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国宝・松本城 [国内音楽鑑賞旅行]

松本城は、サイトウキネンで松本に行くたびに、訪問していてお馴染みの観光スポットであるのだが、きちんと日記にしたことはなかった。"なんちゃって城マニア"としては、やはりここも自分の城コレクションとして日記にして熱く語る必要があると思い、今回3回目の訪問にて、ようやく取材敢行である。


絶好の城日和の快晴だった。


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松本城天守。


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松本城の天守閣を撮影するには、このアングルが1番最高の構図であろう。
手前の赤の埋橋が映える感じでいいですね。


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松本城は、江戸の徳川家康を監視するという目的で戦国末期に築城された。江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれているのだ。


豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子によって創建された。


天下人の天守は、五重の天守と言われるが、この松本城は天下人のお城ではないけれど、五重六階の天守閣なのだ。現存する天守12城のうち五重六階の天守としては、日本最古の天守といわれている。


現在天守の建物を残す城は12しかない。そのうち五重の天守は松本城と姫路城と名古屋城だけである。五重天守の実物をみることができるのは、この3城だけである。


松本城は平地に築かれた平城である。
黒と白のコントラストがアルプスの山々に映えて見事な景観である。


これらの天守群は、昭和4年(1929)に制定された「国宝保存法」により、昭和11年(1936)4月20日国宝に指定され、さらに戦後昭和25年(1950)に制定された「文化財保護法」により昭和27年3月29日再び天守五棟が国宝に指定された。


本当に美しいお城である。


城の天守閣は、どうしても戦争で被災したりして、再建されたものが多いが、この松本城は戦国末期に創建されて以来、そのまま残っているまさに最も古いお城ともいえる。


いつもはこの天守閣を見てお終いなのだけれど、今回はきちんと日記にしたいと思っていたので、本丸御殿、二の丸御殿のほうにも行ってみたかった。


ここは入場料を払うことが必要である。


黒門


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本丸へ入る重要な入り口。


この門を入るとかつては本丸御殿があった。本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられている。


こちらが今回初体験である本丸御殿跡、二の丸御殿跡からみた天守閣である。
この時間帯、逆光で見づらくてスミマセン。
手前に広がっているのが、本丸御殿や二の丸御殿があったところである。


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ここには松本城売店があります。
どこのお城にも必ずありますね。
ここでしか販売していないオリジナルグッズも数多く用意されている。


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隣は、松本城管理事務所。


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今回は松本城天守閣の中にも入ってみようと思った。
入場券を購入した時点で、この天守閣の中にも入れる権利が含まれているのだ。


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天守閣の中は、天守一階から三階までは柱の数が多く、四階から上は柱の数も減ってやや広い空間が設けられている。下層は骨組みがしっかり造られている。


天守一階は、とにかくこんな感じで、柱が乱立していて、まさに土台をしっかりこの支柱でがっちり支えようという意味合いが多いと思われる。


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松本城のオリジナルの鯱(シャチホコ)


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松本城天守閣の中は、多くの支柱があるが、所縁のある当時のものがウィンドウケースの中に展示されている感じになっている。なかでも鉄砲に関する展示は多かった。大半が鉄砲だったような気がする。


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長篠の合戦。


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まさにこれからの戦は鉄砲が主力になる、ということを世に知らしめた革命的な戦であった。織田・徳川連合軍が、当時の史上最強の騎馬軍団といわれた武田勝頼軍を、鉄砲でこっぱみじんに退けた戦い。ものの数十分でかたがついたといわれている。


当時の鉄砲は、発火して発射するまで時間がかかったので、その欠点を克服するために、鉄砲兵士を3列に構えさせ、その時間のロスをなくし、連射できるようにした。織田信長という男は本当に戦国時代の革命児だ!



天守閣の各階に上っていくには、このような超急峻な階段を昇っていく必要がある。


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この写真に偶然写っている階段は、まだ全然緩やかなほう。
実際はもっと狭くて、思いっきり急峻である。


さすがにこれには自分は閉口した。
とにかく超怖い。
昇っていくのも怖いが、下っていくときはさらに怖い。


ここで足を滑らせて、階段を転げ落ちて骨折でもしたら、大変なことになると思い、もう手すりをしっかり両手でつかみながら、体横身にしながら、1歩づつ両足でかみしめながら降りて行った。


生きた心地はしなかった。
本当に超怖いです。

早く地上の出口にでないかな、とそればかり考えていた。
地上の出口に出るまで、ずいぶん長く感じられたことは確かである。


階段はこのように超危険なので、階段のところで写真撮影することは絶対禁止されている。


これを体験して思ったこと。この松本城天守で普段住んで過ごしている昔の武将たちは、急にトイレをもよおしたくなったとき、この超急峻な階段を下りていくのは、さぞかし大変だったのでは、と思ったことだ。(笑)


天守閣の最上階は、こんな感じである。


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最上階から降りていくと、ちょっと見晴らしのいい階に遭遇。
ここから外が眺められる仕組みになっていた。


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ふぅぅぅ~。やっと地上の出口に無事降りることができた。
生きた心地がしなかった。


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地上に降りたら、この松本城の創健武者である石川数正に扮した武将姿の方がいらした。いっしょに写真撮影してくれるサービスである。無料サービスでやっていた。こうやって、写真を撮りたい人に向かって、ポーズを決めてサービスしてくれる。


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石井数正というのはどういう武将であったのか?

