というわけで、私たちの日常は、良いこと、悪いこと、、様々な出来事によって織りなされています、、
当然ながら、「良いこと」 ばかりが起こることもなければ、自然な流れの中で 「悪いこと」 が起きることもあるでしょう、、
けれども、ここで立ち止まって観る必要があるのは、、「良いこと」 も 「悪いこと」 すべては、「個人の都合」 に根差しているという点です、、
私たちが思い描く 「良いこと」、「悪いこと」 というのは、あくまでも見かけの上で、「個人の都合」 に適っていれば 「良い」 となり、一方で、「個人の都合」 に反していれば簡単に 「悪い」 となってしまいます、、
ですが、「晴れの日」 と 「雨の日」 の例でもわかるように、、「雨の日」 を悪いと信じて疑わない人がいる反面、「雨の日」 に涙が出るほど感謝をする人もいるのと同じように、絶対的に、「晴れの日」 が 「良く」 て、「雨の日」 が 「悪い」 とも言いきれるものではないということが見えてくるはずです、、
即ち、、「個人の都合」 に反して、一見 「悪い」 と感じられることであっても、全体的な俯瞰的視点からすれば、そこに絶対的な 「悪い」 は存在しないという理解に立つとき、、
先の例と同様、、見かけの上で、心地よく不安や恐れの一切ない、「晴れの日」 が一転、、「悪天候」 に見舞われたとしても、別段それが 「問題」 ということもなく、、むしろ、そうした変化こそ、豊かな 「自然さ」 の姿なのだと、、いい意味での 「諦め」 に目覚めることもあるでしょう、、
(ちなみにこれが、仏教で言うところの 「諦観 (ていかん) 」 という領域です)
-----------------------------------------------------------------------------------
ですから、、「良いことがたくさん起きますように」 と願ったり祈ったりするのは、自我 (恐れ) の観点から至極自然なことであるとは言いつつも、、実際のところは、単に機能不全というべきものです、、
(もちろん都合の悪い出来事が起きますようなどと望む必要などありませんが、、)
世界が 「あなたのもの」 ではない以上、、「あなた」 の都合に則った形で事が万時うまく起きるということは土台無理な話で、、いわゆるそうした 「わがまま」 に留まるのではなく、、
「良いことばかり」、「晴れの日ばかり」 を望んだりすることなく、、「晴れ」 にしろ、「雨」 にしろどんな 「自然」 が現れようとその現れを素直に生きること、、禅的に言えば、ひたすらに生きること、、これこそが、、「あるがまま」 を受け入れる生き方、全体性との同調といったところ在り様と言えるでしょう、、
やはりこうした時の締めはあの歌に尽きます、、
晴れて良し 曇りても良し 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり
(山岡鉄舟)
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!