死にたいと思っている人がいるなら。いじめられて死にたいと思ったら。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 死にたいと思っている人がいる。だれでも、長い人生の中でそんな時期があるものである。特に多情多感な思春期には、よくある話である。しかし、多くの場合には、仮に屋上にたっても、その柵をこえたとしても、下をみたら、恐怖がでてきて、思いとどまることがおおい。しかし、中には、それでも、そこを飛び越えて、自殺する人がいる。突き落とされるのではなく、自分の意思で落ちるのである。自律的に引き返せるのならいい、しかし、その一線を超えられたら、どうすることもできない。ひとりで黄泉の中へ、落ちていこうとするのである。ある意味、その勇気は、大したものである。だから、本当に、自分の意思で行こうとする人には、絶対に、引き留めて、その勇気をたたえ、それをこの世で活かせと言ってあげなければならないのである。自らの意思で、あの世へ行ける力は、すごいものである。ただ、空しいのは、その力が見られるのは、その一瞬のその一点に立たないと、わからない。その人がそれだけの力をもっているかどうかはその時でないとわからないからである。たぶん、ひとりで、何の理由もいわず、寂しくその場所へいくはずである。せっかく授かった命である。その両親が人生をかけて出会い生んだ子供なのである。だから、死んではいけない。使われていない未来を自分で終わらせる必要もない。生きたくても、明日を生きられない人もいる。強制リセットされてこの世を去る人もいる。

 

 

 教師という職業も、大変である。当然に、クラス全員を見極めることなどできない。世の中、フラクタル構造はあたりまえ、社会の構図と学校の構図は相似形でほぼ同じ、そして、学級という閉鎖空間もまた、企業の組織空間とも同じである。ある意味、クラス担任の先生が、その組織空間のマネージャーであるといえる。30人や40人も人がいれば、それぞれの個性がでてくる。いじめはよくないといっても、どんな社会でも、かならず相対化、順列がおきる。できる人とできない人、その学校の価値基準によって、人はかならず分級分類される。サラリーマン社会、組織社会と同じである。いじめをなくすには、公権力が必要なのである。人間は基本的にわがままで、自分の都合のいいように生きる。エゴが優先する。それが当たり前。会社組織でもいじめはある。パワハラ、セクハラは、程度の差はあり、どこでもある。しかし、それはある程度、社会が許容できる範囲内でとどまる。それを逸脱すれば、アウトになる。多くの人があつまれば、そこに無意識的な規範が生まれる。社会的な視線が注がれるからである。N数がふえれば、その集団の意思は正規分布を形成するのと同じで、ある程度の規範が自然とでき上る。アウトローでないかぎり、多くの人はその規範を守りいきていくことになる。

 

 

 世の中には、自分勝手な人がいる。エゴのつよい、わがままな子で、集団の中にいても、自分が一番と思う人である。自分の欲望を優先する人である。社会にいてもいるのだから、学校の中でも確実にいる。先生が一番遭遇したくない人達である。しかし、そういう人がいるのもまた事実である。これはどうすることもできない、人間の性である。そういう人が数人あつまれば、普通の子は餌食となり、感受性の強い正義感のある子とは、敵対関係となる。自己主張ができない子供がいれば、確実にいじめられる。いじめるなといっても、いじめられるのは必定である。学校という閉鎖的な空間で、未熟な子供が集まれば、物事の道理がまだわからないから、いじめはエスカレートするかもしれない。先生も、見て見ぬふりをするかもしれない。事がエスカレートして、自分の生活環境まで影響するか、日々の日常性がくずれる事態になって、初めて、事の重大さにいじめた側は気づく。視野が狭いから、事が表ざたになり、社会の許容範囲をこえないかぎり、それはわからない。若い女性の先生が、そんな陰湿ないじめのあるクラスに赴任したらどうなるか、まず、ノイローゼになるはずである。今までとは異質な世界をみて、自分の無力、人間の限界を知るからである。どこかで、開き直りが必要だと思えば、教師が続けられるが、純真な先生であれば、辞表をかくかもしれない。世の中は、100%の性善説などありえないし、100%の性悪説もない。それでも、100人いれば、とんでもなく悪い人は5人ぐらいはいる。先生も自分の都合があるし、自分の世界があるから、どこかで、この世とはこんなものと思い、時間が経過するのをまつ心境になるのかもしれない。

