知床半島再訪記・後編~夜行高速バスイーグルライナーで行くウトロで味わう知床旅情~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

開業1ヶ月後の北海道新幹線と在来線の特急列車を乗り継いで、黄昏が迫る札幌まで来た僕は、駅舎を出てから、しばし思案に暮れた。
札幌から先の旅の計画は立てていたが、新幹線が遅れて到着が1時間近くもずれ込んだため、予定が狂ってしまったのだ。

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当初は、高速バス「高速ゆうばり」号に乗ろうと目論んでいた。
かつての夕張は炭鉱の町として栄えたが、閉山後に寂れてしまい、近年には財政が破綻したことで世間の注目を浴びた。
紀行作家の宮脇俊三氏が何度か訪れ、
 
『何かと不満の多い人間は一度夕張線に乗るとよいと思う。いくらかおとなしくなるにちがいない』
 
などと記している。
 
札幌から暇つぶしに往復するには手頃な距離の土地で、10年ほど前の真冬に、鉄道と路線バスを利用して往復したことがある。
深い雪の中に沈んだような町並みはひっそりと静まり返って、どこか沈鬱な空気が漂い、今度は高速バスを使って季節を変えて再訪してみたくなった。

しかし、「高速ゆうばり」号の札幌駅前バスターミナルの発車時刻は16時35分で、とっくに過ぎてしまっている。

 
途切れることなくバスが出入りしているターミナルに入って、3本のホームを行ったり来たりしながら、どのバスに乗ろうかと思案した。

ホームはそれぞれ北海道中央バス、道南バス、JR北海道バスの会社ごとに分けられているようで、中央バスの乗り場から発車する岩内、旭川、滝川、岩見沢方面、道南バス乗り場からの苫小牧、室蘭方面、JRバスの乗り場を出入りする小樽方面といった短距離・中距離の高速バスの合間に、網走行きや名寄行きの堂々たるスーパーハイデッカーが、僕を誘うように乗車扱いをしているが、そのような僻遠の地まで足を伸ばしてしまったら後の行程が滅茶苦茶になる。
 
 
宮脇俊三氏の処女作「時刻表二万キロ」には、国鉄全線完乗を目指していた宮脇氏が、渋谷駅のみどりの窓口で、奥羽本線経由青森行き夜行急行「津軽」の寝台券を手に入れようとするものの、満席だったために長野経由金沢行き夜行急行「越前」に変更、それも売り切れで常磐・東北本線の寝台特急「ゆうづる」の申込用紙を差し出したことで、窓口氏に、
 
「お客さん、いったいどこへ行きたいの」
 
と言われるくだりがある。
週末ともなれば夜行列車が盛況を呈した鉄道全盛時代の話で、寝台に空きがある列車が向かう地域の未乗路線に乗ろうという意図だったのだが、宮脇氏はたじろぎながらも、
 
「いろいろ行きたいところがあるんで」
 
と、『我ながら簡にして要を得た答え』を返す。
『もう1枚申込用紙を用意してあったけれど、それは出しかねた』というオチに吹き出したことを思い浮かべながら、行先未定で色々迷う状況とは、贅沢にして楽しいけれども、人目が気になるものだな、と思う。
 

現に、バスを待っている買い物帰りらしいおばさんが、向こうのホームに渡ったかと思うと直ぐに踵を返して来た僕を、怪訝そうな表情で見つめている。
用心しなければいけない。
まさか「いったいどこへ行きたいの」などとは言わないだろうが、
 
「どちらへ行くバスをお探しですか」
 
と、親切心から声をかけてくる可能性がある。
駅やターミナルとは、決然と目的地を定めた人間が足を踏み入れるべき場所なのだ。
 

 
結局は「高速いわみざわ」号に乗って、夕陽の残滓が残る岩見沢駅前で降り、特急列車「カムイ」で滝川に足を伸ばして、「高速たきがわ」号で札幌へ戻ってきた。
とっぷりと日が暮れて、静寂が支配する滝川の町のあちこちに、4月と言うのにうずたかく雪が積まれている光景には、度肝を抜かれたものだった。
 
