毎日積み重ねる『自分づくりの授業』
本日のテーマ

【わたしがオードリー・ヘプバーンを

尊敬する理由】

 

 

わたしは、
「俳優で一番尊敬する人は誰ですか?」
と聞かれたら迷わずに

「オードリー・ヘプバーン」

と答えるでしょう。



(映画 ローマの休日より)

 

その理由は、有名人である力を最大限に活かし、その力を人のために使ったからです……。

 

 

オードリーは1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルで生れました。
生後6週間で思い百日ぜきにかかり、しばらく息をしなかったことがあります。
後にオードリーはこのことについてこのように語っています。

「わたしは生れて、――そして6週間後に一度死んだ」

 

幼い頃に両親が離婚し、母の手で育てられるのですが、幼心に父親の愛情に飢えながら暮らすことになります。
そのさびしさに耐えられたのも好きだったバレエに没頭し、将来はバレリーナを夢見ていたからでした。
しかし、身長が高すぎるということで断念することになります。
その後、女優の道に進むことになり大女優として大成功を遂げて行きます。

 

大ヒットした映画の数々

 1954年『ローマ休日』
 1956年『パリの恋人』
 1957年『昼下がりの情事』
 1959年『尼僧物語(にそうものがたり)』
 1961年『ティファニーで朝食を』
 1964年『マイ・フェア・レディ』

 

オードリーはこのような華やかな女優の人生を歩むのですが、プライベートでは多くの苦しみの連続であり、それを乗り越えなければなりませんでした。

 生まれて間もなく、死を経験する…
 幼い頃の戦争で餓える生活を経験する…
 父親との別れ…

 夢への挫折…
 2度の離婚…

その中で二人の子どもを育て上げて行きます。
自分が父親から注がれなかった愛情を思いきり子どもたちに注ぎました。

 

その後、58歳の時に転機が訪れます。
1987年に縁があり、マカオでユニセフ・ポルトガル支部のコンサートでスピーチをしました。
そのスピーチをキッカケにユニセフ国際親善大使に任命されることになります。

 

親善大使となったオードリーは精力的に活動を展開して行きます。
1988年にエチオピアを訪れます。

(エチオピアでは子どもの4人にひとりは5歳まで生きられません。原因は栄養失調です)
その後、トルコ、南アメリカ、スーダン、バングラデシュなどを訪れます。
1990年には『アンネの日記』の朗読コンサートを開催します。
1992年親善大使として最後の訪問地、ソマリアを訪れます。
1993年1月20日、63歳で、「結腸がん」で亡くなりました。

 

(1988年エチオピア)



(1990年ベトナム)



(1992年 ソマリア)

 

わたしはこんな生き方をしたオードリーを尊敬します。
その真の理由は貢献活動をしただけではありません。

自分が幼い頃から親の愛情に恵まれなかったことを活かし、世界の子どもたちに愛情を注ぎました。

そして、もう一つ、女優という職業を活かし、人々に訴えること実践したからです。

 

マスコミ嫌いのオードリーが、親善大使を務めてから頻繁にマスコミに出るようになりました。
その理由をあるインタビューでこのように答えています。

 

「あなたはマスコミ嫌いで有名ですが、最近よく出られているのはなぜですか?」
「わたしが見てきたものすべてを皆さんに知ってほしいからです。そして力を貸してほしいのです。わたしは力を合わせれば不可能なことはないと思っています」

 

この功績により、かつてないほどの募金がユニセフに集まりました。

 

オードリーは言います。
「こんなに女優でよかったと思ったことはない。どんな役をやったときよりも、どんな賞をもらった時よりも……。大勢の人がわたしの声に耳をかたむけてくれた、わたしが女優だったから、有名だからこそできることがある」

 

特にわたしが尊敬するところは、
「有名」という武器を自分だけのためでなく、それを活用し最大限の貢献をしたことです。
本当に素晴らしい行為だと思います。

 

有名になると、とかく傲慢になったり、ゴージャスに生活をする人たちがいますが、立派な人とは、例え有名になっても謙虚でいられる人です。
しかし、もっと立派な人は、知名度を活用し、世の中や人のために有名だから出来ることをする人です。