中国山地一直線~大阪-三次線・みこと号・ミリオン号で中国道が主役だった時代を旅する~前編 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

大宮駅東口を21時35分に発つ大阪行き夜行高速バス「サテライト」号は、軒を並べる店の明かりが夜が更けても輝きを落とさず、狭い街路に車がひしめく東口駅前を走り始めた。 
平成4年初秋の金曜日の夜、当時の繁華街にはバブルの残り香が漂い、浮かれた華やかさがまだ感じられた時代である。


僕が乗り込んでいるバスは、白地に紺のラインが幾筋も描かれた国際興業バスのスーパーハイデッカーで、横3列独立シートの座り心地は申し分ない。
この時代、全国で爆発的に路線数を増やした夜行高速バスの標準的な座席配置は、客室に2本の通路を配して個々の座席を独立させたタイプで、定員は29名であった。
トイレが車両中央部の片側に設置されているバスが多く、容積が限られた車内のことであるから、トイレに面していない通路は幾分手狭で、窓際席の出入りに苦労することが少なくなかった。
国際興業バスの車両は、中央列の真ん中付近の座席を取り払って出入りを容易にした代わりに、定員を27名に減らしている。
今でこそ、定員を減らして座席のサイズを大きくしたり、前後の間隔を広げて居住性を高めている夜行バスが登場しているけれども、同社のバスは、乗客の利便性に配慮して定員を減らした初期の例であったと記憶している。
 
大宮を発着する高速バスに乗車するのは、この日が初めてだった。
その後、続々と登場することになる大宮発着路線には西武バスが参入し、高層ビルが林立して整然としている西口を発着するものが殆どで、古くからの繁華街がある東口とはだいぶ様相が異っている。
どちらが好みであるかは人によって違うのだろうが、僕は、夜行高速バスの乗り場が賑やかであればあるほど、旅立ちの雰囲気が盛り上がる気分になる。

「サテライト」号の愛称は、東京の代表的な衛星都市を起終点にしていることから命名されたものであろうが、大阪に本社を置く近鉄バスが次々と展開した、関東地方の主要都市と大阪を結ぶ夜行高速バス路線のはしりでもあった。
近鉄バスの首都圏方面路線は、平成元年3月に開業した横浜-大阪線「ブルーライト」号を皮切りに、

平成元年11月:大宮・浦和・川口-大阪線「サテライト」号
平成2年11月:八王子-大阪線「トレンディ」号
平成7年7月:宇都宮・栃木-大阪線「とちの木」号
平成13年4月:水戸-大阪線「よかっぺ」号
平成14年10月:真岡・下館・小山-大阪線「とちの木」号
平成16年3月:熊谷・坂戸・川越-大阪線「ウィングライナー」号
平成20年10月:小田原・新松田・御殿場・沼津線「金太郎」号
 
と、関東一円が同社の夜行バスによって関西と結ばれることになった。
福島県いわき市と大阪を結ぶ「シーガル」号も、途中、茨城県の高萩と日立に停車するので、関東発着路線の1つとして役割を果たしている。
 
 
関西の他のバス事業者も、西日本JRバスが平成元年3月に横浜-大阪線「ハーバーライト」号と、平成15年12月に大宮・所沢-大阪線「京阪神ドリームさいたま」号を開業し、阪急バスと阪神バスが平成元年12月に千葉・TDR-大阪線を、南海バスが平成17年3月に銚子・佐原・成田-大阪線、平成18年3月に戸塚・大船・鎌倉・藤沢・小田原-大阪線、そして平成21年5月に立川-大阪線の運行を開始した。
また群馬県に本社を置く日本中央バスが、平成13年から館林・佐野・足利・太田・桐生・前橋・高崎・藤岡・沼田といった群馬県内やさいたま新都心と大阪を結ぶ「シルクライナー」号を、単独で複数系統運行しているけれど、近鉄バスの路線数は群を抜いている。

鉄道であれば、長距離列車に乗るためには東京のターミナルまで出かけていくことが常識となっていたのだから、衛星都市から目的地に直行するこれらの夜行バスは、旅のあり方を大きく変えたのである。
その先駆けとなった「サテライト」号の功績は大であったと思う。