 
札幌の時計台に近い北二条西三丁目停留所で「高速たきがわ」号を乗り捨てて、近くのラーメン屋で味噌ラーメンに舌鼓を打ち、北海道中央バス札幌ターミナルへぶらぶらと歩いている最中に、スマートホンがいきなり壊れた。
どうやっても電源が入らない。
ラーメン屋でスマホをいじっていた時には、電池の残量も充分に残っていたし、作動に齟齬はなかったので、何が起きたのか理解不能だが、全く使い物にならなくなったことだけは確かであった。
携帯ショップを探そうにも、地図やガイドすらスマホに頼っている有様だから、探しようがない。
電話もかけられないし、かかってくる電話が繋がるはずもなく、問い合わせの仕様もない。
夜の札幌のビル街の谷間で、自宅や職場との連絡がいっさい断ち切られた根無し草のような境遇に陥ってしまった訳で、急に心細くなった。

幸いタブレットを持参していたので、電話機能はついていないものの、メールのやりとりは可能だった。
自宅と職場に、スマホがダウンしたことと、唯一の通信手段がタブレットのメールであることを知らせようと、公衆電話を探したが、見つけるのがひと苦労だった。
公衆電話を使用するなど、東日本大震災以来ではなかったか。

電話ばかりでなく、住所録、読書、地図、計算器、テレビ、ラジオ、新聞機能など、たった1台の携帯電話に全てを依存しきっていたことを、少しばかり反省した。
 
 
午後11時を迎えようとしている北海道中央バス札幌ターミナルは、閑散としていた。
23時と23時50分に「高速いわみざわ」号の深夜便が残っているものの、この時間帯の発車は長距離夜行バスばかりで、その先陣が、23時15分発のウトロ行き「イーグルライナー」号である。

 
道内には、その広大さを反映して、複数の夜行高速バスが運行されている。
いずれも札幌を起点として、稚内、網走、釧路、根室、函館方面の5路線が存在し、かつては帯広にも夜行便が運転されていた。
それらの夜行路線全てに乗る機会に恵まれ、北海道旅行の貴重な宿代わりとして重宝したことから、23時30分発釧路行き「スターライト釧路」号や、23時40分発北見・網走行き「ドリーミントオホーツク」号、23時55分発函館行き「高速はこだて」号の案内板を懐かしく見上げた。
稚内行きや根室行きの夜行バスは札幌ターミナルからは発車せず、少し離れた市営バスターミナルが起終点である。
 
これらの夜行バスを利用した時には、待合室は大きな荷物を抱えた人々でごった返し、旅立ちの期待に胸を膨らませていたものだったが、今夜は、ベンチに座っている客は僅かだった。
 
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「イーグルライナー」号は、平成19年4月に定期運行を開始した、道内で最も後発の夜行高速バスである。
最初、北海道中央バスが平成18年9月から「高速しれとこ」号と名づけて試験運行を始め、定期化した時点で斜里バスも参入した。
それぞれのバスが自社の拠点を昼行便として出発し、夜行便として折り返すダイヤが組まれていたが、平成26年5月に中央バスが撤退し、今では斜里バスだけが、札幌を夜に出てウトロを朝に折り返す1往復を走らせている。


全国に夜行高速バスは多々あれど、地方側の停留所が設けられている自治体に、市が全く含まれていないのは、「イーグルライナー」号だけではないだろうか。
この路線の道東側の停留所は佐呂間町若佐、女満別町東藻琴、小清水町、清里町新栄、斜里バスターミナル、そしてウトロ温泉であるが、それぞれの人口は、平成30年3月の時点で、佐呂間町5203人、東藻琴2773人、小清水町4959人、清里町4158人、斜里町1万1689人に過ぎず、後背人口としては夜行高速バスで最も少ない部類に入るものと思われる。

