禅が唯一崇拝するもの | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

懐かしのOSHOのある本には、こんな言葉がある、、

 

 

禅は、けっして何も約束しない。禅はただ、あなたに 「今」 と 「ここ」 を与える

 

 

さて、禅について、「仏教」 という認識は実際のところ誤りです、、大人の事情で?(笑)、いわゆる、仏教の宗派のひとつ、「禅宗」 という枠にくくられる側面は実際ありますが、、であるならば、禅の崇拝対象は、「仏」 あるいは、「釈迦」、さらには、「釈迦の悟り」 である必要があるものですが、、禅はそうしたものを崇拝することはありません、、

 

 

ちなみに、禅の伝統的な教えの中で大切にされているものの一つに、こういうものがあります、、ひらめき電球

 

道で仏陀を見かけたら殺せ

 

 

この言葉自体、釈迦自らが語ったとされていたり、あるいは、臨在禅師の 「仏に逢うたら仏を殺せ」 がオリジナルかは定かではありませんが、、いずれにしても、言えるのは、、崇拝すべき、あるいは頼りにすべきは、「外側 (二元的な) の仏」 であってならないというものです、、お願い

 

 

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では、禅が唯一崇拝するものは何か、と言えば、、当然ながら 「今ここ」 だけなのです、、完了

 

 

「今ここ」 以外の何かが私の世界に現れることもなければ、一度として現れたこともない以上、、これ以外の何が信用できると言うのだ、、とでも言うかのように、、禅は徹底して 「今ここ」 に三昧します、、しばしば禅では、この 「今ここ」 にダイレクトに関わり、「今ここ」 と一つになることを 「禅定 (ぜんじょう)」 などと言いますが、、これが何を意味しているかと言えば、、

 

「対象」 との距離 (二元感覚) の消滅、、即ち、真実との同化、非二元性というわけです、、秘密

 

 

禅は、「真実」 を探しに出かけたりはしません、、彼らの探求に 「距離」 は必要ないのです、、彼らは真実がどこにあるのか、それが何なのかを知っているのです、、

 

 

「距離」 なき世界、、真実 (今ここ) それ自体と共に在ること、、そして、真実 (今ここ) そのものを生きること、、これがいわば、真実や悟りを崇拝 「対象」 で終わらせてしまうのではない、、それ自体を生きる在り様というものなのです、、ダルマ

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星