「サテライト」号は、大宮駅東口を出ると、跨線橋で線路の西側に渡って国道17号線・中山道に入り、22時発車予定の浦和駅に停車する。
今でこそ、大宮市と浦和市は与野市、岩槻市と合併してさいたま市になっているが、この旅の当時は、まだそれぞれが独立していて、東北・上信越・北陸方面に向かう鉄道の一大分岐点である駅を抱え、経済規模が大きい大宮市と、県庁が置かれた行政都市であり、東京のベッドタウンとしても人気が高い浦和市は、何かと比較されて世間に話題を提供していたものだった。
 
大宮市は、古代より武蔵国一の宮である氷川神社の門前町として、また中山道の宿場町として栄え、宿場としての規模は浦和よりも大きかったという。
明治維新の廃藩置県によって大宮県が誕生したが、県庁は暫定的に東京に置かれ、その後浦和県に改称した際には、県庁が浦和へ置かれたため、大宮に県庁が設置されたことは1度もない。
明治16年に日本鉄道が上野-熊谷間の鉄道を開業させても、現在のさいたま市域における最初の駅は浦和に置かれ、街道筋が寂れて戸数が極端に落ち込んでいた大宮には駅が設置されなかった。
挽回を期して、日本鉄道が東北方面に鉄道を建設する時には、分岐点となる駅を積極的に誘致したことで、明治18年に大宮駅が設けられる。
更に、国鉄大宮工場、大宮操車場などが併設され、鉄道の街として再び盛り返した大宮は、商業規模も県内随一となっていく。

鉄道趣味の観点から論ずるならば、東北本線と高崎線への直通列車が京浜東北線と共通の線路を使用していた昭和30年代から、特急・急行列車のみならず、大宮以遠に直通する普通列車すら通過してしまう浦和のことを格下と見なす向きがあり、大宮駅の現在の1日乗降客数はJR・東武鉄道・埼玉新都市交通合わせて37万人、JRだけでも25万2769人にものぼって、浦和駅の8万9963人を大きく凌駕している。
 
 
ただし、それは分岐点を大宮に置いた鉄道の事情に過ぎず、奈良時代に律令制の政庁が置かれ、中山道の主要な宿場町の1つでもあった浦和という街の埼玉県内における重みは、駅の規模だけでは測れない。
浦和市の人口は、平成7年に川口市を抜いてから県内で最大になり、明治期以降一貫して県庁が置かれ続けたのも浦和である。
大正12年の関東大震災を契機に、浦和には東京や横浜方面からの移住者が増え、昭和6年に京浜東北線の電車が走り始めると、東京のベッドタウンとしての都市化が急激に進む。
「鎌倉文士に浦和画家」と称されたように、東京の郊外で有数の文化人が活躍する文教都市としても知られ、高額所得者の比率も、渋谷区や世田谷区より高いのだという。
 
駅前や中山道沿いに大型店舗が建ち並ぶ大宮と、街路樹が生え揃って、しっとりと潤いのある浦和の街並みの違いは、「サテライト」号の闇に包まれた車窓からも、ほのかに感じ取ることが出来る。
 
 
バスは22時15分発の南浦和駅と22時35分発の川口駅に寄ってから、戸田橋の方に抜ける中山道と別れて、再びJR線の東側に渡り、鹿浜橋ランプから首都高速道路川口線に乗ったものと思われる。
僕はこのあたりからうつらうつらと居眠りしてしまい、川口駅での停車以降のことを覚えていない。

ふと目を覚ますと、バスは、渋滞に嵌まって速度を落としていた。
視界を塞ぐ無粋な防音壁と、路肩が全くない構造から、首都高速にいることはすぐに察せられた。
首都高速川口線は、小菅JCTで6号向島線に合流してから、堀切JCTで荒川を渡って、隅田川と下町の街並みを見下ろしながら南へ下り、7号小松川線が合流する両国JCTと、9号深川線が合流する箱崎JCTを経て、江戸川橋JCTで都心環状線に入っていく。
東北道と常磐道ばかりでなく、京葉道路や湾岸線方面からの車が全てこの区間に集中し、車線が増える訳でもなく、素人目にも無理のある設計のために渋滞が常態化していたから、いったい誰がこれで良しとしたのかと思う。