少ない乗客数でもペイする高速バスの面目躍如ではないかと、好意的に考えることも可能だが、平成28年度の利用者数の合計は1万728人と発表されており、1便あたり平均15人を割っている。
北海道中央バスが手を引いてしまったのもむべなるかな、と思うが、それでも「イーグルライナー」号が結ぶ地域の人々にとっては貴重な道都直行便であり、その期待に応えつつ毎日の定期運行を維持している斜里バスに、心からの拍手を送りたい。
 
 
待合室の片隅に充電器が置かれていたので、コインを投じてスマホを充電してみたが、単なる電池切れではないようで、うんともすんとも言わない。
情けない思いで待つうちに、鮮やかな緋色に彩られて、雄々しく羽ばたく鷲をデザインしたスーパーハイデッカーの「イーグルライナー」号が、「知床(ウトロ)斜里」と行先を掲げて待合室正面の乗り場に鼻先を突っ込んできた。
 
「5番乗り場に入線しましたのは、佐呂間、小清水、斜里、ウトロ方面の夜行高速バス『イーグルライナー』です」
 
という簡素なアナウンスが流れ、2人の運転手さんが乗客名簿を片手に改札を始めた。
 
 
この夜の「イーグルライナー」号の乗客数は10名に満たず、横3列独立シートには空席が目立つ。
至って気楽な身なりの地元客ばかりのように見受けられ、知床観光に来ました、といった装いの客は1人もいない。

発車間際に、若い男性が、同年代の女性が乗る車椅子を押して、乗り場に駆け込んできた。
足が不自由なのか、その女性は運転手さんたちの助けを借りながら乗降口の高いステップを昇り、左側の前から2番目の席に座っていた僕のすぐ後ろに身体を滑り込ませた。
慌てて倒していた背もたれを引き上げると、女性は息を切らして額に汗を浮かべながらも、

「ありがとうございます」
 
と、輝くような笑顔を浮かべた。
運転手さんたちが男性と言葉を交わしながら、車椅子を畳んで床下のトランクに収納している。
このような利用者のためにも、乗り換えの手間が要らない直通高速バスの意義はあるのだと思う。

「間に合ったね」
「うん、良かった。これで安心だよ。席の倒し方、わかる?」
「大丈夫。なかなかいいバスじゃん」
 
などと弾んだ会話が聞こえ、中央の席に腰を落ち着けた男性が女性に対して細やかに気を配っている様子が窺えたから、こちらまで心がほのぼのと暖かくなった。

 
札幌市内では他に乗車停留所はなく、定刻23時15分にターミナルを後にした「イーグルライナー」号は、めっきりと明かりが減った深夜の市街地を滑るように走り抜け、道央自動車道札幌ICから高速道路に入ったはずである。
 
その日の朝に東京駅を発った新幹線に乗り、その新幹線が遅れたり、臨時に仕立てられた特急列車を利用させられたり、はたまた岩見沢や滝川まで高速バスで往復したりと、何かと忙しい思いをさせられた1日だったので、さすがに疲れたのであろうか、僕は道央道に入る前に眠りに落ちてしまった。
高速道路を走っているんだな、と、暗い天井を見上げながら、バスが疾走する気配に心を研ぎ澄ませた記憶もかすかに残っているのだが、それが出発の直後なのか、それとも、もっと旭川に近づいた頃合いだったのかは、定かでない。
揺れも少なく、大変に寝心地のいいバスだったことは確かである。

「イーグルライナー」号は道央道を北上し、旭川を過ぎた比布JCTで旭川紋別自動車道に分岐して、終点の遠軽瀬戸瀬ICで高速道路を降り、国道333号線で更に東へ進んでから、佐呂間町の手前で国道が南へ折れる若佐交差点で、最初の降車扱いをする。

