私たちは日常、、抽象的な思考や、観念的な思い込みにまやかされることはままあるとは言いながら、、
ふと、瞬間気づいてみると、、そこは紛れもなくいつも 「今ここ」 です、、
どこに居る時も、何をしていても、例えそれが、いつものルーティーンの中だったり、日常から遠く離れた特別な場所だったり、
一緒に居て落ち着けてくつろげる親愛なる相手を前にしているときでも、できれば避けたいと思わせるような険悪な関係の相手を前にしているときであっても、、
それらはいずれも、、変わることなく、平等に 「今ここ」 であるのです、、
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禅の体系は、、早くからこのシンプルさこそがリアリティであって、
釈迦や経典、あるいは、神秘的な体験などを盲目に信じたり、求めたりするのではなく、、
このリアリティにのみ帰依し、これだけを相手にするということをその体系の根幹に置いてきたと言えるでしょう、、
ま、禅を介さずとも、私たちにとっての共通の遺産であり、私たち本来の基盤であるところの、
疑いの余地のない、全くもって明らかな、「今ここ」 に気づき、
この場に現れた出来事、ここにあるものをもてなし、ただひたすらに 「今ここ」 を生きる時、、
相対的な見かけとしての 「今ここ」 において、、絶対性への入り口が自然と開かれることでしょう、、
ですから、寝ても覚めても、今ここに気づいたときは、、今ここから始めます、、
今ここを忘れたと思っても、私たちが今ここから切り離されることも、今ここ以外のどこかに行くことはできません、、
何度でも何度でも、今ここに気づき、今ここへと還り続けるのです、、
求道の旅は、、「今ここ」 に目覚める旅でありながら、、「今ここ」 が 「今ここ」 を思い出す旅であり、
「今ここ」 がそれだけのものとしてひとつになる旅などとも言えたりするかもしれませんが、、
逆説的なことに、そうでなかったことは一度としてなく、ずっとそれだけがあり続けているというジョークにもまた付き物だったりするものです、、
ここからここへの道なき道は空想上の旅で、それはカンザスを出てオズの国へ行き、
また戻って来たドロシーの旅とどことなく似ています。
ドロシーと同じで、私たちは出発したまさにその場所に最後には辿り着きます。
実際はどこにも行っていません。
というのも、<ここ・今> が存在しているすべてだからです。
そして、<ここ・今> 以外にどこか別の場所があるという
間違った考えをもたらしたストーリーと思い込みは見抜かれ、
常にここにある明白さが完全な気づきのもとに現れます。
振り返ってみると、時間をかけて旅をしてきたように、あるいはもしかしたら過去のどこかの地点で
突然覚醒が起こったように見えるのですが、そうしたことは、すべて夢のようなものです。
思い起こすためには記憶と想像が必要です。
私たちは実際にはどこにも行っていません。ずっとここにいました。常に今だったのです。
(ジョーン・トリフソン)
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!