<10年前と変わらず美しく咲いた紅梅、、
しかし、自然界は、、>
復興への祈りの曲♪
復興の加速を虹の空も応援しています。
震災後の2日間は、無我夢中でなんとか断水への対応のために水の確保に追われました。しかし、このときすでに1号機が水素爆発していました。たまたま風向きが北方向だったためにいわき市には影響は少なかったのですが、北西部の内陸に放射性物質が拡散してしまったことは周知の事実であります。
以下は、3日目~5日目の体験を日記をもとにお話ししたいと思います。
●3月13日(日) 3日目
この日は朝6時に近くの小さなパン屋さんへ並んだ。10個で1350円だった。
それからスルメをかじりながら泉のガソリンスタンドに向かうが、車の列の渋滞が起きていた。8時ごろから10時まで並んで待つが、結局ガソリンスタンドは閉鎖されてしまった。車中でパンやスルメ、カンコーヒーをとっていたが無駄だった。あとから分かったことだが、この日の午前4時頃はいわき市の線量が23,72MSVを記録していたので市内上空を放射能の雲(プルーム)が流れていたのだった。9時には3.0、10時には2.2だったので急激に上がり、すぐに下がったのだと思う。テレビに釘付けにされ、お昼頃には屋内待避がスタートしたのだった。
広報車がまわりはじめ、今後どうするのか話し合った家族が多いと思う。午後は、自宅で体をお湯のタオルでふいたり、日記や手帳の整理をしたりして屋内で静かに過ごしていた。夜は、8時半に早めにふとんにはいり体を休めた。
この日の夜の線量はだいぶ下がり、1,4ぐらいだったという。
デブリの取り出しが終了するまで30年以上かかるとか、、、。
このころ線量を気にしないようにとよく出たデータが、
出たのですが、これはある面でトリックであり、
24時間放射線を受ける福島県人にとっては気休めにしかならなかった。
結局、上記のような時系列で原発事故が起きてしまった。
これによって福島県は、深刻な放射能汚染にさらされることになりました。そして今問題なのは、燃料集合体が一番多い4号機です。
この建屋が次の大地震で崩壊してしまうと、これは日本の崩壊にもつながるさらに大きな取り返しがつかない事故というより事態に陥ってしまうのです。
そして意外なのは、水素爆発しなかった2号機から放出された放射能が全体の4割だという事実は知られていないようです。いわき市は今秋から冬へ向かっているが、これからたくさんふくであろう北風によってどのように影響するからはまだまだ未知のことが多いと思います。国はしっかりモリタリングして着実な対策をとっていかなければならないと思います。このときの悔しさを今でもかみしめている人々がたくさん県内にはいると思います。それによって人生が軌道修正されてしまった人たちの想いはたいへんつらいものだと思います。
~つづく~