先日、劇場版シティハンター<新宿プライベート・アイズ>を見に行きました。

完全に息抜きの遊びで行ってきたのですが、折角ですので、政治も絡めて本作を語ってみたく思います。

 

私はもうアラフォーですので、少年時代にやっていたシティハンターの主人公である冴羽獠は、理想のカッコいい大人の一人でした。

今にして思うのは、冴羽獠のカッコ良さは、誰かに見せるためのものではなかったということです。誰かにカッコをつけたいなら、「モッコリ!」なんてノリで話をする筈がありませんし、冴羽獠は、只のスケベと他人から看做されようとも意に介しません。

 

とはいえ、シティハンターの登場人物は皆、格好をつけないわけではありません。

むしろ、シティハンターは格好をつける人たちの物語といっても良いでしょう。

 

では、彼ら彼女らはだれに対して格好をつけているのかというと、それは自分自身に対してです。

 

シティハンターで語られてきた格好良いセリフ・行動は他人から見てどうかというところにはありません。自分の納得できる振る舞いを頑なにやり遂げようとする人たちの物語であり、いわゆるハードボイルド作品です。ハードボイルドとは元々は固ゆで卵を語源とする頑固な人たちを指す言葉ですが、彼らは頑なに自分が求める格好良さを追求します。それを他人がどう評価するかということに拘りません。評価したい人がいれば評価してくれてもかまわないし、評価されようという積極的な努力は基本的にしません。

 

カッコいい生き方は、今でも、無論、多くの人が希求しているのでしょうが、どうも21世紀になって、カッコいいという概念が少し変わってきました。21世紀になり、他人の目に映る格好よさに重きが置かれているように思います。

 

論戦で間違いを認めるのは格好悪いとか、議論の中で過激な言葉を使っていると格好よく見られるとか、根拠はないけど、とりあえず断言しておけば格好いいだろうとか、そういう格好の良さを求める人が増え、また、そういう格好よさを演じることを周りも求めていることが多くなったように思えるのです。

 

安倍総理は、相手が誤解しやすいような話をし、時にウソと断言できる事項も含まれる話を平気でします。

私の感性としては、そういう嘘をつく自分がカッコいいとは思えないのですが、彼は嘘をつく自分はカッコいいと思っているのでしょうか?

何らかの目標のため、嘘をついてでも物事をやり通すというのなら、それも一種のハードボイルドですが、どうも彼はそういう自信があるようには見受けられません。

 

嘘をついてでも前に進もうとしている自分はカッコいいと思っているのではなく、嘘を認めて周りから攻め立てられ、カッコ悪くみられるのは嫌という心理で、嘘を認めることもできず、苦し紛れの答弁を繰り返す様は、20世紀のカッコ良さとは程遠いように思います。

 

大阪都構想が、大阪市民の利益にならないことを知りながら、自分たちの利益である議員数の増加という目標を隠して、大阪都構想を進めている人たちも、その様は、自分自身でカッコ良いと思えているのでしょうか?

 

有権者に格好をつけ、支援者に格好悪いところを見せられないという姿勢は無論保っているのでしょうが、彼らは、自分自身が政治家を志した時に理想としたカッコいい政治家に近づけていると思えておられるでしょうか?

 

私には、どうにもそうは思えないのです。

 

政治家だけではありませんね。政治系のブログ界隈でも、他者の意見を叩いて自分は格好良いという振りをしたがる人は多くいますが、ブログを始めた時の、こんな社会になってほしいという願いに近づけるために頑張って始めようと思った時の自分に対して、カッコつけることができるでしょうか?

 

保守系ブログと言いながら外国人移民の受け入れにつながるのが目に見えている法案改正を許し、どころか批判もまともにしていないブログも多くあるように見受けられますが、彼らは10年前の自分にカッコ良いと思ってもらえるのでしょうか?10年後の自分にカッコ良かったと思ってもらえるのでしょうか?

 

私は、彼らは10年後に、10年前の自分がカッコ悪かったと認めることはできないでしょうが、カッコ良かったと誇ることもできないだろうと思います。

 

願わくば、私や進撃の庶民に属する方々、その他の多くの真剣に日本をよくしたいと願っている人達が、10年後に、あの時の自分は、まぁまぁカッコ良かったなと思えていますように。切に願うばかりです。