僕が目を覚ましたのは、合流に備えて車線が2本から1本に絞られている両国JCTの手前だったのかも知れない。
あちこちでカーテンが開いている客室に、工事車両や標識の黄色い回転灯の光が差し込んできた記憶もあるので、工事渋滞であった可能性もある。

「サテライト」号は、都心環状線の谷町JCTで右に折れて、東名高速道路に接続する3号線へと歩を進める。
平成12年に埼玉大宮線、平成14年に中央環状王子線、そして平成22年に中央環状新宿線、平成27年に中央環状品川線が開通した今となっては、埼玉方面から東名高速へ向かうために、このように大回りで混雑が激しいルートをわざわざ使うことはないのだろうが、当時は選択肢が他になかったのである。
高架の両側にそびえ立つビルの明かりが、歯が抜けたようにまばらになった深夜の都心を走り抜けて、用賀ランプで東名高速に乗り入れれば、間もなく多摩川を渡る。
荒川から多摩川まで、1時間以上は費やしたであろうか。

東京の公共交通網は、都心から放射状に外側へ伸びる路線が主流となっているから、都内に停車することなく素通りするという経験は、この時が初めてだったように思う。
面白い高速バスが出来たものだ、と考えているうちに、僕は再び眠りに引き込まれた。
トイレや洗面台、セルフサービスのお茶やコーヒー、冷水などを汲むことが出来るサービスコーナーが完備している「サテライト」号は、運転手さんが交替するために停車することはあっても、乗客が降りられる開放休憩を1度も行うことなく、夜を徹して東名高速道路と東名阪自動車道、名阪国道、西名阪自動車道を走り通す。
当時、あべの橋や上本町を発着する近鉄バスや、難波を発着する南海バスの夜行路線は、名神高速道路を通らずに名阪道路を経由していた。

阪神高速道路の高架で、道路の継ぎ目を拾うバウンドが激しくなった頃合いに目を覚ますと、ちょうど、交替運転手さんが前方のカーテンを開け放つところだった。
前夜にカーテンが閉め切られた時には、東京の煌びやかな夜景が車窓を彩っていた。
朝を迎えて開け放たれたカーテンの向こうには、ビルや家々の屋根がぎっしりとひしめく大阪の街並みが忽然と現れ、運転手さんが、マントのひと振りでイリュージョンを演出する熟練した手品師のようである。
埼玉と大阪の間を隔てる570kmもの距離を感じさせない程、熟睡したということなのだろう。

阪神高速14号線文の里ランプを降りた「サテライト」号は、定刻6時45分より早めに、あべの橋バスターミナルに到着した。
近鉄百貨店を見上げる歩道に設けられた乗降場に降り立つと、湿った空気が僕の鼻をくすぐった。
見上げれば、どんよりと雲が低く垂れ込めて、今にも泣き出しそうな空模様である。


JR天王寺駅から大阪環状線を半周して大阪駅で降り、忙しく行き交う人波に揉まれながら、隣接する阪急梅田駅を通り抜けて、僕は三番街高速バスターミナルにやって来た。
これから、中国自動車道を走る3本のバスを乗り継いで、九州まで行ってみようと思っている。

どうしてそのようなことを思い立ったのかと言えば、きっかけは、一葉の写真だった。
広島市内の路面電車と、宮島までの郊外電車を運行し、加えて多くのバス路線を展開する広島電鉄バスの、緑と白のツートンカラーをまとったバスを見かけると、今でも胸がときめくことがある。
故郷でもないのに、何を言っておるのかと思われるだろうが、広島電鉄バスを目にすると、若かりし頃の記憶が蘇ってくるのだ。

僕が高速バスの旅に興味を抱き始めた昭和60年代は、まだ高速バスが発展しておらず、利用者も限られていた。
夜行高速バスも、東京と名古屋・京都・大阪・神戸を結ぶ国鉄「ドリーム」号や、東京と仙台や山形を運行する「東北急行バス」、大阪と福岡の間を走る「ムーンライト」号など、数える程度であった。
それでも、旅行雑誌「旅」が高速バス特集号を発行したり、バスに設置する音響機器のメーカー「クラリオン」が、全国の長距離バスの写真集を出版するなど、少しずつ高速バスの情報が巷に流れ始めていて、僕はページをめくりながら、掲載されているバスと、その終点の見知らぬ町に、憧憬の念を抱いたものだった。
僕の心の琴線に触れたのは、大阪と広島県の加計町を結ぶ広島電鉄の昼行高速バスの写真だった。


