「今ここ」と二つの物語 | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

良し悪しということではなく、

 

私たちの生き方には、ある面、2つの側面、可能性があると言えるでしょう、、ひらめき電球

 

 

 

一つ目は、、今ここに現れているものに 「抵抗」 する生き方、、もやもや

 

 

つまるところ、これは、自我が常態となった、「恐れ」 ベースの生き方であると言えます、、おばけくん

 

 

「今ここ」 で良いわけがない、もっと素晴らしい (と思える) 現実を実現すべく、理想とする状態を目指し、

 

それらを成し遂げるまでは決して満たされない、それを成し遂げるまでは決してゴールではない、といった具合に ( 「恐れ」 に掻き立てられながら)、、

 

 

常に、エネルギーが、「今ここ」 から離れ、「今ここ以外」 に目を向けられているために、

 

「どこか」 へ向けた消耗と奔走をし続ける様相、、ランニング

 

 

「今ここ」 を退け、「今ここ」 を否定する生き方、、非受容性です、、

 

 

けれども、現れているものは、いつでも 「今ここ」 だけという大前提を思えば、、往々にしてこうした場合、「今ここ」 は常に不満足と、ゴールに辿り着くまでの 「苦しみ」 の様相を呈する場合がほとんどです、、手

 

 

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一方で、もう一つは、、今ここに現れているものを 「受容」 する生き方、、というものです、、合格

 

 

これは、意識が常に 「今ここ」 にあるものに向けられ、、何が現れていても 「今ここ」 に出会い、「今ここ」 をもてなすという 「帰依」 の感覚がベースになっているために、

 

 

先述の通り、、宇宙それ自体が、「今ここ」 以外が現れることも、「今ここ」 以外であることも一度としてない以上、、こうした体感によって見出されるのは、「今ここ」 を受け取り、「宇宙」 と手をつなぐエネルギー的様相とも言えるものです、、虹

 

 

もちろん、これら二つの側面、可能性というのは、その都度都度で、交互に現れたり、後者が定着しているように思えても、場合に応じて前者が現れることもあって、前者より後者が優れているなどというわけではありませんが、、

 

 

日々お伝えしているところの、「禅」 という体系は、後者の体感を徹底的に叩き込むアプローチです、、ダルマ

 

 

 

 

 

ですから、初めのうちは、、前者の状態が習慣的に定着した意識にとって、「今ここ」 に在るというシンプルなことでさえも、違和感と物足りなさ、不十分さを感じることも常ですが、、チーン

 

 

けれども徐々に、意識が、「今ここ」 という本来的な場に調整されつつ、これまで背後にあった 「恐れ」 を見抜きながら、今ここへの 「抵抗」 や 「非受容」 の感覚を手放し、「今ここ」 に目覚めるということが次第に起き始めると言えるでしょう、、富士山

 

 

 

ある意味で、意識が 「今ここ」 を取り戻すとき、、今度は仮に、「抵抗」 の感覚が優勢になった場合であっても、意識が自然とその 「今ここ以外」 を感じ取り、それを取り消し、また本来的な 「今ここ」 に連れ戻すといった作用を起こすこともあるものです、、秘密

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い