私たちの迷い、、
人生の意味は、、
何のために生きるのか、、
真実はどこにあるのか、、
私の使命は何なのか、、
理想の自分を実現するための方法は、、
ソウルメイトは一体誰でどこに居るのか、、
さて、私たちの人生には、、様々な 「迷い」 が存在します、、
大なり小なり、「迷い」 の種類はその時々で様々で、、
そのあまりの複雑さに頭を抱えてしまうこともまま見られる様相です、、
けれども、こうした、見かけの上での 「迷い」 が起きているときにその実体と思しきものエネルギーの集積を注意深く見てみたとき、、
その正体が一体何なのか、何が私たちから 「光」 を奪っているのかということが明らかになることもあるかもしれません、、
様々な、人生論的、哲学的、スピリチュアル的な 「迷い」 を解き明かそうと、、
論理立った、あるいは、万人に納得のいく 「答え」 を探がそうと躍起になる様相は、、
ある意味では、、暗闇の中で、、出口があるかもわからない迷路の中を右往左往するようなものであるとも言えるでしょう、、
※ちなみに、これをティーチャー、ジョーンさんは、、「想像上」 の問題に引っかかってしまっている、、と表現しました、、
というのも、実際、、その 「暗闇」 が晴れるのは、出口に辿り着いた時ではなく、、
暗闇を一瞬にしてかき消し得る、「明かり」 を灯したときに他ならないからです、、
その瞬間、迷路の中に迷い込んでいた様相は、一瞬にして見抜かれ、そこに 「迷路」 はなく、
「迷い」 の姿もどこにも見当たらないということが自然と明らかになるのです、、
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「迷い」 とは、「迷い」 それ自体が、実体を持った形としてそこにあるのではなく、、
「迷い」 があるに違いない、、「私」 は確かに迷っているのだから、その 「答え」 を見つけ出す必要があるんだ、、といった具合に、、
「迷い」 への信念を疑わないまま、「迷い」 を信じている状態であると言えるでしょう、、
実際、、「迷っていること」 を信じなければ、「迷い」 は存在しませんし、、
「迷い」 という誤解さえなければ、それを解明することで得られるであろう 「答え」 もまた必要なくなります、、
そして同様に、そこにおいて、「迷いを所有し、迷っている私」 という二元的なストーリーに注ぎ込まれたエネルギーもまた解放されるのです、、
というわけで、私たちが解明できるものなど、何ひとつありません、、
と言ってもこれは、、明かりのないまま迷い続けるのが運命だということではなく、、
初めから明かされていた明白なものを思い出し、「明かり」 を灯しながら生きるということです、、
今ここにある、明白な今、、光ある今、、
ですから、「今」 と共にあるとき、、「今」 を生きる時、、そこに 「迷い」 は存在しません、、
※ちなみに、禅に傾倒していた戦国武将、伊達政宗公の和歌にこういうのがあるそうです、、
曇りなき 心の月を先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