この路線の開業は、昭和59年5月である。
営業距離は390.5kmにも及び、東京と名古屋を結ぶ国鉄「東名ハイウェイバス」を15年ぶりに抜いて、昼行高速バスとして日本最長だったことが、僕の心をとらえたのだろうか。
所要時間は6時間5分で、その運行ダイヤは、

加計営業所5:55→安佐営業所6:31→千代田営業所6:50→備北観光三次営業所7:30→東城営業所8:13→新大阪駅12:00
新大阪駅14:30→東城営業所18:17→備北観光三次営業所19:00→千代田営業所19:40→安佐営業所19:59→加計営業所20:35

という1日1往復だった。
地方から都会への上り便を朝に、下り便を夕方から夜にかけて運行する高速バスは、地方側の町が小規模だったり、有名観光地ではない場合に、しばしば見られたことである。
徹底して地方の人々の利用を指向しているために、余所者には乗りづらく、趣味で乗ろうとしても持て余してしまう。

写真には、白と緑のツートンカラーをまとった、当時とすれば豪華な外観のハイデッカーが写っていた。
前面の行先表示には「高速 広島(加計)」と書かれている。
加計をして広島を代表させるのかと思うが、大阪-加計間高速バスでは、夏休みや冬休みなどの多客期に広島バスセンターまで延伸する臨時便も運転されていた。
座席配置は横4列で、長時間乗車に備えて補助席がない特注シートが用意された。
ひと目見ただけで、乗りたい、と思った。


そもそも、加計とは、どこにある町なのか。
調べてみると、広島県北部に位置する町で、かつて、広島市内の山陽本線横川駅と島根県境に近い三段峡駅を結んでいた可部線の沿線で、加計駅は、三段峡より4つ手前の駅だった。
加計の方には申し訳ない感想であるが、地味である。
長距離高速バスの起終点としては、あまりにも渋い。

紀行作家の宮脇俊三氏が、国鉄全線の完乗を目指していた最中に可部線にも乗車しているが、行き止まりの盲腸線のために同じ線路を折り返すことになり、

「さすがに帰路は退屈した」

と書いている。
なぜ、この町を高速バスの起終点に選んだのだろうと思う。

三次・千代田・加計といった広島県北部の中国山地に位置する地域は、もともと広島市と結びつく生活圏を形成し、物流も、買い物に行くのも広島市が中心で、鉄道やバスも広島発着ばかりだった。
昭和58年に中国道が全線開通し、翌年に沿線の町から大阪へ直行する複数の高速バスが開業すると、大阪都市圏との交流が活発になり、ショッピングも、商談や仕入れも、直々に大阪へ出かけて行くようになったと言う。
生活圏や経済圏に大きな変革をもたらした、画期的な高速バスだったのである。

僕が初めて中国道をバスで旅したのは、大阪と岡山県の津山を結ぶ国鉄中国高速線「中国ハイウェイバス」だったが、その先の三次・千代田・加計まで、中国山地の真っ只中を貫く中国道の車窓を、日中に楽しむことが出来る大阪-加計線は、いつか乗ってみたい憧れのバスになっていた。
しかし、いくら乗りたくても、加計を早朝に出て夜に加計に戻る運行ダイヤに合わせた旅程を組むことは至難の業で、どうしても加計に1泊することが必要になる。
それはそれで楽しそうであるが、日程が捻出できない。

平成2年から南海バスと中国JRバスが大阪と広島を結ぶ高速バス「ビーナス」号を夜行1往復で走らせ始めていて、中国道が完成していても、大阪と広島とは、定期運行では夜行バスしか走れないほど遠いのか、と感じ入ったものだった。
そもそも、夜行では旅の趣旨が違う。
僕は、中国道を日中に走ってみたいのだ。


阪急バスが備北バスや中国バスと共同運行で、昭和56年7月から大阪-新見線を、昭和59年5月から大阪-三次線の運行を開始していて、三次系統には、大阪を朝に発車する便がある。
救いの神ここに現れたり、とばかりに、僕は、加計より手前ではあるけれど、大阪と三次を結ぶ高速バスに乗ることを決めて、わざわざ大阪行きの夜行高速バスに飛び乗った次第である。