 

 

 どんな社会でも、いじめる側の人間は、基本的にわがままで、我欲がつよく、ずる賢い人がおおいから、弱い人間、反撃しない人間、弱った人間を対象にする。戦ってくる人間で勝てない人には手出ししない、基本的に、自己中心的だから、長い物には媚へつらい、弱いものには、自分の欲望の憂さをはらす人である。卑怯な人である。大人であっても、DVをする男、子供や女性に手を出す男は、その点、最低な人間である。先生がいくら、いじめはよくない、みんな仲良くといっても、いじめる人が恐怖と不安を感じるくらいに彼らの日常性が崩れない限り、いじめはやめない。そんな人間社会の構図に絶望したら、だれでも、こんな世界とはおさらばしたいと思うのもむりはない。自殺が止まらないのもやむを得ない。自分の中にある正義がゆがめられるのである。自分の力では不正はとまらない、その時、無言の抵抗を行うかもしれない。

 

 

 基本的に、自由とは、わがままではない。自由は獲得するもので、与えられたものではない。ほとんどの人は自由をはき違えている。封建主義で自由が抑圧されたから、ある程度の自由を権利として獲得した。行き過ぎた自由は乱れをうむ。自由も秩序をもった自由でなければならない。無秩序の自由は、暴動や乱れであって、それは自由ではない。それは破壊や破滅をともなう。もし、天安門広場で、渋谷でおきたハロウィーンの暴動があったらどうなるか、軍隊がでて一瞬で鎮圧されたはずである。学校でおきるいじめも、それと同じなのである。ある程度、強制力が必要なのである。わがままで暴走する子供の乱れを抑えてあげる必要がある。それが教育者のあるべき姿である。その勇気がなければ、自殺する子供を立ち止ませる事などできない。世の中は不平等で格差社会である。だれでも、自由に生きることなどできない。不自由な自由を教えるべきである。不自由な自由の中で、できるだけ自由を獲得していきる。そのために、何をすべきかを考えて生きろと教えるべきである。自由は金で買える。だから、金持ちになる。その論理も正しい。そういう生き方もありである。

 

 

 日本人には日本人のモラル、気質があった。だから、集団規律はある程度、自発的にまもられた。田舎にいけば、鍵などかけない。人が家に侵入して、どろぼうを働くようなものはその村にはいないからである。しかし、家に鍵をかけないのは、どろぼうしてくださいといっているのと同じだという文化を持った人が多く日本にくれば、日本の文化的な倫理感や規律観は崩壊する。そうなれば、警官の公権力は中国とおなじように、強くしなければいけないだろう。不審者がうろつけば、職質権限も多くなるはずである。何かあれば、公務執行妨害罪で引っ張っていくだろう。多様性はいいことだ。しかし、それは規律や秩序があってのこと。後はその程度がきついかよわいかである。

 

 

 いじめをなくすのは、簡単である。いじめた人、基準をこえていじめに走った人の名前を公開すればいいだけである。それがどんなことになるのか、ある意味、それが公権力になってくる。暴力はよくない、暴力をふるったことが、情報公開されれば、社会的にアウトになるからである。高速情報ネットワーク時代であれば、基準をこえていじめに走った人の名前を公開すれば、それが抑止力になるはずである。自分のわがままで人をいじめたらどうなるのか、そのリターンを知らしめることである。もちろん、そんなことはしないだろうが、たぶん、そのくらいのことをするぞという脅しをかけなければ、エゴがつよく、自己中心的になりやすい若者は、その恐怖がわからない。もし、いじめて、相手が死んだら、どうなるというのか、誰がいじめたのか、今なら簡単にわかる。それをネット上にばらまかれたらどうなるのか、そうなったら、加害者の未来もおわりになる。人生は長いようで短い。この世は不条理に満ちている。死にたいと思うこともあるだろう。いずれは死ぬのだから、わざわざ、死に急ぐこともない。若者には頑張ってもらいたいものである。