テケの日記帳

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願成就院 運慶がつくった国宝の仏像五体

2020年07月27日 01時01分47秒 | 城・神社仏閣・歴史的施設
伊豆の国市韮山2018旅行シリーズ第5弾!今回は運慶作の阿弥陀如来坐像などの仏像【国宝】五体が安置されている「願成就院」を訪れました。二年前の話なので薄れていく記憶を紡ぎながらまとめてみます。

過去記事も見てね。
源頼朝が流された蛭ヶ小島と北条早雲が生涯居城とした韮山城

江川邸(旧韮山代官所)は先人の知恵が感じられて面白かった 1/2

江川邸(旧韮山代官所跡)は先人の知恵が感じられて面白かった 2/2

拉麺屋 一匹の鯨 が旨かった~!

【願成就院 地図】住所:静岡県伊豆の国市寺家83−1


さて、韮山の旅も最終回です。「一匹の鯨」で美味しいラーメンを食べた後、一旦、伊豆長岡駅に戻り、観光案内所で願成就院までの道を尋ねたら快く丁寧に教えてもらいました。最初は歩いて行く予定だったけど、今日はよく歩いたしタクシーで行くか!

・・・ということで、タクシーで行ったよ。

あっという間に到着!後ろにそびえる山の向こうは暴れ狩野川です。やはり、重要な施設は山の麓や中腹・山頂にあります。
さて、時間も3時になろうとしています。さあ、入ってみましょう。

境内を歩いて行くと遠くに見えた大御堂が近づいてきました。意外とこじんまりしている印象です。
北条家の菩提寺として、かつては大きな池や三重塔・大伽藍などもあったようです。二度の戦火で焼失などしてしまいましたが、御本尊を始め大切な仏像を守り抜いてくれてありがたいですね。


大御堂手前左には石碑がありました。平成二十五年に運慶作の仏像が国宝に指定され、造像銘札四枚も附国宝に指定されています。


奥に見えるのが本堂か庫裡(くり)かな。歴史を感じさせる佇まいですね。


大御堂の右手前でチケットを購入しようと小屋をのぞくと、後述しますが作務衣姿のキースさんが拝観のパンフレットを手渡してくれて、参拝と国宝仏の見学に向かいました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権で北條政子の父、北條時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まったそうです。

Wikipediaでは。。
>『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。ただし、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。

堂内は撮影禁止なので写真はありませんが、こちらもあとで紹介する小崎淳子さんが軽快なテンポで運慶作の国宝仏を説明してくれました。

詳しくは願成就院ホームページを見てね。⇒大御堂にお祀りする運慶作、国宝五軀の仏像群

裏にはミニ博物館があり、北条家ゆかりの品々がありました。もっと歴史を勉強したうえでもう一度来てみたいな~。

寺の宝物などを見学後、山伝いに左に行くと、五百羅漢がいっぱい。寺院のHPでは。。
>「人生はいろいろ」、皆様お一人お一人の貴い人生の様々な思い出や願い、そして生き様、また亡くなった大切な方への報恩感謝のお気持ちなどを、ご自身も参加して石造に刻み込む今様五百羅漢づくりに挑戦してみませんか。
ですって。

制作費を出せば、石材の用意から指導、安置、供養等までしてくれるようです。


1789年(寛政元年)に建立された本堂ですって。


どおりで威風堂々としてる感じですね。


左上の画像にある木は、願成就院の御神木である梛(なぎ)の木で、源頼朝と北條政子が出会った木であると言い伝えられています。
真言宗の開祖である弘法大師の像もありました。