ごそごそと衣擦れがする気配に目を開けると、車内に淡く照明が灯され、後席の女性が苦労して座席から抜け出そうとしている。
急いでリクライニングを戻すと、

「ありがとうございます。起こしちゃってごめんなさい」

と、こもごも頭を下げながら、男性が女性を抱きかかえるようにバスを降りていった。
そっとカーテンをめくれば、街灯の下で荷物をまとめ直している2人の姿が、水滴で曇った窓に映っている。
他に家の明かりなどは一切見当たらず、空恐ろしい程の深い闇が辺りを包み込んでいた。
ここから役場がある佐呂間町の中心部までは、東へ伸びる道道103号線で7~8kmもあるのだが、爽やかな余韻を残して深夜の停留所に降りていった2人は、どこまで行くのだろうと思う。
時刻は午前3時半、定刻の運行である。

この後、バスは北見市の東で国道33号線に合流し、美幌町で国道334号線に乗り換えて、ひたすらオホーツク海沿岸を目指す。
だが、それは地図の上の話であって、闇に塗り潰された車窓はバスの位置を微塵も語ろうとはしない。
眠っているうちにどこか遠くへ連れて行ってくれるという、夜行バスが醸し出す独特の旅情が僕は好きだけれど、北海道では沿道の人跡が稀であるだけに、当てもなく彷徨っているかのような頼りなさがことのほか際だつ。
シートに深々と身を沈めて、バスの揺れに身を任せていても、言いようのない侘しさがこみ上げてくる。

4時45分着の東藻琴、5時10分着の小清水、5時25分発の清里町新栄には、停車したのかしなかったのか、全くの白河夜船で過ごした。
 
 
本格的に目を覚ましたのは、5時45分に着いた斜里バスターミナルで、僕以外の乗客は1人残らず降りてしまった。
客が占有していた席のカーテンだけがあちこちで開け放たれて、朝の光が幾筋も差し込む車内にくっきりと明暗を作っている。
 
何となく気恥ずかしい心地で座席にうずくまっていたが、2人の運転手さんは、たった1人残された僕を気に留める様子もなくバスを発車させて、オホーツク海に面した国道334号線を快調に飛ばしていく。
10年前に羅臼から斜里に向かう路線バスでここを走った時には、雨に打たれる晩秋の暗い海に息を呑んだものだったが、この日、少しずつ明るさを増していく払暁の海原には、心が粛然とするような荘厳さがあった。

 
定刻の6時30分より少し早めにウトロ温泉バスターミナルに到着した「イーグルライナー」号は、僕を1人取り残して、背後の丘を登って姿を消した。
この後、知床グランドホテル、知床プリンスホテル、知床第一ホテルを経由して6時45分着の終点ホテル知床まで、客がいなくても規定の経路通りに回るのだろう。

知床半島の麓まで遙々とたどり着いても、僕は、ここから何処にも行きようがない身の上である。

4月中旬では、知床の観光シーズンにはまだ早いようで、半島の懐深くへと足を伸ばす定期観光バスも、知床横断道路を走る羅臼までの季節運行の路線バスも、そして海伝いに半島の先端を巡る知床観光船も、営業していない。
ウトロの先に伸びる知床半島の北岸には、まとまって人が住む集落は存在しない。
陸地は遥か彼方まで続いているものの、先に足を伸ばす交通手段が皆無という点では、ここはまさに地の果てである。

ウトロを出入りする公共交通は、僕が来た道を後戻りする斜里バスターミナル行き路線バスだけで、始発便が発車する9時40分まで、まだ3時間近くが残されている。


2つの円筒形のバス乗り場を両脇に添えて、あたかも丸眼鏡を思わせるユーモラスなターミナルビルの扉を押してみると、簡単に開いた。
薄明かりが灯され、観光案内のチラシが並べられた室内に身を滑り込ませると、まるで空き巣に入ったような心持ちにさせられる。
窓口が営業するのは夏季シーズンだけであるため、人影は全くない。
 
