2020年5月14日木曜日

映画「どこに出しても恥ずかしい人」とちあきなおみさんのこと。


なんだかすっかりご無沙汰してしまってすみません(///∇//)。

そしてお久しぶりなのに、今回は「死」に関する記述が増えると思いますので、読みたくないなと思われる場合はスルーしてくださいませ。
また次回のブログでよろしくお願い致します(*´▽`*)。


似てない似顔絵シリーズで友川カズキさんです(≧▽≦)。
映画「どこに出しても恥ずかしい人」を”仮設の映画館”で観ることが出来ました♪



新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で、映画館もお休みになっていたのですが、インターネットで”仮設の映画館”が開館して、「好きな映画館にお金を払って映画を観る」という事が出来るようになりました♪

ミニシアターって素敵な映画がかかる事が多いので観に行きたいなーって思っても、ミニシアター故のスケジュールで日にちや時間が合わなくて諦めることが多かったんですね。

それが”仮設の映画館”の登場で、好きな時に好きな映画を観ることが出来るなんて!(≧▽≦)。初めて聞いた時は夢のようや~:*:・( ̄∀ ̄)・:*:って思いました(笑)。

初めてでよくわからないままに進んでいったので、京都の出町座さんにお金を払って観ようと思っていたのですが、何故か?元町映画館さんで観ることになりました(笑)。24時間以内なら繰り返して観ることが出来て、これまた総入れ替え制になる前の映画館のようで嬉しくなって、もちろん、また観ました(笑)。

映画は友川カズキさんの日常のドキュメンタリーで、私が友川カズキさんを知ったのは、たぶん「3年B組金八先生」のライブシーンでだったと思いますが、その頃のままに、パンクロックな友川さんが存在していました。

「友川カズキさんみたいになれそうにもないしなりたいとも思わないし、友達になりたいとも思わないけど、友川カズキという存在が生きていてくれるだけでいいのだ。」って感じの映画の感想がTwitterで流れてきたことがあるのですが、まさしく、そんな感じでした(≧▽≦)。

唯一無二。友川カズキさんは友川カズキで在るが故に友川カズキで在り、それ以外の何者でもないし何者にもなろうとしないところが友川カズキさんなのだ。押忍。

映画の中で行きつけの居酒屋さんの店主さんが、友川さんは「そこらへんのおっさんにも大島渚監督にも同じ(態度)なの」と仰っていましたが、息子さん達への接し方も、そんな風に感じました。

26歳の息子さんに、「50歳くらいになって、人生とは?って考えればいいんだよ。そしたら人生って、何でも無いから。」って話される姿は、なんか仙人さんみたいに見えて(笑)、競輪で当てたお金を見せる時には無邪気にはしゃぐ姿が子供さんみたいで(笑)。

お金が手に入ったことが嬉しいというよりも、「競輪で当てたってことが嬉しい」って感じがしたんですよね。まぁお金が欲しければ、とんでもない才能をお持ちの方なので、いくらでもその才能を売り飛ばせばお金にはなるのでしょうが、友川カズキさんですからね(≧▽≦)。

パーティに行くといつもケンカになるから、一切パーティには行かなくなったって仰っていたのも、パーティって「自分を売り出そう」とか「顔を売って仕事に繋げよう」とか、「この仕事にお金を出してもらう為にあの人に近づこう」とかって下心のある方たちが集まる場であることが多いので(偏見)、無理も無いなと思いました(笑)。

バイバイ☆ミチロウ/パンク仰げば尊しにも書かせていただいた遠藤ミチロウさんともよく共演されていて、「ああ。やっぱり惹かれる人たちって繋がっているのだな。」って思いました。

ちあきなおみさんにも曲を作っていらっしゃって、何年か前にちあきなおみさん特集がテレビで放送された時に改めて凄い歌い手さんだなぁと思ったのですが、小さい頃には周りの大人の男の人たちが「ちあきなおみは別嬪やなー。」という言葉に「え?そうなの?」って思ってしまうくらい、その魅力がわかりませんでした(笑)。

私が子供の頃にテレビやラジオで流れて来る音楽って、愛だの恋だの失恋だの別れだの未練だのって曲ばっかりで(笑)、リズムやメロディは楽しかったのですが、歌詞の内容は全く理解できてなかったのです(笑)。

でもちあきなおみさんの歌唱力と共にその演技力・表現力には圧倒されていました。友川カズキさんが書かれた曲の「夜を急ぐ人」でのシャウトにも、日本人離れした情念の表現力を感じましたねー。


伝説の「おいでおいで」のシーンのつもり。。。なのですが。。。なんでこんな絵になってしまったの?って自分でも思ってしまうくらい、ちあきなおみさんじゃない(≧▽≦)。

鬼気迫る。。。そんな表現が子供騙しに感じるくらい、ちあきなおみさんの迸る情念は、美しい狂気でもありましたね。
普段はホワっとした表情の方なのに、曲に入ると顔つきがガラリと変わって。

あれだけの才能を持ちながら、パートナーを亡くされて以来、一切表舞台に立つこともなく、喪に服し続けるかのような生活を送る姿も、狂気のような情念を感じます。闇に咲く、黒い花のような美しさを持って。

友川カズキさんも、弟さんを31歳で亡くされているんですよね。線路に身を投げられて。そのご遺体と対面した友川カズキさんは「無残の美」という曲を書かれています。

詩を書いた位では間に合わない
 淋しさが時として人間にはある
 そこを抜け出ようと思えば思う程
 より深きモノに抱きすくめられるのもまたしかりだ

 あらゆる色合いのものの哀れが
 夫々の運を持ちて立ち現れては
 命脈を焦がして尽きるものである時
 いかなる肉親とても幾多の他人のひとりだ

その死は実に無残ではあったが
 私はそれをきれいだと思った
 ああ覚 今もくれんの花が空に突き刺さり
 哀しい肉のように 咲いているど

 阪和線富木駅南一番踏切り
 枕木に血のりにそまった頭髪が揺れる
 迎えに来た者だけが壊れた生の前にうずくまる
 父、母、弟、兄であることなく

最後まで自分を手放さなかったものの
 孤独にわりびかれた肉体の表白よ
 水の生まれ出ずる青い山中で
 待つのみでいい
 どこへも行くな
 こちら側へももう来るな

 その死は実に無残ではあったが
 私はそれをきれいだと思った
 ああ覚 そうか死を賭けてまでもやる人生だったのだ
 よくぞ走った
 走ったぞ
 無残の美


「無残」という言葉には”いたましいこと””憐れなこと””残酷なこと”という意味もありますが、元々は仏教用語で、”仏の教えを破っても恥じない心のこと”という意味もあります。

教えよりも、その人の人生にとって必要なことって、あるのかも知れませんね。責めることなく、「よくぞ」と称えるように。







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