北条時政の墓がありました。頼朝に将来の可能性を見出したのでしょう、平家なのに、頼朝に懸けて打って出たのは先見の明がありましたね。もちろん、命がけの賭けです。
【石碑 転記】
北條時政公没八〇〇年忌供養として造立
北條時政公(一一三八年生、一二十五年没、享年七十八歳)は、願成就院の創建者で、今日に伝わる国宝指定の運慶作諸仏の檀越である。時政公は、この地 、伊豆国北條に居館を有した平家一門の伊豆における有力豪族の一人で、伊豆国府在庁官人であった。一一六〇年十四歳で伊豆配流となった源頼朝を伊東祐親共に監視する立場にあった。激動する歴史の中、娘政子が流人頼朝に嫁し一転して頼朝の岳父となる。 一一八〇年八月十七日の頼朝伊豆挙兵では、平家目代山木兼隆攻めの主将となりてこれを成功させる。以後、平家討伐、鎌倉幕府創設では、頼朝の参謀役、智将として大いに活躍してその立役者となる。頼朝亡き後も、幕府初代執権に就任して、東国武家政権の確立に努め、北條氏繁栄の礎となり鎌倉北條氏の祖と呼ばれる幕府草創期の最重要人物の一人である。   現住祥道

さて、旅行には11月に行ったわけですが、願成就院を何故知ったか?と言えば、ちょうどこの年の9月に「てっぺん!」というテレビ静岡の生活情報バラエティ番組で願成就院の紹介を見て、『運慶の仏像を生で見たい!是非行ってみたい!』となったわけです。それまで静岡県人として知らなかった。。。(/ω\)

なので、ここからは「てっぺん!」『夫婦の愛と絆 ふるさとの古刹 願成就院』をまとめてみました。

旦那さんはキースさん。(英国スコットランド、セントアンドリューズ生れ。空軍の父親とイギリス国内を転々とし、高校卒業後、ロンドン警視庁で事務職員として勤務した後、大学に入学。ボランティアで担当したのが日本からの留学生でした。映画観賞が趣味で、黒沢明監督のファン。「七人の侍」や「生きる」が好き。日本への興味が高まり、大学卒業後に外国語指導助手として来日し、奄美大島や金沢市、愛知県豊橋市で教えた後にイギリスへ帰国。ロンドンで救急救命士として救急車に乗っていました。ある日、レストランでロンドンにある会社で仕事をしていた小崎淳子さんに出逢い、一目惚れ。)

2012年にキースさんは小崎淳子さんと夫婦でこの寺を守ると決意して日本で挙式。


2017年僧侶になるために高野山で最初の儀式、得度をした2人、淳子さんは120日の修行を終え、僧侶になりました。キースさんも僧侶を目指し、将来、淳子さん同様、高野山で修行する予定です。でも日常会話は問題ないのですが、「仏教用語は難しい言葉が多いのでまだまだ」と、日々経典の暗唱に励んでいます。
淳子さんは将来的にはお寺を継ぐ身。「日本人でも、仏門に入るのは覚悟がいります。なぜ決断できたのですか?」と問うと「奥さん愛してるから」と女性なら毎日言われたいフレーズ。

・・・ということで、本格的な修行を前にお寺で毎日朝と夕方の鐘突きや、境内の掃除、拝観者の案内をされているキースさんでした。応援したいですね!(≧◇≦)


キースさんは五百羅漢の石仏?を彫るのも日課となっています。キースさんは拝観時間が終わると境内にある作業小屋で2017年に亡くなった母のために五百羅漢像を作っていました。


運慶作の仏像の画像をお借りしました。^^;

歴史ある寺院は良いですね。お勧めです。

静岡市にも是非、来てね!

