かなり、ブログの更新をサボってしまいました・・・
ブロガーとして、ブログを更新し続けるという責任を果たせず、申し訳なく思っております…
『西郷どん』も物語がかなり進んでおり、先週は蛤御門の変が描かれていました
このブログでは、斉彬死後の薩摩藩の情勢について話を進めておりますが、引き続き且つペースを上げて参りたいと思います
さて、斉彬は、今際の際に異母弟久光の息子忠義を後継者に指名実父久光に後見を委ねたのですが・・・
事態はそうすんなりとは行かなかったのです
何故かといえば、江戸高輪藩邸に隠居していた先代藩主斉興が、わが子逝去の報を受けて、薩摩に戻って来ることになったからです
斉彬との深刻な確執があった斉興は、わが子に藩主の座を譲った後、なかなか国許に帰ることは出来ませんでした
斉彬が江戸出府で留守の時、国元に斉興が居た場合、何かと藩政改革に待ったをかける可能性が想定されており、それ故に彼は国元での隠居生活が許されず、江戸での退隠という形になったと思われるのですが、参勤で国許に戻ったまま、斉彬が亡くなった異常事態収拾をすべく、急遽薩摩に帰国することが決まったのです
推測を逞しくさせて頂くならば、隠居再出馬の背景には、当時の幕政を差配していた井伊政権の意向があったと思われます
生前の斉彬は、将軍継嗣問題における、一橋慶喜擁立派の参謀格であり、紀州藩主徳川慶福派の筆頭であった井伊直弼との間に、激しい権力闘争を繰り広げていました
井伊が大老として全権掌握を果たした結果、慶福の次期将軍擁立が決定これに異議を唱えた一橋派の面々が隠居慎等の処罰を受けたことで、当時国元にいた斉彬にも何らかの沙汰が下る可能性は、極めて高かったのです
朝廷守護を目的とした率兵上洛(井伊政権の専横に抗議する)を企図していたとされる斉彬が急死したため、彼への処罰という実力行使はなかったのですが、反井伊の姿勢を貫いていた薩摩藩の対する幕府の警戒と冷視線は変わることはありませんでした
『このままでは、薩摩藩は危うい』
と斉興が危機感を懐いたのは無理からぬことであり、そうした隠居の思惑を知悉していた井伊大老から、何らかのアクションがあったのかもしれません
即ち、薩摩藩の藩論を反井伊から親井伊へと転換させることで、亡き斉彬が行った反幕府運動については不問に付すという言質を得た斉興は、すぐさま国元に帰り
『幕府に逆らうこと等、言語道断薩摩は中央政局に関与してはならぬ』
と強権を発動
既に新藩主後見に内定していた久光を押しのけて、自らが孫忠義の後見の座に就き、藩の実権を掌握したのです
当然ながら、断じて認めていなかった亡息の富国強兵政策は全て中止薩摩藩は従来の守旧的な藩風に逆戻りをしてしまったのです
生前の斉彬が抜擢した人材も遠ざけられ、ここに斉興後見体制が確立したのですが、件の体制はあくまでも、幕府の不信の目を逃れるための暫定的な措置であり、決して長期的なものではなかったのです
そして、そのことは、他ならぬ斉興自身が一番よく分かっていたのです
続きは次回に致します(^O^)