「あまりに悲惨な事実がつづくので、ぼくは書き続けるのに気が重い。
読者諸君だってそうにちがいないと思うが、ぼくはがまんして書いています。
がまんして読んでいただきたい」
海音寺潮五郎氏は「武将列伝 武田勝頼」で、勝頼の最期の逃避行についてこう書き記している。
その心情は、今も痛いほど伝わってくる。
ブロ友の武るるさんの、勝頼の最期に関する一連の綿密な記事を拝読している。
「芍薬塚」のことを初めて知った。
……天目山で最期を迎えた勝頼は、一子信勝らとともに自害、
墓所は景徳院となった。
▲景徳院の墓所。写真左は、左から信勝、勝頼、北条夫人の墓塔。
写真右は、三人の没地蔵尊。胴が埋葬されたという
勝頼には信勝の下にもう一人、2歳になる男児がいたという。
その子の塚が笛吹市の「芍薬塚」だという。
このあたりという場所を探したがわからない。
二人の方に尋ねたが全く知らないという。
すると、「芍薬塚ですか、分かりにくいですが…」と、三人目の方が丁寧に教えてくれた。
助かった。
勝頼は新府城から落ちのびる際、2歳のわが子を家臣の渡辺加兵衛に託し、密かに匿わせたという。
加兵衛は自らの領地・鎮目村(現笛吹市内)で遺児を育てたが、翌年亡くなってしまった。
説明板が立てられていたが、かすれていてほとんど読むことは出来なかった。
勝頼の逃避行は哀しく辛い話が多い…。
拙著「負けても負けぬ三十二将星列伝」で私は、哀しい話もさることながら、
「決して愚将凡将にあらず!」
と、勝頼の、特に長篠合戦以降の前向きな姿勢を高く評価して書いた。
勝頼は、もう少しで信長と一合戦できたのに…。
信長も恐れていたのに。
以下、拙著「勝頼伝」の冒頭部分です。
ご一読いただければ幸いです。
◆
勝頼の評判・イメージは悪い。
父・信玄や信長と比較され、雲泥の差である。
長篠の古戦場を訪ねると、ひどいことに武田軍の陣地跡は「信玄台・信玄原」などと名付けられている。
勝頼が総大将だったのに。
とはいえ、かくいう私も、
「勝頼、家督相続→勝頼、高天神城を攻略→勝頼、有頂天となる→よって長篠合戦大敗北→以来自暴自棄・無策→高天神城救援せず陥落→武田方に離反者続出→武田滅亡」
という漠然とした流れで、勝頼を「愚将・凡将」と思い込んでいた。
ドラマなどに登場する勝頼は傲慢・無能に描かれていたことが多く、その影響も大きかった。
▼長篠古戦場の、勝頼本陣跡(医王寺)
一例を記すとこんな感じか。
………長篠の合戦真っ最中、劣勢の状況を憂慮した重臣たちは口々に諫言する。
「殿、敵の柵と鉄砲には何か仕掛けがござりまする。味方に引けの合図を!」
「鉄砲なんぞ一度撃てばおしまいじゃ。恐れることはない。我が無敵の武田騎馬隊が柵の一つや二つ破れなくてどうする!」
と、一笑に付す愚将・勝頼。
ところが結果は惨敗。
「無能な愚将」のイメージを決定づけているといってよい。
しかしほんとうに勝頼は愚かな凡将だったのだろうか。
(中略)
勝頼は長篠の大敗を猛省した。
そして武田軍団の根本的な再建策を練っている。
たとえば…。
長篠合戦直後の家臣通達では、
「これからは鉄砲肝要。長槍よりも鉄砲を撃てる足軽を育てよ」
「弓鉄砲の鍛錬をしていない者を戦さに連れて来てはいけない」
また軍事の「各々ガ存ジヨリノ手立テ」を上申せよ、と家臣に意見具申を求め、更に財務担当の御蔵前衆に諏訪の商人などを抜擢、財政の刷新をはかるなど、かつてない革新的な策を積極的に進めているのである。
そして家臣通達の第一条では、この準備は「来年尾張・美濃・三河へ進軍、信長と干戈を交え武田家興亡の一戦をするがため」と明言している。
勝頼は消沈するどころか、信長に対して復仇の大兵を起こさんとただならぬ決意をしている。………
「勝頼伝」、ぜひご一読を!
どうしてもこういう話に惹かれてしまうんです。
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