ふと、その昔に出くわしたある質問を思い出しました、、
質問者が言うことには、、「今ここ」 がよく分からない、、
例えば、自宅で、愛らしい赤ん坊を抱いているときの 「今ここ」 と、
会社で、上司に叱られているときの 「今ここ」 が同じようには思えない、、
とのこと、、さて、まずこの質問の前提にある誤解を明らかにしておく必要があります、、
この質問は、「今ここ」 は 「自分 (個人) にとって都合の良い」 何かで、、楽しさや安楽さ、平和で穏やかさを常に感じていられる状態であるに違いない、、とした誤った前提に基づいているということに気づけるでしょうか、、
個人的な 「幸福感」 を感じる状況こそが理想とされる真実であって、そうは思えない状況というのはきっと 「自分」 が求める 「今ここ」 であるわけはないというのは、全くの誤解であると言えるでしょう、、
実際には、、目の前の場以外に、その瞬間において世界は存在していない、ということであって、
自宅で赤ん坊を前にしているとき、会社の上司はこの世に存在していませんし、同様に、会社の上司を前にしているとき、自宅の赤ん坊もこの世には存在していません、、それ以外に存在していると 「思えるもの」 はその場にない限りにおいて、どんなものであれ結局のところ信念であり、観念であり、思考の紡ぐ物語の域を出るものではないのです、、
これが物事の絶対的な見方というものです、、
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ですから、今この瞬間に現れているものが何であれ、「それ以外」 はないということをしかと観て、「その場」 から離れようとすることなく、徹底的に 「その場」 を生きようとする力、「その場」 とひとつになろうとする意志を、私たちの世界では、「禅」 と呼んだりするのです、、
実際のところ、この態度が大なり小なりの変容を起こすカギになると言えるでしょう (実際には 「大」 も 「小」 もないわけですが)、、
エネルギーの力学上の説明はこうです、、「その場」 が 「個人的に不都合」 だからと言って 「その場」 を避け、「その場」 から逃れようとするエネルギーは、「今ここ」 以外が存在し得ないという絶対的なレベルにおいては機能不全以外の何ものでもなく、、
「今ここ」 がどんな見え方をしているときであっても、「その場」 に帰依し、「その場」 に取り組み、「その場」 以外のどこかがあるという誤解から目覚め、「その場」 を受容することによってもたらされる非二元的な開かれたフィールドへと転換が起きる時、不思議とその場に何かが満ちる用意が整うというわけです、、
特定の経験をしている状態に 「つねにずっと」 とどまろうと頑張るのは苦しみです。
うまくいきません。でも、ひとつの経験と別の経験の違いに主として着目するかわりに、どんな経験にも共通している何かに気づき始めたりすることもあるかもしれません。
収縮した経験でも、思考があっても思考がなくても、気づきながら皿を洗っていても無意識的に洗っていても、、(中略) 在るということ、ここにあるという性質、今にあるという性質、そうなっているという性質は常にあって、それはすべての波の中の水と同じです。
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<ここ・今> は常に至福に満ちているわけではありません。まったく至福どころではないということもあり得ます。
それでも、逆説的ですが、すべてを今この瞬間にあるとおりにし、そこから離れずにいることで、至福 (もしくは喜び、平安、愛、自由) が本当はどこに存在しているのか、何がそれを見えなくしているのかに気づき始めます。
唯一の至福はこの瞬間の中心、まさにここにあるということが分かり始めます。それから、苦しみとは、逃げること、あるいは至福をどこか別の場所 ----- 「外側」 のどこかで-----未来のいつかに探し求めることだということも。 (ジョーン・トリフソン)
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※今日も読んで下さり、ありがとうございます!