三次行きの阪急バスは、梅田を午前7時30分に出発する。
嬉しいことに、車内には昼行高速バスにしては破格の横3列シートが並び、僕は左側最前列の特等席をあてがわれたから、嬉しくなった。
天井が低く薄暗いバスターミナルを抜け出せば、梅田の路地は車で埋め尽くされ、商都大阪の活況を目の当たりにする思いだった。
2年前に「国際花と緑の博覧会」が大阪で開催され、その後の「失われた20年」で日本経済が大きく失速することなど予想もしなかった時代だった。
フロントガラスいっぱいに曇り空を映しながら、急傾斜の流入路で御堂筋の高架道路に駆け上がると、大阪の街並みが一望のもとに広がる。
僕は、梅田発の高速バスに乗車した時のこの瞬間が好きである。

続いて、広大な河川敷を抱く新淀川大橋を渡りながら左右を見回せば、なみなみと水を湛えた広い川に、JR東海道本線や阪急線の鉄橋が適度な間隔をあけて並走している。
新幹線の長大なホームを見上げる新大阪駅の停留所には、十数人の待ち客が待っていたが、三次行きに乗り込んで来たのは2~3人だった。
次の千里ニュータウン停留所は、建ち並ぶ高層アパートの谷間の側道に設けられ、手前で渋滞に巻き込まれたことで数分の遅れが生じたが、誰も乗って来なかった。

間もなく、前方を中国道の高架が横切っているのが見え、バスは並行する中央環状道路をしばらく走った後に、池田ICから高速道路に入る。
水を得た魚のように元気を取り戻したバスは、みるみる加速していく。
時々減速しては、宝塚IC、西宮名塩、西宮北ICの各バスストップが設けられた側道に寄っていくが、こぢんまりとしたガラス張りの待合室は、どれも無人だった。


中国地方の中央部を東西に貫く形で建設された中国道は、吹田JCTから下関JCTまでの総延長が540.1kmにものぼり、高速自動車道路としては東北自動車道に次いで長い。
昭和40年代に中国縦貫道の構想が発表された際には、「中国地方においては、高速道路網の東西軸は1本のみを建設する」と決められ、山陽地方からも山陰地方からもほぼ等距離にアクセス出来るよう中国山地内に建設されたため、カーブやアップダウンの多い線形になっている。
中国地方の高速道路計画については、その後に見直されたらしく、平成9年に山陽自動車道が全通すると、岡山や広島などの主要都市の近くを通って線形が緩やかな山陽道へ大半の流動がシフトしたが、この旅の当時は、中国道が東西を直結する唯一の高速道路として君臨し、交通量も少なくなかった。

山陽道の開通後も、内陸部の町や、中国道から分岐する鳥取自動車道、米子自動車道、松江自動車道、浜田自動車道などで結ばれている山陰の各地域にとっては、今もメインルートとして機能している。
大阪-加計線をはじめ、僕が乗車している大阪-新見・三次線や、大阪と津山を結ぶ「中国ハイウェイバス」は、中国道の開通と期を一にして開業し、その他の山陽・山陰・四国・九州方面に向かう他の高速バスも、今でこそ山陽道を経由しているものの、開業当初には中国道を利用していた路線が多い。


僕も、幾度となく中国道を走っているにも関わらず、沿線風景の記憶は曖昧である。
東名・名神高速道路や東北道・関越道・中央道などと異なり、昼行高速バスの路線数が少なく、夜行バスでの利用が多かったことも一因であろうか。
「中国ハイウェイバス」で初めて中国道を昼間に走った時の記憶も、淡々とした車窓を平板に感じたことだけである。

三次行き高速バスは、六甲山地を左手に望みながら、山あいの田園地帯を快走する。
これから中国山地の懐へ分け入っていくことになるが、高度が少しずつ高くなっているのは何となく察せられても、地形が険しいようには思えない。
中国山地の山々は高くても標高約1000m~1300m程度で、その他はおおむね200m~500mクラスの山ばかりである。
1億年前の造山運動の後、8000万年前には火山活動が活発となって火砕流の堆積物が広くこの地方を覆い、冷えたマグマが脆い花崗岩となって、侵食作用により小さな起伏ばかりの準平原地形の山地が完成した。
地形学的には日本列島の中でも古い部類に入り、侵食はほぼ完成しているために、車窓も、眠気を誘うような平板な印象になる。

