この間まで新人が、気が付けば定年 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
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 人生は、再現のないドラマ、当たり前だが、殆どの人が、自分を客体視などできないから、自分目線で人生をみる。精神と肉体は、連動しているから、老化がはじまらなければ、自分には変化がないと感じてしまう。意識はそうだが、時間は確実に経過していっている。10年経過すれば、あきらかに、自分が生きられる時間は10年減ったということになるからである。老化の意識がなければ、自分の変化は、まわりとの関係でみるしかない。しかし、まわりも自分と同じように老化が進んでいるから、なかなか、変化はつかみづらい。

 

 

 今は、非常に便利になった。もし、私が20代で独身だったなら、1LDKのマンションにすむことだろう。もし、会社が都心部にあれば、歩いても、30分-45分ぐらいのところに居を構える。満員電車に揺られるのが、意味がないからである。大体、今なら、2-3件のコンビニが近くにあるはずである。電子オーブンレンジと冷蔵庫と湯沸かしがあれば、生きていける。テレビとネット環境があればそれでいい、そして、自動洗濯乾燥機があればもう完璧である。ロフトベットを置き、簡易机をおけば、知的生産の場としても完璧である。大抵は、冷暖房が完備しているし、最近のマンションなら騒音対策も十分だから、自由に自分の世界を持つことできる。

 

 

 もし、そんな環境にずっといたら、どうなるか、5年、10年など、あっという間に過ぎてしまうに違いない。仕事が忙しければ、出会いの場も失われてしまう。仕事のストレスとある意味、居住環境がいいため、仕事以外、他人との関係で、わずらわしさを感じたくはないと思うはずである。孤独がいいとおもってしまう。ますます出会いの場が失われる。今の居住環境がいいため、そこに、もう一人、人を入れることはできないと思ってしまう。結婚か同棲か、そうなれば、ここから出て新しい居住環境を作らなければならない。いままでだったら、自分のルールでいきてこられても、他人がはいれば、他人のエゴを共有しなければならない。エゴの強い男女が、結婚して共同生活をして、2-3年もしないうちに離婚する。他人のエゴが自分の領域に侵入するのが、耐えられない人がいる。しかし、それも、若さがあるうち、だけの話である。どこかで、孤独が耐えられなくなる。家族がほしくなる時がくる。やがて、老化がはじまれば、ひとりの空虚を埋めるものが必要になる。それがあの世の論理ということになるかもしれない。

 

 

 若さはどこかで消える。いつまでも、若いとおもっているが、やはり、いつかは、終わりが来る。諦めがでてくる。ひとつのくぎりが、昔から言われている還暦である。50代も55歳から、変わってくる。だれでも、お嬢さんから、お姉さん、おばさん、ばあさんに、変化する。男であれば、お兄ちゃん、お兄さん、おじさん、じいさんに変わる。若い時は、少年、青年と、寅さんならいうかもしれない。本人は連続した時間の流れの中にいるから、いつ変化したのかわからない、しかし、30年ぶり、40年ぶりにあう友人をみれば、だれでも、爺になったと思う。相手がそうなら、自分も同じである。爺になったのである。

 

 

 ある意味、サラリーマンは、自力では生きていけない。会社の中で、飼われている存在である。会社のルールの中でいきて、会社の中で年をとっていく。そして、定年を迎え、会社から去る。自分で何かをやろうと思っても、なかなか思うようにはいかない。看板があるのとないのでは、世間の受け取り方が違うからである。よほど、能力や才能や個人的な実績がないと、社会的が需要する個人的な才能と実績がなければ、まず、埋没していく。こんなはずじゃなかった。そう、誰もがそう思う。還暦をすぎて、65歳、70歳になれば、体力がなくなる。仏壇のろうそくと同じである。何時消えてもおかしくない状況となる。80歳までいきれば、ラッキー、90歳まで生きれば尚ラッキーである。一度きりの自分だけの人生である。どう終活していくのか、自分で自分なりの答えを見つけ出さなければならない。