岡山城と後楽園 | エトランゼの瞬間

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日々の、 素敵だな・・・って 感じられる瞬間を、

撮らえられたら いいかな・・・












さて こんかい 岡山城と 後楽園です。




烏城(うじょう)って 称されるとおり 黒いお城 です。




え~~っと あの~~~



じつは いつも見てる 大阪城や 姫路城と くらべちゃうと・・・。












そして 後楽園









あ、 東京ドームのあるあたりも 後楽園って いうんでしたが




岡山の 後楽園という 庭園です。




ちょっと 岡山後楽園公式サイト様から 引用しちゃいます。





時代と共に移り変わる後楽園
 岡山後楽園は、今から約300年前に岡山藩2代藩主池田綱政[いけだつなまさ]が藩主のやすらぎの場として作らせた庭園です。
 綱政の時代には、藩主の居間延養亭[えんようてい]や園内に点在する建物の座敷から眺望を楽しむという要素の強い庭でした。
 綱政の子継政[つぐまさ]は能舞台周辺の建物を大きく改築し、園内中央に唯心山を築き、そのふもとに水路を巡らせ、沢の池と廉池軒の池を結ぶひょうたん池を掘らせました。こうした改変で庭を巡り歩いても楽しい回遊性が備わってきました。継政の孫治政[はるまさ]は倹約のため、田畑の耕作に当たっていた人々をやめさせ、一時的に芝生の庭園となりますが、その後すぐに園内東の大半は田畑へと戻ります。現在の井田[せいでん]はその名残です。こうした時代ごとの藩主の好みや社会事情によって後楽園の景観は変化し、その積み重ねが歴史となっています。



 また、江戸時代の後楽園には、許しがあれば領民も入ることができました。能を好んだ綱政は自ら舞う姿を見せたり、継政以後の藩主たちは、参勤交代で岡山を留守にする間は日を決めて庭を見せています。また、藩主のお客をもてなす場としても使われました。
 明治4年(1871)、池田家では「御後園」を「後楽園」と改め、17年には名園保存を目的に岡山県に譲渡しました。当初は公園ではなく県庁付属地として公開されたため、日没閉門などの決まりを作って保存が図られました。
 昭和9年(1934)の水害、20年の戦災に遭いましたが、江戸時代の絵図などに基づいて復旧がはかられ、江戸時代の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれています。
 大正11年に名勝に指定され、昭和27年には文化財保護法による特別名勝に指定されました。江戸時代のおもかげを伝える庭園として多くの方に愛され、金沢の兼六園、水戸の偕楽園とあわせて「日本三公園」と称され、今では日本三名園として親しまれています。




 岡山後楽園は、今から約300年前に時の藩主池田綱政が政務の合間を過ごす場所として家臣の津田永忠[つだながただ]に命じて作らせた庭園です。
 後楽園には築庭当時の姿を描いた「御茶屋御絵図」[おちゃやおんえず]が伝わっています。この絵図には改修した部分を貼紙で重ねた跡があり、後楽園の築庭を命じた岡山藩2代藩主池田綱政が庭に遊びながら好みで手を入れていった様子がうかがえます。後楽園は一つの完成図に基づいて作られたのではなく、綱政の要望に応じて造作が変わっているところに特徴があります。その後の藩主たちも土台を大きく変えることなく、好みで手を加えています。
この絵図を見ると、綱政の時代に現在の後楽園の輪郭ができ、園内中央西寄りに延養亭、能舞台などの主要な建物、中央には沢の池、園の周辺部には美しい景色となる林が形成されて、おおよその基礎ができていることがわかります。
 築庭当時の林の景色は、桜を中心とする二色が岡[にしきがおか]、楓が中心の千入の森[ちしおのもり]、北の周辺に松林など桜・楓・松の配分をそれぞれ変えて四季折々の景色が楽しめるようになっていたようです。
 一方で、中央部に広がる黒っぽい部分は田畑で、築庭当時は築山の唯心山[ゆいしんざん]がありません。今は広大な芝生で名高い庭園ですが、築庭当時はその4分の3は田畑で、平坦な庭だったようです。」








日本三大庭園と 称される 立派な庭園   








公園とかより よっぽど広いんです。









ちょっと 来る季節 間違えた気がします




もっと 草木の茂ったころ また来てみたいな~~って




おもいます!









これからも よしなに。