さて、体調不良も無事終息しそうな気配です、、
というわけで、こうした、肉体的にせよ、精神的にせよ、、いわゆる、「辛い」 局面に際しての、、
ハリー的立場をここぞとばかりに書いてみようと思います、、
ここにおいては、、良寛禅師の遺した言葉が良い参照になります、、
災難に逢ふ時は災難に逢ふがよく候
死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候
つまるところ、、災難に際しては、災難に逢うことが何より良い、、
死を目の当たりにしては死ぬことが何より良い、、
これこそまさに、災難を逃れる妙法というべきものである、、といったとこで、、
おそらく、これを目にした当時の一般の人々は、、怒り心頭で良寛さんへの信頼を失ってしまった人もいたかもしれませんが、、
せっかく辛い苦しい悩みを相談に来たというのに、、なんじゃこの人でなしのような答えは!!とでも言うかのように、、
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確かに、、言葉だけを見てしまうと、そう誤解されるのも致し方無いようにも思いますが、、
この良寛さんの言葉が指し示した先へと目を向けるとき、そこには、まさしく禅の真髄というべきエッセンスが確かに込められていることを見ることができます、、
即ち、、災難だろうと、病だろうと、死だろうと、、
それを忌み嫌い、それに抵抗し、「そうではない状態」 に何としても作り変えようとする、奔走と消耗の非受容的な生き方ではなく、、
災難であれ、病であれ、、苦しいと言われる状況を 「苦しみ」 と解釈してしまうのではなく、、
レッテルや枠付けで対象を固定化してしまう以前の、「ただそうであること」 としての在り様に留まり、、
あるがままの 「今ここの表現」 としてそれを見る時、、そこには、「今ここ」 への丁寧な出会いがあるだけで、、それは、順境のときでも同じく、、健康のときでも変わることのない、「今ここ」 にあるプレゼントをもてなす姿に他ならないというものです、、
実際、、目の前に現れている出来事を躍起になって退けようとしたり、無意識に否定してしまう感覚が和らぐと、、そこに現れるのは、、これまでとは全く違ったエネルギー的様相、、受容性が見出される可能性が開かれます、、
この、抵抗から、受容の意識感覚で出来事の中に根付くということが起き始めると、、
その時々で必要な流れが自然と起きるようになり、、ここにおいてもはや、災難は災難と呼べるものではなく、、ある意味では、、それは、地獄すらも 「友」 とした様相とでも言えるかもしれません、、
※というわけで、皆さんも体調にはお気をつけください!
今日も読んで下さり、ありがとうございます!