さて、お経を唱える、読経と言われる修行、、
これは一体何のためにあるのでしょうか、、(。´・ω・)?
こと、求道の修行において言うならば、、
これは別段、、格別のご利益のためでも、あるいは、悪霊退散!の類のため、というわけでもなく、、
シンプルに、、読経という 「行為」 を手がかりとして、
「今ここ」 に還るため、であると言って良いでしょう、、
お経を一心不乱に唱え、読経をするという行為に完全になりきるとき、、
私たちは、、相対的な 「見かけ」 を超えて、、非二元的な全体性 (今ここ) の中へと溶け去っているといわけです、、
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ですから、お経を唱えることがご利益や悪霊退散に効果を発揮されるなどと信じられるようになった所以もまたここにあると見ることができます、、
個体性であるところの 「収縮」、、あるいは、思考雑念が生み出す、強迫的なストーリーの実体化、、そうした感覚を、「お経」 を唱えることで解放へ繋げられると感じた先人が、、
「お経」、あるいは、「読経」 に効果があると後人に伝えつつ、、信仰のひとつの形態を築き上げたと言えるわけですが、、
実際は、、「読経」 によって生み出される、「三昧」、あるいは、「禅定」 の在り様がこの解放を起こし得ていたに過ぎず、、それがたまたま 「読経」 だったというわけで、「読経」 でなければその効果が望めないと言うわけではありません、、
日々の掃除や仕事に際して、、あるいは、体を動かす運動やスポーツの類でも 「読経」 によって見出されていたものと同等の効果が見込めます、、
禅的には、こうしたことを、ひとくくりに、、「動中の工夫」 などと言うこともありますが、、
「動き」 の中に溶け去るということが、坐禅や瞑想といった 「静中の工夫」 に比べ、、「容易さ」 という点ではスピーディに三昧を起こし易いと言うこともできるわけです、、
動中の工夫は、静中の工夫に勝ること百千億倍!! (by 白隠禅師)
※ま、とは言え、、ハリー的考察では、、静中と動中の両輪を携えることもそれなりに大切ですが、、
というわけで最近は、、湯船で、般若心経か、白隠禅師坐禅和讃を読経しながら、
ポッカポカに温まっております、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!