私は『美()()』と名付けられた。

 名前の由来は、祖母がその頃のテレビドラマの子役で「みく」という子がいたらしく、勝手に呼び始めたのがきっかけだったらしい。母は『紅』という字が好きで、漢字は母が考えたのだそうだ。

 紅に~と有名な曲があるが、私も母はその歌が好きなのかと思ったし、よく、XJAPANのファンなのかと聞かれるが、そうではないらしい。

 

 私は、O型に間違えられることの多いA型で、性格は基本大雑把だが変なところは細かい。

 脊髄性筋萎縮症という生まれつきの難病とともに生きていて、電動車椅子に乗って生活している。

 二〇〇七年より地元コミュニティーFM三角山放送局で「飛び出せ車イス」という番組を持っていて、月に1度生放送を行っていた。

 今は旅行会社の在宅ワーカーとして働き、結婚をして夫と二人暮らしだ。

 障がいがあると気がついたのは、一歳。

 よちよち歩きをはじめる時期になっても、私は歩かなかった。捕まって立ち上がるが歩き出してもすぐに転んでしまう。最高で一〇歩までしか歩けなかった。

 まさか、一〇歩が人生の中で歩いた最高の歩数になるとは誰も思っていなかった。

 いつまで経っても歩かないので、変に思った母は小さな病院に私を連れて行った。

 そこでの診断結果は「足腰が弱っているのでリハビリすれば治りますよ」というもので、リハビリステーションを紹介された。

 とにかく運動させて筋肉をつけようと思ったらしく、家の中に簡易ブランコを作ってもらった。

 私は遊び感覚でブランコブラブーラと楽しく遊んだ記憶がある。公園に行かなくてもブランコがあるなんてラッキーって思っていた。

 しかし、運動するも歩けない。

 小さな病院に紹介されたリハビリステーションに来ていた大学病院の先生が、私の動き方を見て「この子、もしかしたら脊髄からきているかもしれない」と言った。

 台に座らせて足をぶらぶらとしたたらして、膝の指二本分下をゴム製のハンマーで叩いても無反応。普通は、ピンと足が突っ張るように動くはずなのだ。膝蓋腱反射と言って反応を見る検査らしい。(大人になるまでの間ゴム製のハンマーで何回トントンと叩かれたことか。動かないと結果を知っている私はいつもネタバレしたくてうずうずしていた)

 ハイハイする動き方にも特徴があったのかもしれない。筋肉が少ないためゆっくり手を出して進む独特な動きだったと思う。

 大学病院に入院をして、検査をすることになった。

 太腿から筋肉を取ってそれを調べる、筋生検というものだ。

 おそらく入院費や検査代など、かなり大変だったのではないだろうか?

 一歳の頃のこと……、先生のことも、手術のことも、もちろん覚えていない。

 だけど、まぶしい光。白い何か。激しい痛み。

「助けて! ママ!」

 泣きながら叫んでいる情景を、太腿の傷を見ると、かすかに思い出す。怖いのもあっただろうけど、激痛過ぎて力いっぱい叫んだ記憶があるのだ。だって、筋肉の組織を取るのだ。めちゃくちゃ痛いに決まっている。

 手術の終わると、幼い私が動かないように、暴れないようにベッドに縛り付けられていたらしい。

「どうして。うちの子だけ」

 母は自分を責めた。

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『車椅子! 愛しき我が人生~』
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