トイレの個室の壁に貼られている、次のような掲示板が目に止まった。

『コードネーム97B-5、またの名はソーセージ。
初めて出会ったのは1997年秋。
彼女は母親から離れ独立したばかりだった。
翌年の夏、彼女はたくさんの車が行きかう国立公園入口近くに姿を現すようになった。
その後すぐ、とんでもない知らせが飛び込んできた。
観光客が彼女にソーセージを投げ与えていたというのだ。
それからの彼女は同じクマとは思えないほどすっかり変わってしまった。
人や車は警戒する対象から、食べ物を連想させる対象に変わり、彼女はしつこく道路沿いに姿を見せるようになった。
そのたびに見物の車の列ができ、彼女はますます人に慣れていった。
我々はこれがとても危険な兆候だと感じていた。
かつて北米の国立公園では、餌付けられたクマが悲惨な人身事故を起こしてきた歴史があることを知っていたからだ。
我々は彼女を必死に追い払い続け、厳しくお仕置きした。
人に近づくなと学習させようとしたのだ。
しかし、彼女はのんびりと出歩き続けた。
翌春、ついに彼女は市街地にまで入りこむようになった。
呑気に歩き回るばかりだが、人にばったり出会ったら何が起こるかわからない。
そしてある朝、彼女は小学校のそばでシカの死体を食べはじめた。
もはや決断の時だった。
子供たちの通学が始まる前にすべてを終わらせなければならない。
私は近づきながら弾丸を装填した。
スコープの中の彼女は、一瞬、あっ、というような表情を見せた。
そして、叩きつける激しい発射音。
ライフル弾の恐ろしい力。
彼女はもうほとんど動くことができなかった。
瞳の輝きはみるみるうちに失われていった。
彼女は知床の森に生まれ、またその土に戻って行くはずだった。
それは、たった1本のソーセージで狂いはじめた。
何気ない気持ちの餌やりだったかもしれない。
けれどもそれが多くの人を危険に陥れ、失われなくてもよかった命を奪うことになることを、よく考えてほしい
 
校庭に倒れている熊の写真が添えられた、知床財団のアピールである。
世界遺産になった知床の地を、人は気軽に訪れることが出来るようになった。
しかし、そこは人間の常識が通じるとは限らない、生粋の厳しい自然と隣り合わせであることを、僕らは肝に命じなければならない。


建物を出て振り仰げば、先程まで高曇りだった空が、いつの間にか眩暈がするほど青く澄み切っていた。

近くにある道の駅シリエトクまで、ぶらぶらと往復してみたが、店が開いているわけでもなく、暇つぶしには大して役に立たない。
バスターミナルと道路を挟んだコンビニエンスストアに向かい、軽い朝食を手に入れて、駐車場の一角に腰を降ろして頬張った。
ここだけは人が足繁く出入りする場所で、車でやって来ては、サンダル履きの軽装で朝食や新聞を買って行く。


腰を上げて、ウトロ漁港へ足を伸ばしてみた。

幾艘もの漁船が停泊して波に揺られている港の入口には、ゴジラ岩と呼ばれる細長く直立した岩が立ちはだかって、辺りを睥睨している。
通り過ぎてから振り返ってみれば、今にもウトロに上陸しようとしている怪獣のような構図になっていて、どのような自然の摂理で、このような造形が刻まれるのだろうと思う。


その先には、高さ60mもの小山のようなオロンコ岩が立ちはだかっている。

ウトロの語源はアイヌ語で、その間を我々が通る所、という意味の「ウトゥルチクシ」であると言われている。
何の間を通るのかは知らないけれど、知床八景に選ばれているオロンコ岩をはじめ、帽子岩、げんこつ岩、ガメラ岩(亀岩)など、点在する数多くの奇岩の間、という意味なのかもしれない。


北海道東北部から千島列島、樺太にかけて3世紀頃に発祥したオホーツク文化は、7世紀以降に北海道を中心として発展した擦文式土器を用いる擦文文化の影響を受けて、道東を中心に独自のトビニタイ文化へと変貌していったが、13世紀には鉄器を用いるアイヌ文化に取って変わられた。
平成17年に、ウトロの温泉街から2kmほど斜里側に離れたチャシコツ岬下B遺跡から、祭祀に用いたヒグマの骨が発見され、擦文文化には見られなかった熊崇拝の習慣が、オホーツク文化からトビニタイ文化を経てアイヌにもたらされた証左と考えられている。


