思いがけず頭をよぎった、とある禅の逸話、、
以前にも何度か紹介したことがありますのでよろしければ、、 (↓)
ま、簡単に言うと、、
ある日の禅師が、弟子に問う、、
弟子の答えに、、禅師は 「よろしい」 と言う、、
また別の日、禅師が弟子に、同じ質問を尋ねる、、
弟子は前回と、同様の答えを述べる、、
そこで、禅師の一喝!!( ̄□ ̄)
お前は、まるで分かっておらん!!
その答えはお前 (今) からは来ておらぬ!
過去のものだ!そんな答えは死んだ答えだ!!お前は死人か!!
的な、、
ここまで言われたら、、私だったら立ち直れないかもと思いつつ、、笑
というわけで、「初心」 ということについて、かの道元禅師はとりわけ強調されたと言います、、
また、この道元禅師のエッセンスを近代アメリカで正確に伝え抜いた鈴木俊隆禅師の文章にもこんな感じのところがあります、、
※ハリーアレンジ込み、、
「初心者」 の心は、空っぽであり、その空っぽさの中にこそ、
あらゆるものを受け入れる (無限の) 用意がある、、
逆に、「専門家」 の心は、あれこれの知識や観念 (思い込み) といった、こうであるべき、こうでなければならないといった、様々なものでいっぱいなために、受け入れるスペースがなくとても不自由である、、
そうした前提に基づき、禅の修行において何より大切なのは、、
常に、初心者の心を持ち続けることであり、この無限にして、本来の心から始めることだというわけです、、
というわけで、先の逸話も示している通り、、
私たちは、性質上、、習慣 (過去) を生きるようにプログラムされていると言え、、
全き新しい、宇宙開闢以来、初めて現れた 「今ここ」 を前に、、
習慣 (過去) を頼りに生きてしまうことは、、まったく間違っているとは言わないまでも、、
真実を生きているとは言い難いものであるとするのが禅の立場です、、
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したがって、、習慣的な動きが無意識的に起きているときに、その様相に気づくことを、しばしば、目覚めて生きる、、といった言葉で私が表現するところであったりもしますが、、
もちろん、実用上の範囲でこの習慣性や観念性が必要な場面は多々あることは疑いませんし、、そうした、習慣や観念をすべてきれいに捨て去ってしまえば良いという話ではなく、、
あくまでも、そうした反応が起きているときに、それに 「覚めている」 ということ、無意識に意識を曇らせてしまうのではなく、それに気づいている意識に寄り添っているということが前提として大切になってくるということです、、
もちろんその体感から、その後に、そうした条件付けられたエネルギーを必要に応じて手放し、新しい可能性が見出されたりもしますが、、それを目的とはせずとも、、
常に、新しい今を、新しい目で生きるということが、真実とのダンスをより豊かで軽やかなものにしてくれるでしょう、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!