光秀の名前について(惟任賜姓と信長の意図とは?) | タケ海舟の歴史事件帳

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天正三年(1575)、明智光秀は主君織田信長による朝廷への奏請により…

 

従五位下日向守(じゅごいげ。ひゅうがのかみ)に叙任任官されましたチョキ

 

これにより、光秀はそれまでの無位無官の明智十兵衛尉(じゅうべいのじょう)光秀から、明智日向守光秀という公人へと躍進したのですがグッド!

 

これに加えて、光秀は朝廷より新しい姓(苗字・氏)を賜ったのですNEW

 

新たに名乗ることになった姓は、惟任(これとう)でしたFREE

 

正直、現在でもあまり聞き慣れたことのない苗字だと思いますが、この苗字にはしっかりとした由緒があったのです将棋

 

美濃・尾張や畿内から遥か西にある九州地方において、古くから鎮西九党(ちんぜいきゅうとう。若しくは八党)という武士団が各地に割拠していました上三角

 

その顔触れを見渡してみますと、少弐(しょうに)・大友(おおとも)・惟任(これとう)・惟住(これずみ)・秋月(あきづき)・島津(しまづ)・菊池(きくち)・原田(はらだ)・松浦(まつら) ・戸次(べっき)・山澄(やまずみ)等の諸氏が挙げられますもみじ

 

因みに、鎮西八党とか九党といっていますが、上記の武士団の合計は十一ありますショック!数が違うのではないか?と異論が出そうなのですが、紹介している書物等によって顔触れや数は若干異なるみたいですメガネ

 

この面々は、鎌倉・南北朝・室町という武士の力が強くなる時代において、生き残りをかけて、厳しい抗争を繰り広げていました耳

 

戦国時代まで勢力を維持し、尚且つ強力な戦国大名へと変貌した島津・大友等がれば…

 

かっては飛ぶ鳥を落とす勢いであった名家でも、一連の動乱の中で衰退若しくは滅亡する者も多かったのですグッド!

 

大宰府(だざいふ)の現地の役職である少弐(しょうに)をそのまま苗字にした少弐氏は、北九州に大きな勢力を築いていたのですが、戦国期に周防・長門を拠点としてた大内氏(おおうちし)の九州侵攻の標的とされた結果、一族滅亡の運命を辿りましたゲホゲホ

 

同じく、肥後国(ひご。現在の熊本県)を本拠に、南北時代に九州南朝勢力の要であった菊池氏(きくちし)もまた、戦国時代に姿を消した名家でしたNG

 

彼等よりもかなり劣勢であった惟任氏は、戦国期に至っては殆ど目ぼしい活躍がなく、族滅に似た状況だったのですが、信長はこうした落ちぶれて久しい九州の名門に目を付け、自らの家臣にその名跡を継がせたのですFREE

 

勿論、勝手に名乗らせては、それこそ私称と変わりないので、正式に朝廷の許可を得た上で、彼等に賜姓という形で名乗らせたのです耳

 

但し、九州の名家の苗字を名乗ることを認められたのは、何も光秀一人ではなく、丹羽長秀は惟住、梁田広正(やなだひろまさ)は戸次(別喜)、塙直正(ばんなおまさ)は原田をそれぞれ名乗ったのですヒミツ

 

ところで、信長は何故複数の自分の家臣に九州名家の苗字を与えたのでしょうか?

 

想像を逞しくさせるならば、天正三年の段階で、既に信長は中国、四国ばかりではなく、さらに遠く九州地方の平定を想定した西進政策を考えていたからだと思われます注意

 

この頃の九州地方は、大小の勢力入り乱れ状態から、大友・龍造寺(りゅうぞうじ)・島津による三国鼎立状態へと局面が移っており、三氏のどこか覇権を握るか?という所に衆目の目が集まっていました駐車場

 

信長は既に大友や島津とは音信を交わしていたのですが、中国の毛利家を打倒(若しくは屈服させる)した暁には、そのまま西下して九州地方の平定作戦を開始する腹積もりでいたと考えられますチョキ(九州の強豪が恭順しなければ武力討伐も辞さなかった筈です)

 

その場合、将星綺羅星の如くとされた織田家臣団の中でも、有力な武将が遠征軍の司令官として派遣されることになっていたのですが、いくら彼等が実績を積み上げた歴戦の将であっても、九州における地縁血縁は皆無に近く、遠征軍のトップに相応しいそれなりのブランドが必要だったのですダイヤグリーン

 

それが、かって大友や島津と匹敵する九州の名家であった惟任・惟住・別喜・原田の苗字であり、その跡式を受継ぐことで現地に根強く残っている旧族所縁の面々の支援を受けることを期待していたのかもしれません完了

 

光秀は勿論、丹羽長秀達も、将来の九州征伐の前線司令官として派遣されるという意味合いを込めて、名族の苗字を与えられたと思われます祝日

 

加えて光秀のが任官した日向守は、現在の宮崎県と鹿児島県の一部にあたる旧国名であり、守はその国のトップでありました合格

 

古代からの国司制度等、既に有名無実であったのですが、その人物の地位を正当化する権威の面では、未だ十分通用していましたスペード

 

したがって、惟任姓と日向守という官職は、将来の九州方面攻略の司令官を務める共に、同地を所領として与えられることの約束手形的なものであったのでしょうひらめき電球

 

因みに光秀のライバルであった羽柴秀吉もまた、同じ天正三年、筑前守(ちくぜんのかみ。筑前は現在の福岡県)に任官しており、この時点で山陽道入口の播磨(はりま。兵庫県)山陰道入口の丹波(たんば。京都北西部)の経略を任せられていた両者の次の任務は…

 

既にこの段階で決まっていたのかもしれませんね合格

 

当然、その先には天下平定、さらには大陸出兵という青写真が信長にあったかどうか?そこだけはわかりませんが…

 

本日はここまでにしますサイコロ