ウトロには、オホーツク文化の流れを汲む先住民族オロッコ族が、トナカイの牧畜や狩猟、漁業を営みながら生活していた。
オロンコ岩の頂上に、オロッコ族の砦と推察される遺跡が発掘されたことから、砦を意味するチャシの名を付けてオロンコ岩チャシとも呼ばれ、チャシコツ岬(ガメラ岩)に設けられていたアイヌのウトロチャシと対峙していたと言う。
 
伝説によれば、アイヌの酋長が、人を使って海岸に打ち寄せられた海草をこっそりと集めてクジラの人形を作り、川から獲ってきた魚をくくりつけて、海に浮かべた。
夜が明け、クジラの人形についている魚に鳥が集り、騒ぎながら飛び交う光景を砦から見ていたオロッコ族は、

「それ、寄り鯨だ、弱っているぞ」

とロ々に喚声を上げてチャシを降り、船着き場へと走った。
岩陰に待ち伏せていたアイヌたちは、オロッコ族を取り囲んで、あっと言う間に全滅させてしまったという。


オホーツク人とアイヌ民族の確執とは、考えるだけでもロマンである。
僕が歩いている細長い砂洲が古戦場だったのだろうか、と空想を巡らせながら、岩をくり抜いたトンネルをくぐると、だだっ広い駐車場に出た。
ここが知床観光船の船着き場だが、人っ子1人見当たらない。

突き当たりの三角岩の麓に、歌碑がぽつんと建てられている。
近づいてみると、懐かしい歌詞が刻まれていた。

知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘にのぼれば
遥か国後に 白夜は明ける

旅の情か 酔うほどに彷徨い
浜に出てみれば 月は照る波の上
今宵こそ君を 抱き締めんと
岩陰に寄れば ピリカが笑う

別れの日は来た 羅臼の村にも
君は出て行く 峠を越えて
忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
私を泣かすな 白いかもめよ


名優森繁久彌氏が、昭和35年に製作された映画「地の涯に生きるもの」の撮影で羅臼に長期滞在した折りに作詞作曲し、ロケの最終日に「さらば羅臼よ」という曲名で披露したのが、「知床旅情」だったという。
昭和45年に加藤登紀子がリリースしたアルバムに収録され、そのシングルカットが人気に火をつける。

僕の父がよく口ずさんでいた歌で、何度も耳にしているうちに、いつしか僕も歌えるようになっていたが、昭和62年公開の「男はつらいよ 知床慕情」で、登場人物たちが繰り返し歌う場面が忘れ難い。
高校時代の同級生で、なぜか寅さんシリーズが大好きな男がいて、帰省のたびに故郷の映画館に付き合わされたものだった。
「男はつらいよ 知床慕情」はシリーズの38作目で、人気の長寿作品で国民的スターとなっていた渥美清と、国際スターである三船敏郎が競演したことでも話題になった。
自分の感情を素直に表現できない古風で武骨な獣医師を演じた三船の好演が後味の良い佳作で、エンコした三船のボロ車を寅さんが蹴っ飛ばすカットは、ポスターにも使われた。


映画の終盤に、地元の人々が集まる居酒屋で、淡路恵子演じる女将が、店を畳んで故郷の新潟へ帰ると言い出すと、三船扮する獣医師が頭ごなしに反対する。
同席していた寅さんが、反対する理由をはっきり言いなよ、と促し、獣医師は女将に向かって口ごもりながらも、
 
「俺が行っちゃいかんという訳は、俺が……俺が惚れてるからだ。悪いか!」
 
と怒ったような表情で告白、女将がワッと泣き出すシーンは、今でもありありと思い浮かべることが出来る。
 
「ほんとに言っちゃったよ」
 
と呟く寅さんの呆れ顔に、館内が爆笑の渦に巻き込まれたことも、今となっては懐かしい。
ここでも、酔った客たちは2人を囃し立て、祝福しながら、「知床旅情」を大声で歌ったのではなかったか。
 
