『いじめ』という問題は、往々にして『いじめ』をおこなっている本人に『いじめている』という自覚が欠如していることが、悲劇を産む原因とも言える。


今年問題となった激辛カレー教師いじめ事件が、それを象徴していると思う。


いじめた教師側の謝罪の言葉(おおよそ言い訳としか受け取れない)からしても、それは明瞭である。


「前略〜自分の行動が間違っていることに気づかず、彼が苦しんでいる姿を見ることは可愛がってきただけに本当につらいです。どうなっているのかとずっと思っています」〜各ニュース報道より〜


上記は、いじめた4人の加害者たちの中の主導者である女性教員の謝罪文の末文である。


可愛がってきただけに本当につらい、とはふざけているのかとさえ思えてくる。


しかし、おそらく彼女の立場としては可愛がってきたという気持ちなんだろう。


正直言って、彼女は、深い傷を被害者の教師に与えたといういじめに対する真の反省の自覚は無いに等しいだろう。


むしろ、被害者教師に対して正しいことをした、彼の成長のために正義を全うしたくらいの思いがあるに違いないのだ。


彼女の視点からしたら、正当であり正義だったというわけだろう。


そうでなければ、あのような謝罪文を書いたりするわけがない。


私のこの発言を、被害を受けた教師なら賛同していただけるのではないだろうか。


加害者たちは、本当は何もわかっていないと思う。


これが漫画や映画だったら、ヒーローが現れて加害者たちに同じようないじめを繰り返し受けさせて超激辛カレーを羽交い締めにして食べさせれば『いじめ』を受けた人間の真の気持ちを理解させられるかもしれない。


それなら、全く違う謝罪文になったはずだ。


『いじめ』問題というのは、いじめる側がいじめと自覚していないことが多々あるものである。


もし、『いじめ』ていると自覚しながら、いじめを行なっていたら、それは自分自身をも同時に傷つけていることになる。


その代償はきっと小さくはないはずだ。


ずーっと心の中に罪を感じて人生を生きることになるかもしれない。


ただ『いじめ』を行った人たちは、意外にも自覚がない人たちの方が圧倒的に多い。


だから、私自身が中学生二年生の頃に『いじめ』られたと言っても、実際にいじめた同級生たちはおそらく「そんなことあったっけ?」という風にしかならないだろう。


場合によっては「制裁を加えただけだ」という主張すら多いかもしれない。


「真崎は、同級生たちみんなに嫌われている国語教師の味方をして助けた。しかし本当は、自分の国語の成績を上げてもらいたくて自分だけが良い子ぶって教師を助けた点取り虫なのだ。だから、みんなで真崎を懲らしめるために無視してやったのだ」と、こんな風だろう。


こうして、私は同級生たちに疎まれ、嫌われ、憎まれて、完全無視という制裁を受けることになった。


夏休みが終わり二学期が始まった。


きっと一学期末に起きた事件は夢のような出来事で、今までと変わりなくクラスメイトたちとは仲睦まじい間柄が戻っていて楽しい学校生活が始まるに違いないと、私は信じて登校した。


しかし、教室に入った瞬間、期待した自分が馬鹿だったと痛感した。


「おはよう」


私の挨拶に応える者は誰もいなかった。


女子ならともかく男子さえも完全無視だった。


無視どころか誰も私とは目を合わさず、そこに私は存在していないという扱いだった。


一番後ろに座っているクラスの女番長とも言える真知原が、私を睨んでいた。


私は真知原を睨み返した。


真知原は嘲笑ってみせた。


「ざまぁみろ、これでお前はもう終わりだ」


そう言わんばかりの目つきだった。


真知原の背後には筋金入りのスケバンたちが控えていた。


さらにそのスケバンのバックには先輩のスケバンや愚連隊のような輩の存在もあった。


だから、「真崎を完全無視しろ」という彼女たちの号令に同級生が従うのは当然かもしれない。


ましてや、私は点取り虫というレッテルを貼られた、言わば同級生にとっては敵であり悪でもあるわけなのだ。


二学期の始業式は、校庭で行われた。


朝礼が始まるとあちこちから、小石が飛んできて私の背中に当たった。


振り向いた時には、誰もが朝礼台に立つ校長の方を向いていて石投げをした奴は誰なのか皆目見当がつかない。


この石投げは、それからもずーっと続いていくのだが一度も証拠を掴むことはできなかった。


複数いたことは間違いないが、投げた生徒を目撃しなかったことは結果としては、とても良かったと思う。


特定出来てしまったらその人を憎んだかもしれない。


もう一つ助かったのは、小石だったことである。


あれが拳並みの大きさなら、打ちどころによっては大怪我をしたかもしれない。


しかし、後ろから狙うとは卑怯者め、と当時の私は思った。


だから、振り返った時に何も関係の無い生徒を睨んでしまったかもしれない。


教室や廊下では消しゴムが飛んできて、野外では小石だった。(消しゴムは、小さく刻んでいた)


