくボールを蹴り込んだ。
そのロングボールは背番号19番、ブラジル国内では「無機質のanjo(天使)」と呼ばれるフェアリーにむけてのものだった。