「男はつらいよ 知床慕情」のロケ地は斜里町とされているが、同じ斜里町でもウトロだったに違いない、と僕は勝手に思い込んでいる。
バスターミナルの向かいに建っている小さな飲み屋など、この場面にぴったりではないか、と思ったりする。


無人の堤防で「知床旅情」を口ずさみながら、ウトロの町を振り返れば、静まり返った家並みの背後に知床峠が覆い被さり、その奥に、純白の雪をかぶった羅臼岳のなだらかな稜線が顔を覗かせている。
北に向かって延々と続く海岸線は、霞の中におぼろに消えて、陽の光に煌めく海原と真っ青な空の境は判然としない。
折り重なる半島の山々の彼方には、流れる筋雲に溶け込んでいるような冠雪の知床岳を、かすかに望むことも出来た。

人気のない最果ての漁港で、これらの素晴らしい眺望を独り占めしている贅沢さに酔いしれながら、新幹線と特急列車、そして夜行バスを乗り継ぎ、一昼夜かけて来た甲斐があったと思う。


時間を持て余すどころか、去り難さに後ろ髪を引かれる思いでバスターミナルに戻れば、程なく、9時20分発の札幌行き「イーグルライナー」号が姿を現した。
シャッターを開けた眼鏡の部分にすっぽりと収まって、顔だけ覗かせている姿は、どこかユーモラスである。
どれ程の客が乗っているのかは見えなかったが、ウトロから乗車した人は1人もいなかった。
これに乗れば、7時間後の16時15分には札幌に戻ることが出来る。


僕のこれからの行程は、ウトロから斜里まで路線バスに乗り、釧網本線の普通列車に乗り換えて網走に抜け、特急列車「オホーツク」6号で18時47分に札幌へ到着、羽田行き最終の飛行機を捕まえる予定だった。
札幌着が高速バスより2時間半も遅くなるこの乗り継ぎプランは、寄り道をしている訳ではなく、これでも最短の乗り換え時間で組み立てられている。
知床から札幌に最も早く到着するのは、「イーグルライナー」号だったのである。
知床の人々は、道都に出るだけで丸1日を費やさなければならない。
それだけ道東は遠く、北海道は広いのだと思う。

昼間の車窓を愛でながら、のんびりとバスに揺られることは大いに魅力的な選択肢だったが、僕は、網走から旭川に抜けるJR石北本線を利用したことがなく、どうしても初乗りしたかったので、諦めざるを得ない。


斜里バスターミナル行きの路線バスは、「イーグルライナー」号の後を追うように、9時40分にウトロを発車した。
色は異なるがこのバスにも鷲のイラストが描かれている。
羽を広げれば2mにも達するオオワシとオジロワシは、冬になれば知床半島に渡って来て、世界中からバードウォッチャーが集まるという。
「イーグルライナー」の名も、それに所以するのであろう。

ここから網走までは、10年前に走った懐かしい道のりである。
進むにつれて刻々と容姿を変える斜里岳を背負い、防風林に囲まれた畑や牧場の雄大な眺望は、季節と天候が変われば、これほど新鮮な表情を見せるものなのか、と蒙を啓かれた。


知床斜里駅を後にした単行のディーゼルカーの窓に映る、冬の装いを残したまま荒涼と広がる色褪せた湿原。
勾配のきつい山間部を、特急列車とは思えない鈍足で喘ぐように登っていく「オホーツク」6号から眺めた、残雪に埋もれる奥深い原生林。
人柱など建設当時のおぞましい歴史が今もなお語り継がれる、常紋トンネル。
そして、夕闇に沈む石狩平野。
ウトロから札幌まで9時間以上を費やした長い帰路は、強烈な印象を僕の心に刻み込んだ。

故障したスマートホンは、網走駅前で見つけた携帯ショップでも匙を投げられ、東京でも原因が判明せず、丸ごと交換するしかないと言い渡された。

 
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