広島県立文書館で
『幕末維新の広島と古文書』を見てきました

文久三年五月十日が攘夷決行日と定められ
広島藩は四月から沿岸7箇所に砲台を築いて海岸防御を固め、同時に村を自衛する為に農兵を組織します

武士が領民を守る幕藩体制は揺るぎ始めています


広島藩は第二次長州征伐頃までは
中立の立場で
幕府の出兵命令を拒否していましたが

二度の征長で広島は前線基地となり
幕府軍の本営がおかれ
諸藩の兵も集結し数万人が領内を通行しました

その為、各村の役人や領民に軍馬の宿泊や輸送や物資調達の要請があり、また多数の農民や軍用夫が強制的に駆り出されました

また第二次長州征伐では佐伯郡(安芸口)が戦場となり住民が大きな被害を受け、長州藩との行き違いで交戦寸前となったりしました

また廃藩置県後には
藩主の江戸移住に端を発した反対運動や豪商・庄屋・役人襲撃騒動が起こったのは(武一騒動)
新政府が民衆の幕末の負担を帳消しにし、さらに困窮が深まるという不安があったからと---

政治史だけでは見えない史実ですね
(庄屋などの村役人は、これらに対応して多く文書を作成する必要があり今に伝えられています)