最後にパンフレットを載せておきますね。



(パンフレット 転記)
願成就院の歴史と仏像の意義
 当山は天守君山願成就院と称し、高野山真言宗に属す。伊豆箱根鉄道の伊豆長岡駅又は韮山駅より徒歩で十五分程の守山を背にしたところにある。
 寺の創建は、寺伝によると奈良時代聖武天皇の天平元年(七二九)五月十五日に創立されたと伝えられるが、明らかなことは、鎌倉幕府の事蹟を伝える「吾妻鏡」の記録から、文治五年(一一八九)源頼朝公夫人、尼将軍北条政子の父で鎌倉幕府初代執権北条時政公が、頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建立したもので、その後は鎌倉幕府に並ぶ者なき勢力を振った北条氏の寺として、二代執権北条義時公・三代執権北条泰時公の三代にわたり、約半世紀の歳月を費して次々に堂塔が建立され繁栄をきわめた。その伽藍構成は、奥州平泉に藤原三代の遺業として伝えられる、中尊寺・毛越寺・無量光院三寺院の中の毛越寺を模したもので、山門を入ると大きな池があり、その池の中島にかけられた橋を渡って参詣するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。
 しかしこうした繁栄もやがて十五世紀末には兵火にみまわれ、 しだいに衰運に向った。室町時代延徳三年(一四九一)二代堀越公方・足利茶々丸公が北条早雲に攻め滅ぼされた際、多くの堂塔が灰燼に帰し、さらに時移り、戦国時代の末、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めの折、韮山城攻撃の際、再び兵火に見舞われ、ますます寺運は衰えた。江戸時代宝暦三年(一七五三)寺の荒廃をなげいた北条美濃守氏貞が仏像等の修理を行い復興に努めた。現在の本堂は寛政元年(一七八九)に仮本堂として建立されたものである。昭和三十年以降、東京浅 草人を中心として、当山の貴重な文化財の護持顕彰を目的に浅山講・大倉願成講・天山講・京山講などの講社が相次いで組織され、その浄業として大御堂が再建され、再び今日の興隆をみるにいたった。

 寺の創建時より大御堂にお祀りされてきた本尊阿弥陀如来坐像、不動明王立像及矜羯羅・制咤迦童子立像、毘沙門天立像の五体の尊像は、胎内に納められていた四枚の五輪塔婆形銘札によって、文治二年(一八六)にこの寺の開基である北條時政公の発願によって運慶が謹作した仏像であることが明らかになった。運慶三十五才頃とされ、鎌倉幕府の成立に関わった東日本に現存する最古の運慶仏である。この仏像群の特徴である豊かな量感と写実を踏まえた力強い作風は、前代の仏像には見られなかった新しい造形と、運慶の秀でた彫技を伝えるものとされ、運慶自づからが初めて世に問うた極めて意欲的で革新的な挑戦作であるとされている。正に運慶様式、鎌倉彫刻様式の成立を示す日本文化史上、日本彫刻史上大きな意義を有する若き運慶の傑作であり、代表作の一つであるとされ、国宝に指定される。
 また、現在の願成就院境内を中心に、裏山を含めた一帯は、平泉の毛越寺や京都の浄瑠璃寺など、全国で七カ所残る「浄土様式」と呼ばれる藤原時代特有の寺院様式の貴重な遺構とされ、「願成就院跡」の名称で国の史跡に指定されている。
寺宝
国宝
●阿弥陀如来坐像 鎌倉初期・寄木造・像高一四三・五センチ 運慶作
 大御堂本尊・堂々として量感豊かな体軀男性的でたのもしく、しかも限りない慈悲にあふれた面相は神秘的な威厳を具え、一種名状しがたい霊感にうたれる尊像である。
国宝
●毘沙門天像 鎌倉初期・寄木造・像高一四七センチ 運慶作
 重い鎧を身につけ、右脚を一歩踏み出し、あばれまわる二匹の邪鬼をしっかりと踏みつけて立つ、活動的な姿がきわめて巧みに表現された玉眼嵌入の像。
国宝
●不動明王像 鎌倉初期・寄木造・像高一三六・五センチ 運慶作
 上半身裸形、両肩がはって胸あつく、腰の太いたくましい力強い体軀、仏敵や邪悪に立ち向う激しい怒りをあらわに出し、除災招福の力にあふれた玉眼嵌入の像。
国宝
●矜羯羅童子像(こんがらどうじ) 鎌倉初期・寄木造・像高七八センチ 運慶作
 不動明王像の向って右に立つ脇侍、純粋無垢な小女を思わせる可憐な姿で、丸々とした体つき、裳の表現など、きわめて巧みな玉眼嵌入の像。
国宝
●制咤迦童子像(せいたかどうじ) 鎌倉初期・寄木造・像高八二六センチ 運慶作
 不動明王像の向って左に立つ脇侍、額に八の字のしわをよせ、口をへの字に曲げ、左足を踏み出し、上半身をのり出した力強さがきわめて巧みに表現された玉眼嵌入の像。

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