†ごんたのつれづれ旅日記†

古くから、中国地方には山陽と山陰を連絡する南北の鉄道が発達していたものの、中国道のように横糸の如く東西を紡ぐ移動手段には乏しかった。
東京からやって来た人間にしてみれば、沿線の土地の名には馴染みが薄く、自分がどこまで来ているのかを把握する唯一の手がかりとして、中国道と交差する陰陽連絡鉄道の知識ばかりに基づくことになるのは、鉄道ファンとしてやむを得ないことである。

最初は、山陽本線尼崎駅と山陰本線福知山駅を結ぶ福知山線と一緒に、大阪平野から山中に分け入り、武庫川の峡谷を渡ってから、北へ進路を変える同線と袂を分かつ。
谷が開けた先にある神戸三田ICは、市街地から20kmも北にありながら、神戸の名を冠している。
中国道の他に高速道路がなかった時代には、ここが神戸市の最寄りのインターで、六甲山地を南北に貫く六甲有料道路と六甲北有料道路で市街地と連絡している。
福知山線から山陰本線で日本海に向かうルートが、最も東寄りの陰陽連絡線であり、平行して、神戸から浜坂へと本州を縦断する高速バスもある。


三田を過ぎると、関西圏の賑々しさが嘘のように景色が鄙びて来て、いよいよ中国山地に足を踏み入れた感触になる。
吉川JCTで舞鶴若狭自動車道が北へ分岐し、加古川に沿う加古川線を高架でひと跨ぎに越える。
加古川線は、明石と姫路の間にある山陽本線加古川駅から、福知山線の谷川駅まで延びている。

この旅の3年後、平成7年1月に発生した阪神・淡路大震災において、山陽新幹線や山陽本線、山陽電鉄など沿岸地域の交通網が寸断されると、福知山線と加古川線が、大阪と姫路を繋ぐ重要な迂回路となった。
また、ひどい渋滞に悩まされながらも、唯一機能した東西幹線道路が中国道で、震災直後に大阪と姫路を結ぶ鉄道代替の高速バスが走り始めたものの、宝塚付近の渋滞で1便も目的地に達することが出来ず、翌日から三田と姫路の間に運行区間を短縮したという出来事もあった。


四百数十体もの石仏が並ぶ北条石仏で知られ、「中国ハイウェイバス」の区間便が発着する北条町を左手に眺め、民俗学者柳田國男氏の生家がある福崎町に入ると、福崎JCTで姫路方面への播但連絡自動車道と交差する。
当時の大阪から岡山や四国方面へ向かう高速バスは、中国道から播但連絡道に入り、姫路から先を部分開通の山陽道や国道2号線バイパスといった一般道を使っていた。

播但連絡道とほぼ並行して、姫路駅と山陰本線和田山駅を南北に結ぶ播但線が通じている。
山陰本線が京都を起点にしているため、大阪から鳥取方面へ向かう列車は、福知山線や播但線に乗り入れていた。
初めて山陰を訪れた学生時代に、往路は京都から特急「あさしお」で鳥取に向かい、復路は播但線経由の特急「まつかぜ」で大阪に抜けた。
嵐山の麓の太秦付近で、鬱蒼とした竹林を抜け、保津川が穿つ渓谷に沿う山陰本線の風情に比べれば、円山川や市川が開いた山峡に点在する農村や耕地が繰り返し現れる播但線の車窓は、平凡に感じられたものだった。
比較する相手が、古都の情緒が溢れる嵯峨野や保津峡では、どこの土地でも勝負にならないとは思う。


中国道をひた走る高速バスから眺めても、その印象に変わりはないけれど、慌ただしい日常から離れてのどかな風景に接すれば、解放感と退屈が同居して、なかなか得難い時間ではないかと思い直す。
関西から中国山地への流動は、このあたりまでがピークのようで、地図を見れば、中国道沿線に数多く見られていたゴルフ場が、播但線を境にめっきりと数を減らしている。
集落も田園の中にぽつりぽつりと点在するだけになるが、堂々たる瓦屋根を乗せた重厚な造りの家が目立つ。
 

