その昔、、学生時代で素敵な青春を過ごしつつ、、そのギャップを生きねばならなかった社会人生活で 「あの頃」 の栄光にしがみつきつつ、、「理想の自分」 はこんなんじゃない!あの頃の 「輝かしい自分」 こそ私のあるべき姿なんだーー!!
と、若気の至りをかましてた頃をふと思いめぐらせつつ、、
こうした傾向はそれなりに私たちの日常で起こるものだなと思いつつ、今回のテキストにした次第です、、
というわけで、、
昔のとある新社会人ハリーさん、、「理想の自分」 なんかない方が生きやすくね??笑
いやいや、それよりもまず、、「どんな自分」 が現れようとそれはそれで別段いいんじゃね??笑
と、とある先輩ハリーさんは言うのでした、、
私たちの多くが、、これをしている自分こそ、この人 (たち) と一緒にいる自分こそ、ここにいる自分こそが、くつろいでいて、活き活きとしてて、広がっているからして、必ずや 「理想の自分」 に違いないと錯覚し、、
それらとは対極的なエネルギーの様相、、おそらくは、緊張や収縮や、不安、心配、、そうした感覚を抱いている環境や状況や相手と共に居る時の 「自分」 は、「理想」 からほど遠い自分であると誤認が起きるため、そうした 「自分の現れ」 を受け入れられず、常時、「理想」 へとエネルギーが抵抗的に向けられるといった様相はそれなりに見られる話です、、
なぜ、「理想」 の状態を求めることに躍起になるかと言えば、、そういう状態においては、「自我」 が満足 (安心) するからに他ならないためであり、それとは対極的な在り様は、体感的な不快さ、不安感から、、自我は常にそれを覆い隠していられる状況で以て上塗りをしようとするからなのです、、
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さて、もしここで、確かに、今現れている在り様が、「 (頭の中の) 理想」 と比べたときに自我にとっては満足のいく状態では決してないにしても、それがそれであることを否定したりすることなく、それをどうにかこうにか 「理想」 に近づけようとする強迫的な焦りもないとするなら、、一体そこで、何が起こるでしょうか?
「理想」 よし、「緊張」 「収縮」 「不安」 、、こうした現れが自分として起きていることもまたよし!と 「あるがままの自分」 をただ静かに見守ることができたら、、盲目的に 「理想」 を追いかけて無意識に起き続けていたエネルギーの抵抗はもはや静まり、いわば、そうした 「受容」 の在り様に同調する形で、本来それ以外はあり得ない 「今ここ」 というエネルギーの場において、不思議な力が満ちることも実際あるものです、、
ま、もちろん、抵抗を手放せないにしてもそれはそれで良く、そのことに気づいているだけで、受容性は開かれていると言えるわけで、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!