優しかった父が亡くなった | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。



6月20日、優しかった父が癌で亡くなった。享年65歳だ。遅かれ早かれ皆死ぬといっても、65歳で亡くなるのは早すぎる。今は人生80年、100年の時代。これから第二の人生が始まるという時に…。

父が亡くなったという連絡を受けてからしばらくの間、涙が止まらなかった。また、「よっ!」といつものあの調子で話しかけてくれるのではないかと、そんな気がしていた。今も心にぽっかりと空いた大きな穴は消えそうにない。

ここ数年、父は1ヶ月に1回ほど、僕を食事に連れて行ってくれた。川越で食べたステーキの味は忘れられない。また、2回ほど映画も一緒に観に行った。『新聞記者』と『グリーン・ブック』を観たのだけど、これも忘れられない思い出だな。

僕の病気のことも、ずっと心配してくれていた。元気になった姿を見せられなくて残念だ。まだ、これから恩返しをするぞという時に亡くなり、恩返しの気持ちは宙に浮いてしまった。

父から受けた思いやりの気持ちを今度は僕の息子達に伝えたい。先日のブログで、「僕はいつ死んでも構わない」と書いたけれども、息子達や妻を悲しい気持ちにさせたくない。

父は優しいだけではなく博識で、スポーツや歴史の話題に明るかった。そう、父は根っからのスポーツファンで、高校時代は野球部のマネージャーだったし、現在はバスケチームの応援をしていた。そのバスケチームの選手と二人で写った写真を嬉しそうに見せてくれたっけ。

仕事面では、父は大企業で役員まで上り詰めた。従業員の働きやすさや女性活躍のために尽力したという。

また、60歳を過ぎて勤め先の顧問になり、出勤しなくてよくなると、今度は勉強して日本語教師の資格を取り、外国人相手に日本語を教えていた。父は学生時代は国際交流サークルに所属していたので、そういった国際交流に今も昔も関心があったのだろう。

僕の好きなゲーム『サモンナイト3』の名ゼリフのように、人生というのは、たわいもない夢にどれだけ熱くなれるかなんだ。僕のお父さんは、夢に向かって熱くなって生きた。そして、多くの人と関わり、愛し愛されて生きてきた。

告別式の時、ある方が「この歳で死ぬのは無念だろう」と弔辞でおっしゃっていたが、幸せな人生だったと思う。ビジネスマンとして成功したし、孫の顔も見ることができた。それに、通夜と告別式には300人以上の方が訪れてくださった。色々な人に囲まれながら、豊かな人生を送ったと思う。

豊かと言えば、豊かな人生という意味で戒名が"豊道"と命名されたことにも不思議な縁を感じた。なぜなら、僕のハンドルネームも"遊道"で、"道"という漢字が含まれているから。お坊さんが考えてつけてくれた戒名だけど、偶然ってあるものだな。

‪お父さん、今までありがとう。感謝の言葉しか出ないよ。天国でも幸せに暮らしてね。知性と優しさにあふれた、僕の自慢のお父さん。あなたがいるから今、僕もこうして生きていけている。これから僕はあなたなしで生きていかなければいけないと思うと辛いけど、天国からその優しい笑顔で見守っていてね。‬


君にとって私はどういう存在でしたか?
僕にとってあなたはどういう存在だったのかな?

逢えるかな?また逢えるかなぁ。
「いつだって心は逢えるだろ?また、逢えるだろ。」
ホントだ。逢えたね。

ちゃんと生きたものに、で、ちゃんと死んだものに、
「ありがとう。」って、僕はなんで想うんだろう。
ちゃんと生きた君に、で、ちゃんと死んだ君に、
「ありがとう。」を今、言うよ。
「ありがとう。」を、ありがとう。この歓びを。
(中村一義「歓喜のうた」より)