しかし、それよりももっと辛くて苦しいのは完全無視という制裁である。


教室で誰に声をかけても無視されて、私は存在しないという扱いになってしまった。


授業中どころか教室にいることが苦痛でありまるで地獄にいるような気持ちへと変わった。


一瞬でも早く放課後になること願った。


部活動の剣道の時間になれば、いつも通りの生活がやってきた。


剣道部にいる時間だけは日常と同じだったからだ。


ただの一度も私は、剣道部内では、いじめも無視もされず、部員たちと交流を深め稽古に没頭することが出来た。


しかし、家に帰ると明日がやって来る恐怖で寝つけず、ついに神様に祈り始めた。


どこか特定の宗教というわけではない。


宇宙、いや全てを存在せしめている神とでも言えばいいのだろうか。


これも映画の影響と言える。


この当時、神観に関して、私に多大な影響を与えたのは主に二本の映画で、『十戒』と『オーゴッド』である。


『十戒』はイスラエルの預言者モーゼの物語で、劇中モーゼは神と直接対話をして、神より『十戒』の戒めを授かる。


祈願というよりは、神と直接対話することが出来る、ということがなんと凄いことだろうと実感した。


『オーゴッド』は、コメディ映画だが、聖人でも宗教家でもなんでもないとあるスーパーの副店長のもとに、神が人間の老人の姿になってコンタクトを取ってくる話である。


お爺ちゃん神様は、主人公の前でジョークを言ったり、いたずらしてみたりで爆笑の連続である。


しかし、このお爺ちゃん神様は、底抜けに深い深い愛情を持っている本物の神様のように私は感じてしまった。


「モーゼも仏陀も孔子もマホメットもイエスも皆、ワシの子供達だ」


特にこんな風なセリフをお爺ちゃん神様が、話す何気ないシーンで私は鳥肌が立つほど感動した。


私感だが、宗教というものは、あくまでも人間側から天を見つめた視点で創作されたものであり、国や民族や風俗、風習、言語が違えば捉え方や主張が各々違ってくるは当たり前のはずである。


この宇宙の全てを存在せしめる、あるいは創造した主(それは神でもオーナーでも名前はなんでも良いと思う)からすれば、人類は皆、子供のような立場であるというのが凄く納得したというか、しっくり言ったのである。


私はどこかの宗派に属していたわけではないので、お経を読んだり、教会で祈ったりという経験は一度もなかった。


私が、映画で魅了されたのは、天に向かってモーゼが神と対話したり、お爺ちゃん神様とスーパーの副店長が、祖父と孫のような関係で会話を楽しんでいることに深く共感したのである。


二学期になってから、私はクラスではずーっと一人ぼっちである。


誰に声をかけても無視されて、存在しない扱いになってしまっているために、胸が張り裂けるような苦しみと悲しみが止めどなく襲ってきて気が狂いそうになっていった。


教室には1秒たりとも居たくないほど、辛い日々が続いた。


もし、『いじめ』られたら自殺をするというニュースがこの時代に頻繁に報道されていたら、その選択を私も考えたかもしれない。


しかし、私が選んだのは神に相談するという方法だったのである。


よくいじめられたら、なぜ親や先生に相談しないのか、というようなことをメディアでも言われたりするが、その立場にならなければきっとわからないだろう。


自分の事情や気持ちを人に上手く伝えられない学生時代、しかも揺れ動く思春期の頃にデリケートな問題をスルスルサラサラと相談出来ると思い込んでいる大人の方がおかしいのだ。


教師同士のいじめすら表になかなか出てこないのにである。


私が選んだのは、夜一人で部屋に閉じこもりひたすら神に祈った。


いや、その日の出来事を神に事細かく報告して相談した、というのが正しい。


確かに剣道部では、いじめは無く普段通りなのだが、稽古は半端なく厳しいのでそのことについての会話や相談などじっくり出来るものではない。


だから、神と語り合うしかない。


いや、私に対して神は何も話してはくれなかった。


だから、一方的に私は手を組んでひたすら独り言を言い続けたということになるだろう。


部屋の外に決して声が漏れないように、とても小さな小さな声で、ずーっと天に向かって喋りまくっていたわけである。


「神さま、モーゼの時のように、答えてください」


「オーゴツドのようにお爺ちゃんになって現れてください」


そう心で叫んでも、そんな奇跡は全く起きなかった。


ただ、それを一方的に報告して相談しているだけでも気持ちが楽になっていった。


そして、祈っている?間は、ずーと泣いていた。


泣けて泣けてしょうがないくらい泣いた。


泣くこともなぜか、気持ちを楽にする。


気がつくと夜が明けていることもあった。


だから、長い時には5、6時間ずーと神に対して報告し相談していた。いや、助けてくださいと必死にすがった部分も大きいだろう。


この話に誇張はない。


断じて無い。


真実である。


私はいじめられて、私が信じる神に相談するしか乗り越える方法も生きる道も無かったのだ。


しかし、私は凡人なので何一つ、神から啓示が降りることもなく、解決方法も見出せず、相変わらず、教室で私は完全無視され続けていた。


それでも神に祈ることで、翌日学校に行く勇気だけは与えられたような気がした。


もちろん、この二学期の前半は映画撮影どころではなかった。


一日いちにちをなんとか学校に行って授業中耐え忍び、剣道を懸命に稽古して無事に帰り深夜に神に報・連・相するのが精一杯だった。


そんな時、父から衝撃的な『宣言』を聞かされることになった。


以下次回。




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過去の公演
『短編劇&スクリーン上映』
銀サギ特別編
〜つつじヶ丘児童館ホール〜


☆終了 満員御礼☆

 

[キャスト]

 

★短編劇:
藤坂みのる    竜ノ宮いか    ねこまたぐりん    真崎明

★映像:
河辺林太郎 赤井ちあき 星ワタル 竜宮いか ねこまたぐりん 真崎明
 
主催】劇団真怪魚
 
 
【公演日程 場所】
 
9月22日(日)
15開演
 
調布市つつじヶ丘児童館ホール
 
 
 
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