どこに居ても「ここ」に居ることを感じる | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

さて、悟り系のメッセージでは、耳にたこができるほどに、、笑

 

今ここ、今ここ、今ここ、、と繰り返されます、、目

 

 

あまりに良く耳にするものだからと、私たちの中には、あまりその言葉の 「方角」 を改めて見ようとしないということももしかしたら在るのかもしれません、、

 

 

というわけで、基本に立ち返って、、今日は今ここを感じてみましょう、、カエル

 

 

 

さて、今の今、たった今、あなたはどこに居ますか、、「今ここに居ます」

 

 

では、これからその場を立って、、例えば、階段へと向かい、階段を下りてみます、、あし

 

足の裏に気づきながら、すこしあなたの 「存在」、「在る」 という感覚を感じてみて下さい、、

 

 

階段を下りているときでも、私たちは、、「今ここに居ます」

 

 

そして、階段を下り、トイレへ向かい、トイレに到着、、なんということでしょう、、笑

 

 

わざわざ、二階から降りてようやくトイレに辿り着いたと思ったら、、

 

あなたが発見できるのは、、「今ここに居ます」 ということだけです、、

 

 

これは日常のあらゆる場面で共通に起こるこの世界の真実です、、

 

家から車に乗って出かける道すがら、、私たちは一歩たりとも動いてなどいません、、

 

 

なぜなら、車の中でも、「今ここに居ます」 だからです、、

 

その後、職場に着いても、あるいは、近所のスーパー、、

 

さらには、飛行機を乗り継いではるか遠くの目的地に着いたときでも、、

 

 

私たちが、「今ここに居ます」 以外であることなど一瞬たりともありはしないのです、、

 

 

 

あなたは、「今ここ居ます」、、私も同様に、「今ここに居ます」 

 

私たちは誰一人の例外もなく、、皆が皆、、「今ここに居ます」 なのです、、

 

 

 

これが実際のところ私たちの 「存在」 の秘密、、私たちは、「今ここに居る」 意識でありながら、、

 

もっと注意深くその在り様に寄り添う中で見えてくるのは、、私たちとは、、「今ここ」 そのものという明らかさです、、合格

 

 

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ですから、実際のところ、、私が敬愛して止まない禅という体系は、、

 

このこと、、「今ここに居る」 ことにのみ帰依するということをその修行の中でただひたすらに実行し続けるのです、、

 

 

禅の道場に行かれたことがある方なら体験されたことがあるかもしれませんが、、

 

私にとってはその食事の作法が実に興味深いものでした、、

 

 

ご飯に、汁物、おかずなどなどがある中で、、禅の修行では、、ただ一つの品目にのみ 「出会う」 ということをとにかく徹底するのです、、

 

ご飯を頂くときは、両手でごはん茶碗を持ち上げ、一口をモグモグモグと口にします、、ニヤリ

 

無意識の私たちであれば、すぐさまおかずに箸を伸ばしご飯と一緒にそれを食べることをしてしまいがちですが、、禅ではそれは決してしません、、

 

 

禅の人々は、ご飯が口の中からなくなるまで、意識的に留まりその瞬間の出会い、「ご飯」 にのみ出会うということを続けます、、

 

そして、ようやく口の中が無くなったところで、次の品目へと箸を移すということを続けます、、割り箸

 

 

 

鈴木俊隆禅師の逸話集にもありましたが、、実際のところこれは、二つのことを同時にすることはできない、、からです、、OK

 

どんなときでも私たちの行為は、「今ここ」 の発露であるからして、その瞬間の出会いは 「今ここ」 に常に一つだけです、、

 

同時に何かをしてしまうことも当然ながら、日々の私たちにはよくあることですが、、実際には、、「ながら」 で何かをしているとき、私たちは、「今ここの出会い」 を真に果たしてはいないのです、、

 

 

歩きながらのスマホは、、「歩く」 ということを外しています、、

 

食べながらのテレビは、、「食べる」 ということを外しています、、

 

運転中の音楽は、、「運転する」 ということを外しています、、などなど、、

 

 

もちろん、そうしたことのすべてに何ら問題性があるというわけではありませんが、、私たちが意識的で在るとき、無意識的に手を伸ばす 「ながら」 の誘惑を断ち切り、、「今ここに在る」 者として、「今ここ」 への出会いを一つ一つ完全に実現するとき、、私たちは真実を生きています、、

 

 

真に、「今ここ」 に出会い、「今ここ」 に現れる相対的な様々な出来事と一つになるとき、、私たちは 「今ここ」 という場の途切れのない広がりを見出すこともあるでしょう、、ドア

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星