2019年5月19日日曜日

夢とうつつに生きる


「京都に暮らすということは、
夢とうつつ卍巴(まんじともえ)に入り乱れる
花あらしの中を、手さぐりで潜水するようなものだ。」

「夢とうつつの区別がつかない生を生きるということそのものが、
人生なのである、このみやこでは。」

京都には、源氏物語に登場する、
夕顔(ゆうがお)」という架空の女性のお墓があったり、
「ユウガオヒメの関係者のお墓らしい」という
石造りの五輪の塔をお世話して、
地蔵盆には毎年、お坊さんにその五輪の塔の前でお経をあげてもらい、
供養をしているという男性がいらっしゃったり。

「これが京都なのだろう。現実と物語の虚構が入り交じって、
もうひとつの現実をつくりあげている。
人々はどこまでが現実でどこからが虚構か、という区別に
おどろくほど無頓着である。
物語や歌の世界(夢と幻の世界)が染み込んでいない世界などは、
現実でも日常でもないとさえ思っているふしがある。」

「まさに能「半蔀(はじとみ)」のなかで、
夕顔の亡霊が雲林院の僧の前に現れて、
夢幻のごとく振る舞い、朝には消えてゆく、
その能そのものが、京のまちでは日常として行われているのだと
いってよい。

世阿弥のいわゆる夢幻能は、京都がつくったフィクションなのではなく、
京都の生そのものを描写したノンフィクションなのである。

京都に暮らすというのは、そういうことなのだろう。
東京に暮らすということとの決定的な違いが、ここにある。

表面的な現実、数字のデータによって把握される現実、
想像力の最小限化の世界・・・東京の生はそういう性質を持っている。

そして日本全国をその性質で埋め尽くそうとしている。
だが東京の生命観を無化しうる対極が、京都にはある。」

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少し前の紙の方の京都新聞に掲載されていた
京都大学教授、小倉紀蔵さんの”現代のことば”です(*´▽`*)。

京都に生まれ育ったものでは気付かないというか、
それを「当たり前」として受け入れてきたので、
こうやって言葉にしていただくことで、
やっとこさ客観視できる事も多いのです。

「京都に暮らすということは、
夢とうつつが卍巴(まんじともえ)に入り乱れる
花あらしの中を、手さぐりで潜水するようなものだ。」

うーむ。花あらしの中を、手探りで潜水するとは。
京都に暮らすということは、それほどに複雑怪奇に
見える方もいらっしゃるのですね(≧▽≦)。

風習みたいなものは、目に見えない世界があってこそ、
成り立っているような事って多いですもんね。

今気付いたのですが(笑)、
風習って、風に習うって書くんですね(*´▽`*)。
そよ風や強風、南風や北風。
色んな風が吹きますが、その風に習うってことなのでしょうかねー?
何度も何度も吹かれながら。

「人々はどこまでが現実でどこからが虚構か、という区別に
おどろくほど無頓着である。
物語や歌の世界(夢と幻の世界)が染み込んでいない世界などは、
現実でも日常でもないとさえ思っているふしがある。」

ええ。左様でございますとも(≧▽≦)。

つまらない事実よりも面白い嘘を」という
記事も書かせていただきました(笑)。

表面上の共通認識のみを現実や事実というなら、
それはとても、ちっぽけなものになってしまうと思うんですね。

データや数字や言葉や視覚情報では表せないものの方が、
遥かに多くて大きいからです。
心や体で感じることって。

夢かうつつか幻か。
なんだっていいと思うんですね(*´▽`*)。

その人の信じるものごとこそが、
その人にとっての世界。
こんな事を書くのは、京都に住んでいるからかも
知れませんが(≧▽≦)。

今日は日曜美術館エッシャーの特集が放送されたのですが、
だまし絵は、見る角度によって全く違うものが
見えたりするんですよね。

人間が見ている世界も、だまし絵のように
その人の見ている角度のようなものによって
全く違う世界が見えているのではないかなー?と
思うのです。

だまし絵の世界に入り込んでしまったら、
同じところをグルグル回って出られなくなるし(≧▽≦)。

夢とうつつの区別がつかない生を生きるということは、
違う角度で世界を見ることなのかも
しれませんね(*´▽`*)。






じゅごんろ~どnote

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