●「本に載せたよ~」の報告墓参行の旅 仁科盛遠、山県昌景、飯森春盛、樋口兼光 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

北アルプスのふもと、木崎湖(長野県大町市)のほとりに眠る仁科盛遠。

我が家から北へクルマで30分ほど。

承久の乱で後鳥羽上皇方に味方するも敗れ、俱利伽羅峠の戦いで戦死したとも。

その盛遠の髻がどういう経過でここにもたらされ埋納されたかは不明。

石柱に囲繞され、森城跡に墓塔が立っている。

森城は戦国時代の仁科氏の詰めの城。

祖先にあたる盛遠の墓塔が立っていたゆえに、ここを城としたのだろうか。

今は仁科神社の境内。

城跡の杉木立の森が湖に映る姿が変わらず美しい。

昔は湖水浴で賑わった湖岸だったが、最近は静かな深山幽水の美しい湖に。

 

北へ。

糸魚川・静岡構造線(フォッサマグナ)に沿って、木崎湖・中綱湖・青木湖が南北に並ぶ北安曇の仁科三湖に沿って。

 

戦国時代、北安曇の国人衆が上杉方になびくを警戒した信玄は、山県昌景を派遣して徹底的な強圧策に出た。

対して、飯森城主・飯森盛春(春盛)は徹底抗戦。

 

しかし敗走、いったんは越後に逃れるも小谷村の平倉城に戻り、再び戦った。

山県勢の猛攻に最後の全員全滅まで戦い抜き、壮烈な討ち死。

ここが城兵全員幼い男児までなで斬りにされたという「切った屋敷」の地。

後方が平倉城。去年冬に撮った。

盛春の墓が、小谷村の玉泉寺にあると知り詣でた。

 

玉泉寺は標柱のみ。

かなりの坂を登ったところの広い墓地に、春盛の立派な墓所が忽然と立っていた。

ご子孫の方が整備したようだ。

「平倉城主盛春公後裔一族」と刻まれていた。

武田の先鋒軍団・山県隊に壊滅された盛春はじめ信濃衆…、400年前のこととはいえ、我が心境は複雑だ。

 

山県昌景は、討ち死にした長篠の地に眠っている。

「昌景、あすはそちの旗を瀬田の橋に立てよ」との、信玄の遺言命令をついに実現できなかった。

「三人とも『負けても負けぬ三十二将星列伝』に載ってるよ」

哀悼。

 

小谷村まで来たならば、すぐ北は新潟県。

そして西へ行けば、富山県。

俱利伽羅峠はすぐそこ。

と、一気にポンコツ車(最近車検も通った)を古戦場へ飛ばす。

古戦場の為盛塚には、平為盛(清盛六男)を討ちとった樋口兼光のことが刻まれている。

「為盛奮闘するも源氏の部将樋口兼光に討取らる…」

さらに道の駅・源平の郷には「兼光進軍の碑」が。

 

ここの道の駅では、巨大な火牛がみもの。ぜひご覧あれ。

兼光さんの伊那谷の墓所はつい最近行ったばかり。

いい林中の墓所だったなぁ。

 

実はところで。

富山県と石川県の県境までわざわざ来たのは、何を隠そう(カクシテナイガ)、この近くに平知度(とものり・清盛七男)の首塚があると知ったから(俱利伽羅峠の合戦で戦死)。

クリカラ蕎麦を食したならば、いざ探索に、次回。

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    居並ぶ三十二将星は以下のごとくにて候…      

   中原兼遠  樋口兼光  佐藤継信・忠信兄弟  曽我祐成・時致兄弟  

   源義経  平景清   仁科盛遠   香坂高宗

 

   諏訪頼重  板垣信方  鬼小島弥太郎  武田信虎  秋山信友  山県昌景  

   渡辺金太夫照  武田勝頼  織田信忠 二木重高  小笠原貞慶  芋川親正

 

   薄田兼相(岩見重太郎)  戸田康長  山村良勝  石川康長  小笠原忠真  

   鈴木伊織  恩田民親  藤田小四郎  高杉晋作  山岡鉄舟

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