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麒麟がくる (34)「焼討ちの代償」

(2020日)


元亀2年(1571)9月12日、信長は比叡山焼き討ちを実行した。


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光秀は命に背いて女子供を逃がしたことを報告。
信長は聞かなかったことにしてくれた。
女子供といえども懐に刃物を忍ばせていれば、非戦闘員と看做せなかった。
次は殺せと言われ、志賀郡2万石を光秀は与えられた。
織田家家臣団の中でも領地付きの城を与えられた者はいなかった。
幕臣である光秀に与えたのならば異例中の異例のことだったのでしょう。


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二条城では、比叡山の件で将軍義昭は激怒。
義昭と信長の決裂へと導く会議となった。
政所執事の摂津晴門が、大和の筒井順慶に幕府が味方し、
松永久秀に信長がつけば、全国の諸大名は反信長となるとした。


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義昭は、比叡山からの避難民の救護に二条城を開放する。
駒が現場の指示もすれば、大和から来た筒井順慶の応対もする。


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戦から戻った光秀だったが、次女の珠が町で石を投げられケガをしたと聞き、
望月東庵宅に駆け付けた。
駒も二条城から戻ったようで、傷口の心配もせずお手玉を教えてやる。


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駒から幕府が順慶につくと聞いた光秀は、
順慶を堺の今井宗久との茶会に連れていき、久秀と会わせた。

長期の敵対関係であったが、幕府と信長を決裂させたくなかった光秀は
志賀2万石を久秀に譲るとした。
久秀としては、義昭と信長は水と油でいずれ決裂すると見ていたが、
光秀の意気により、順慶とお茶を飲むことにする。


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光秀から報告を受けた信長は喜ぶ。
幕府側で久秀を討つつもりだったからだった。
義昭ではなく帝との関係で考えていた。
比叡山焼き討ちを帝に報告し、褒めて頂いたとご満悦だった。


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正親町天皇としては、天台座主である弟の覚恕の脅威を減らしてくれた信長が、
褒めて欲しそうだったので褒めたと東庵に語る。


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覚恕は甲斐の躑躅ヶ崎館へ逃れ、愚痴った。



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NHKオンデマンド 麒麟がくる (34)「焼討ちの代償」


信玄の四女松姫と信長の嫡男信忠との婚約が成立していたとされる。
武田家としても、もはや織田家との関係は深刻に見直さざるを得なかった。





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