|
カテゴリ:みちのくの歴史
奥州藤原氏と言えば?世界遺産に登録された平泉文化を作った人・・・
そして、その三代目が源頼朝に攻められて滅ぼされた・・・(かなりハショってますがw) とまぁ、その位ご存知な方はかなり詳しい人だと・・・ワタシは理解しています。 現在から時を遡る事、900年ほど・・・ 現在の北東北と呼ばれる地域では、アテルイの戦いが終焉し、朝廷の律令制度に組み込まれてから200年ほど経った頃です・・・ 200年経ってもまだ・・・蝦夷の民はエミシ(蝦夷)、と蔑まれていたようです。 当時、現在の宮城県南部、亘理郡亘理町に・・・まぁカンタンに言うと?朝廷から任命された役人の藤原経清という人が居ました。 奥州藤原氏の築いた文化の礎となっているのは、主にこの人の時代が背景になっている・・・と私は思っています。 藤原経清は、現在の岩手県南部を拠点とする土着の豪族、安倍頼時の娘を嫁にもらっていました。 実はこの藤原経清こそが、奥州藤原三代の祖となる、藤原清衡の父なのです。 つまり・・・奥州藤原氏には、安倍の《蝦夷(エミシ)》の血が入っているのです。 なので、「亘理」と聞くと?何か特別な場所の様に私は感じてしまうのデス。 実際には特別なことはナイんですが(^_^)・・・いろんな書物の中で「藤原経清は亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称された、・・・・」という記述から、この人は在庁官人(朝廷から官位を与えられ、役職を委ねられた役人)だったことがわかるのです。 いわば、経清の担当する地域の中心省庁が亘理にあって、亘理で暮らして居たのでしょうね。 当時、【陸奥国(現東北地方)は面積が広く、郡の数も飛び抜けて多い。かつ陸続きで蝦夷に接する辺境で、軍事的衝突が頻繁におきるため、・・・】と言われており・・・意味わかりますか? 「蝦夷に接する」とは、当時の朝廷が支配できていなかった地域に接している、という意味です。 陸奥国(現北東北地方)はそういう辺境である、と言われたんですね。(もちろんそうだったでしょうね?) つまり・・・当時の北東北は“国の枠の外”にあった【外界】と言える地域だったわけです。 かなり端折りますが・・・その後、源氏の棟梁、源頼義が陸奥守(むつのかみ)として多賀城(宮城県)へ赴任しました・・・陸奥守とは・・・まぁ東北州知事とでも言いましょうか? そして、「奥六郡」と呼ばれた 胆沢、江刺、和賀、紫波、稗貫、岩手、の六郡(現岩手県の南部)を治めていた安倍氏を滅ぼそうと企てますが・・・ 源頼義赴任前にも、前職の陸奥守藤原登任(なりとう)が征夷(蝦夷の安倍を討つ)を試みますが、この人は元々貴族で歌人・・・鬼切部の戦いで安倍氏の長男、貞任率いる軍勢に簡単に討ち破られます。 そして・・・官人であるハズの藤原経清は安倍側に付くのです。安倍氏は奥様のご実家だというだけではなく、安倍氏側の正当性を理解し、征夷が理不尽だと思っていたのではないか?という歴史ロマンを感じます。 ちなみに・・・鬼切部とは、現在の宮城県大崎市鬼首(オニコウベ)の誤記であると思われます。 鬼切部の戦いの後、・・・・またまたハショリますがw 恩赦などがあり、敵に組した藤原経清も赦されて元の官人に戻り、陸奥守となった源頼義の配下へ就きました。 赴任した源氏の棟梁、源頼義はなんとか安倍氏一族を葬ってやろうと(ワタシの妄想ですが)陸奥守の任期であった五年を国府多賀城(宮城県)で送りますが・・・安倍氏は常に低身低頭、絶対に逆らわず、常に頼義をもてなし、贈り物を絶やさずに「よゐこ」にして?陸奥守にして武門の棟梁である源頼義の任期満了を迎えることが出来たのです。 安倍氏の棟梁、安倍頼良(よりよし)は陸奥守としてやってきた源頼義と名前が同じ読みをすることを配慮し、頼時(よりとき)と名を改める事までしていました。 しかし・・・安倍氏の苦労は報われることはありませんでした。 任期満了で帰任の途に就いた源頼義一行が、胆沢城(岩手県南部)から国府多賀城へ戻る際、阿久利川畔で露営した際、「何者かの夜襲を受け、人馬が殺傷される」という事件が起き、安倍頼時の長男、貞任の仕業であると断定された阿久利川事件です。(コレは明らかなでっちあげの事件です。詳細はリンク先で) でっち上げの事件を起こし、源頼義は安倍貞任の身柄を差し出すように要求しました。 頼時は「人倫の世にあるは皆妻子のためなり。貞任愚かなりといえども、父子の愛は棄て忘るることあたわず」という名言を吐いて、貞任を差し出すことを拒否し、さらに衣川関を閉じ、奥州街道を封鎖しました。 歯を食い縛って恭順の姿勢を貫いて来たのは・・・源氏の棟梁を敵に廻したらどうなるか、わかりきっていたからこその我慢だったハズ。 しかし・・・「ここまで汚い手を使うのか!」(しかも?源頼義の任期中にはなにも悪い事をしていません)たとえ一族が滅びようとも、こんな汚い男に屈するものか!!という頼時の覚悟は察するにあまりあることです。 ここから前九年の役は激しい戦いへと入って行きました。 北東北の民は・・・アテルイの戦いに次いで、またしても国家を相手に戦をすることになりました。 これを大河ドラマ化したのが「炎立つ」です。原作は盛岡市在住の作家、高橋克彦さん。 原作を読んじゃうと・・・?やっぱりテレビは面白くなかったデスが・・・(^_^;) デ・・・続きはまた書きますが(^_^;) 平泉文化が生まれるまでにはまだまだ・・・たくさんの血が流され、惨い戦が続くのです。 亘理との関係については・・・たぶん宮城の人もあまり知らない? 今日は宮城県南部の亘理と、奥州平泉のかかわりについてでした。 いつもコメントありがとうございます!
《火怨》と《炎立つ》の二作品を読むと、東北の歴史が良くわかります。 ニッポンの中の東北(陸奥)・・・世界の中のニッポン・・・少し似ている気がするワタシです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[みちのくの歴史] カテゴリの最新記事
|