徳川家康の家臣であったのだが、途中で豊臣秀吉方に寝返った武将なのである。
徳川家康から去った唯一の男で、豊臣秀吉の家臣に転職した男なのである。


ここでネット記事を一部抜粋して、その寝返ったミステリーをご紹介して、終わりとしよう。

戦国武将・石川数正とは?徳川家康から去った唯一の男、豊臣秀吉の家臣に転職する
By Dyson 尚子



戦国時代、徳川家康には多くの家臣がいた。


家康が織田信長や豊臣秀吉と決定的に異なるのは、自ら滅ぼした一族の遺臣をも召し抱えていたコト。家臣に対しても公平な扱いを心がけ、徳川家臣団の中でもとりわけ三河家臣団は結束が高いといわれている。


しかし、ただ一人。
そんな徳川家臣団から出奔(しゅっぽん)した者がいる。

それが、石川数正(いしかわかずまさ)。


西三河の家老まで昇りつめ、家康の信任が厚かったにもかかわらず、なんと豊臣秀吉の元へと去っていくのである。石井数正は、交渉術に長け、多くの場面で使者として折衝を行い、活躍した。だが、それが、皮肉にも豊臣秀吉との出会いに繋がるのであった。


豊臣秀吉には困った癖がある。


女性関係ではない。男性に対してである。ぶっちゃければ、他家の重臣に対して、「お誘い」してしまうのだ。いわゆる、引き抜き、ヘッドハンティングである。


秀吉は、これまで多くの戦いに参戦してきた。そこでは、必然的に様々な戦国武将と対峙することになる。敵側としての場合もあれば、味方となる場合も。どちらにせよ、戦場での勇猛果敢な戦いぶりを目にして、我慢できなくなるのだろう。「是非とも、うちに(豊臣方)」と、つい触手が伸びるといった感じか。


そのスカウト歴は、まあまあなものである。やはり徳川家の家臣は別格なのか。今回の石川数正だけでなく、本多忠勝(ほんだただかつ)にも声をかけている始末。


他家に対しても節操がない。伊達政宗の重臣、片倉景綱から、上杉家を支えた直江兼続(なおえかねつぐ)。他にも、小早川隆景や立花宗茂など、錚々たるメンバーだ。数え出したらキリがない。


また、すぐに様々なプレゼント攻勢をかけるところも、秀吉らしい。ある種、成金的な匂いがしなくもないが。派手好きで人間的な魅力に溢れた秀吉だから、できることなのかもしれない。


問題は、石川数正へのスカウトはいつから行われたのかというコト。最初の出会いは、豊臣秀吉が亡き信長のポストをかけて、柴田勝家と争った「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」の戦勝祝いの場。天正11(1583)年のことである。徳川家康が使者として遣わしたのが、石川数正であった。


一説には、この頃から秀吉の引き抜き工作が始まっていたとも。ただ、真偽は不明である。その翌年、天正12(1584)年に、徳川家康と豊臣秀吉は「小牧・長久手の戦い」で対峙。勝敗がつく前に、家康との連合軍であった織田信雄(おだのぶかつ、信長の次男)が秀吉と講和を結ぶ。こうして、小牧・長久手の戦いは、不完全燃焼で幕を閉じる。家康と秀吉が、互いの力を認め合った戦いでもあった。


この戦後の交渉役についたのも、当然のことながら外交担当の石川数正である。


そして、講和の翌年。
天正13(1585)年11月、突然、石川数正は徳川家康の元から出奔。

向かった先は、あの「豊臣秀吉」だったのである。


突然の出奔…理由不明の謎


確かに、複数の憶測が飛び交うだけで、確定的な事実はない。だからこそ、作家は料理し放題。格好のネタになるのだろう。


ここでは、大きく2つの説がある。


1つは、徳川家康と豊臣秀吉の板挟みに疲弊した末での出奔という説。つまり、額面通りに受け取って、数正が家康を裏切って豊臣方に走ったという説。


もう1つの説は、徳川家康の命を受けて、もしくは同意の下、あえて豊臣秀吉側の家臣となったという説。つまり、数正は家康を裏切っていないという筋書きである。出奔という名目で、数正を「スパイ」として潜り込ませる中途半端な戦略は、秀吉には通用しない。となれば、取る手段は1つ。思いきって徳川家康と縁を切り、豊臣秀吉の直臣となる。そして、秀吉側から家康をサポートするという方法だ。


石川数正の寝返りは、いまもって謎なんですね。


そんな家康を寝返った武将が、家康監視のための松本城を築城するところまでやるか、という話になると、自分はう~んと唸るばかりである。


いずれにせよ、松本城築城の武将、石川数正は、そういう武将だったんですね。


国宝・松本城、こんなお城でした。
3回目の訪問にて、きちんと日記にすることができました。
自分のお城コレクションに加えたいと思います。


もしコロナ第3波がなければ、先週の4連休に姫路城に行く予定でした。
日本で初めて世界遺産に登録された日本一美しい城。別名白鷺城。

本当に真っ白の外観の美しいお城です。日本のお城の中で一番美しいですね。
ここは長年の想いがあってぜひ行きたかったですねぇ。


また暖かい季節になったら、出直して再チャレンジしたいです。






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