「霊魂論」エチカ詳解174(生と死3)
人間の「死」に関しての数多(あまた)の書簡に興味深いものがあります。14世紀末ヨーロッパのペスト(黒死病)の罹病被災地域では、人々は群れをなして、屡々、波打つように全村あげて半狂乱になって踊り狂ったという死である舞踏 「dance of death」を骸骨の姿で表象しています。人々の間では死の恐怖から逃れるために狂気の集団舞踏の現象を其の有様から其れを「死の舞踏」と呼称しています。15世紀になると,ペストを退散させるお祓の行事がかたちに変化します。一例では1433年のフィレンツェでは車の上に大鎌を持った「死(存在)」が立ち,真っ黒な衣装に骸骨を白く描いた「死者」が墓から顕われ、苦しみ・嘆き・悔いよと歌い、車の前後の従者はシャレコーベを描いた黒い旗と架(はり)をかざし、主よ,憐れみたまえと唱和しながら練り歩いたという逸話が、死を観察し、其の死の意味・其の死の存在の有り無し、必然性が問題になっています。日本においても平安時代後期、洛中に疫病や災害が蔓延し、京都の人々を大いに悩ませた折り、天変地異はすべて御霊(怨霊)の所業と考えられていた当時、これらを鎮めるために夜須礼(やすらい)を代表として各所で御霊会(ごりょうえ)が営まれますが「死」の存在そのものは顕れません。西洋神教と日本神道の死生観の相違は「祭り」の表現に顕れています。
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