というわけで、甲子園、盛り上がっていますね!!
同じ東北の、県立高校の熱戦に思わず私も引き込まれています!
さて、甲子園ついでに、、今居る場所 (ポジション) への 「禅定 (ぜんじょう) 」 について、、
というわけで、まずは、こちらから、、
私がここで言っている苦しみというのは、基本的には、
これ・ここ・今は十分ではない、生は今あるとおりであってはいけない、
「私」 はこのままではなだめだ、「それ」 はそのままではだめだ、
自分が求めているものはどこか 「別の場所」、過去や未来、<ここ・今> ではないどこか、
あるいは別のときにある、という思考・ストーリー・信念・観念のことです。
この何かが欠けているという観念の根っこに必ずあるのは、
「私」 というのは、いつか滅んでしまう傷つきやすい心身の内側に閉じ込められた状態で、
異質で恐ろしい外側の世界を見ながら、生き残るため、成功するため、
どこかに辿り着いて特別な人間になるために努力している個別の断片なのだという思考・ストーリー・信念・観念です。
内側に閉じ込められながら分離しているというこの観点からは、
つねに何かが欠けているように感じられます。 (ジョーン・トリフソン)
------------------------------------------------------------------------------------
というわけで、私たちの分離的なエネルギーの習性から沸き起こる、
不満足、不十分、非受容性といったところの感覚を的確に示した文章ですが、、
即ち、、「今居るポジション」 に対して、、
「もっと良い何か」、「理想的な状態」、「より優れたどこか」 があるに違いないと、
「隣の芝生」 にばかりエネルギーが注がれ、「今居る場所」 をまったく顧みないということについて、
悟り系では、機能不全、、あるいは、、禅的には、、「真実を生きていない」 などとされます、、
例えば、、野球について言えば、、
ピッチャーに対して、、憧れを抱く、セカンドの選手が居たとして、、
セカンドというポジションに居ながらに、、自分のポジションを受け入れらず、、
「自分」 にはもっと良いポジションがあるはずだ、本当は 「自分」 がピッチャーのはずだった、
セカンドのようなポジションよりピッチャーの方が 「自分」 を活かせるに違いない、、
などといった具合に、、非受容性のエネルギーに無意識に取り込まれることで、
「自分」 という二元的なストーリーが真実味を持って浮かび上がり、それに伴って強化された 「自分」 の感覚が、、全体性との同調、あるいは、、あるがままの流れに対する自然なダンスを実現する上で、
見かけの上での 「障害」 になるとも言えたりするものです、、
けれども、、(一人一人が) 「自分」 の居る場所を受け入れ、
徹底的にそのポジションに三昧するとき (禅定)、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
チームとして、あるいは、「その場」 全体として、有機的なエネルギーの交感 (コミュニオン) が起き、
時に相対の世界で 「奇跡」 と呼ばれるストーリーを生み出し得る原動力になったりもするものです、、
というわけで毎度、、晴れの日、雨の日、好きな場所、嫌いな場所、受け入れない状況、、
どんな 「今ここ」 が現れているときでも、、
今を生きる誓い、、それと出会い受容する道こそ、、禅の真髄です、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