ディスをめぐる『とかげ日記』の歴史とこれからの方向性 | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。

『とかげ日記』を始めたのが2011年のこと。だが、2017年7月、自分の病気が酷くなった時に、ブログを削除しようとして削除できず、2012年の一部の記事以外の記事を全て削除してしまった。

だから、このブログは2012年とブログを再開した2017年9月以降の記事しか残っておらず、いびつな形になっている。削除してしまった記事は復元できたものもあるが、半分以上が消えてしまった。

僕は最初、ディスには敵対する姿勢を取っていた。自分でもディス記事は書かなかった。その姿勢がもっともよく表れている記事がこの記事。
炎上してもヘイトをヘイトする

だが、上記の記事に登場する相手の方とのやり取りや、自分で考えることも続けた結果、ヘイトの感情も自分や世界のアイデンティティを織りなす重要な要素であることに気づいた。ヘイトの発言が世界を前向きに変えることもあることを知った。

そして、「ヘイトはヘイトとして受け入れよう。ディスはディスとして受け入れよう。自分の中のヘイトもヘイトとして外に出すことをためらわないようにしよう」と考えるに至った。そのことについて書いたのがこの記事。
Amazonのレビューで★1つのCDでも(彩瀬まる『神様のケーキを頬ばるまで』)

その後、低評価の記事も書くようになった。ラブだけではなく、ヘイトも強烈に主張するリスト係さんのファンになったのもこの時期。
リスト係さんを見ていると暴言って面白いと思う

しかし、ディスも行き過ぎはダメなのではないかと思い始める。その作品やアーティストを好きな方を傷つけないようなディスを探り始めたのが一昨日の記事だ。
音楽ディスとアイデンティティの棄損

昨日、僕の好きなアーティストを「アーティストもどきのセンス皆無な馬鹿」とある方からディスられて怒った。しかし、怒ることは「どんなコメントも『殺す』べきではありません。賛否両論あっての反応です」という過去の僕の発言と矛盾を起こすと思った。

人格まで否定するような反応はやっぱり嫌だよ…。人格攻撃は意見ですらないと思う。

何かをディスる時にも、褒める時にも、硬い言葉や文章ではなく、柔らかな言葉や文章を僕は目指したい。それらを用いる柔らかな頭には、可変性がある。そういうこともあるんだねと思い、思想を改めることができる。

だが、硬い言葉や硬い文章には可変性がない。自分の正しさが絶対だと信じて硬直している。自分の正しさをカッコに入れる能力こそが、対立による分断の時代に必要なのではないか。

最後に、僕が今日見て全くその通りだと思った蜂郎さんのツイートの文章を引用させていただいて、この記事を終わりにします。独善的なディスだけは自分でやることを避けたいと思う。もし、僕の書いた文章が独善的な文章だったら、『とかげ日記』読者の皆さんにコメントしていただいて、態度を改めたい。

-----引用始め-----
「自分は絶対に正しい
自分の言動は正義
自分が何かを差別するなんて無意識でも絶対にありえない
ああいう発言をする奴は
レイシスト
ああいう歌を作る奴は
バカ
こういう発言をする奴は
勉強していない
そういうところがあるから
あなたはダメ」

独善的な思い込みや決め付け
偏見は
差別に似ている

------引用終わり--------