懐かしのOSHOのある本には、こんな言葉がある、、
禅は、けっして何も約束しない。禅はただ、あなたに 「今」 と 「ここ」 を与える
さて、禅について、「仏教」 という認識は実際のところ誤りです、、大人の事情で?(笑)、いわゆる、仏教の宗派のひとつ、「禅宗」 という枠にくくられる側面は実際ありますが、、であるならば、禅の崇拝対象は、「仏」 あるいは、「釈迦」、さらには、「釈迦の悟り」 である必要があるものですが、、禅はそうしたものを崇拝することはありません、、
ちなみに、禅の伝統的な教えの中で大切にされているものの一つに、こういうものがあります、、
道で仏陀を見かけたら殺せ
この言葉自体、釈迦自らが語ったとされていたり、あるいは、臨在禅師の 「仏に逢うたら仏を殺せ」 がオリジナルかは定かではありませんが、、いずれにしても、言えるのは、、崇拝すべき、あるいは頼りにすべきは、「外側 (二元的な) の仏」 であってならないというものです、、
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では、禅が唯一崇拝するものは何か、と言えば、、当然ながら 「今ここ」 だけなのです、、
「今ここ」 以外の何かが私の世界に現れることもなければ、一度として現れたこともない以上、、これ以外の何が信用できると言うのだ、、とでも言うかのように、、禅は徹底して 「今ここ」 に三昧します、、しばしば禅では、この 「今ここ」 にダイレクトに関わり、「今ここ」 と一つになることを 「禅定 (ぜんじょう)」 などと言いますが、、これが何を意味しているかと言えば、、
「対象」 との距離 (二元感覚) の消滅、、即ち、真実との同化、非二元性というわけです、、
禅は、「真実」 を探しに出かけたりはしません、、彼らの探求に 「距離」 は必要ないのです、、彼らは真実がどこにあるのか、それが何なのかを知っているのです、、
「距離」 なき世界、、真実 (今ここ) それ自体と共に在ること、、そして、真実 (今ここ) そのものを生きること、、これがいわば、真実や悟りを崇拝 「対象」 で終わらせてしまうのではない、、それ自体を生きる在り様というものなのです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!