因幡街道の中心的な宿場町だった山崎を過ぎ、佐用町に近づくと、雲行きは更に怪しくなって、遠くの山並みには靄が漂い、風景が暗く翳りを帯びてくる。

山崎ICで交差する国道29号線は姫路と鳥取を結び、中国地方の分水嶺では最高点となる891mの戸倉峠を越える陰陽連絡道路で、姫路-鳥取間には特急バスも運行されているが、東京や大阪から鳥取市に向かう高速バスは、佐用ICで中国道を降り、国道373号線を使う。
東京発の夜行高速バス「キャメル」号や大阪発「山陰特急バス」に乗り、背の高い木々が道の両側を覆う峠を越えて、分水嶺の先からは千代川の清流と共に日本海へ抜けていく淋しげな車窓を眺めれば、心細さが込み上げて来たものだった。
山陽本線の上郡駅から姫新線の佐用駅を通って、杉や檜の集散地である因美線の智頭駅まで、第3セクターの智頭急行線が建設され、関西と鳥取を結ぶ最速ルートとなったのは、平成6年のことである。


因美線の線名は、因幡と美作を結ぶことに由来するが、その独特の音韻からは、宮脇俊三氏の随筆「山陰ストリップ特急(「終着駅は始発駅」所収)」に描かれた、夜の鳥取でストリップ小屋を訪れる一節が思い浮かぶ。

『彼女の古びた山陰本線を眺めながら私は、はやくあしたの朝になればいいなと思った。
あすは因美線に乗る予定であった』
 
因美線の南側の起点となり、姫路からの姫新線や岡山からの津山線と接しているのは、古代から美作の国府が置かれていた津山で、僕の中国道初体験になった国鉄「中国ハイウェイバス」の終点である。
中国山地にしては大きな盆地と町の規模だったという以外には、何も覚えていないのだが、津山から先の中国道を日中に走るのは初めてだった。

佐用からは姫新線が中国道に寄り添っている。
中国山地で東西に敷かれた鉄道は珍しく、線名の通り姫路と新見を結んで、佐用、津山、落合、勝山、新見といった岡山県北部の比較的大きな町の人々を姫路まで運んでしまおうという発想は大胆に思えるけれども、かつては関西から湯原温泉や蒜山高原への旅行客で賑わった時代もあったと聞く。
新設の智頭急行線をはじめ、津山から岡山に抜ける津山線、新見から倉敷に抜ける伯備線など、姫新線の沿線から山陽地方に出る線路も多く、加えて中国道に大阪への高速バスが走り始めると、姫路近郊をはじめとする短区間のローカル輸送が主な役割に変わっている。


佐用ICの先の上月SAで休憩になった。
少しばかり冷たいけれども、東京とも大阪とも異なる澄み切った空気が、僕の身体をそっと包み込む。
降りたばかりのバスを振り返ると、不意に既視感に襲われた。
学生時代に乗車した鳥取行き「山陰特急バス」も、ここで休憩したような気がしたのだ。
その時は、開業したばかりの夜行高速バス「アルペン長野」号で故郷の信州から大阪に出て、鳥取から米子を回りながら「山陰特急バス」で往復した。
バスが駐まる駐車場の配置も、周囲の起伏に乏しい山並みも、その時の記憶とそっくりだったが、しかし、そのようなはずはない、と思い直す。
「山陰特急バス」は、上月SAの手前の佐用ICで中国道を降りているはずである。
記憶が混乱するほど、中国道の車窓は単調なのだ。


伯備線は、数ある陰陽連絡線の中で最も賑やかな線で、米子、松江、出雲から山陽新幹線に達する短絡線として電化され、特急「やくも」が頻繁に運転されている。
平行する米子自動車道にも、東京や福岡からの夜行高速バスをはじめ、米子と大阪を結ぶ「山陰特急バス」や、松江・出雲から大阪に向かう「くにびき」号、岡山に向かう「ももたろうエクスプレス」号といった複数の高速バスが行き交っている。


伯備線と姫新線が交わる要所にある町が新見で、加えて東城、庄原、三次を経て広島へ向かう芸備線が出ている。
中国山地の中にある大きな平地と言えば津山と三次くらいであり、大阪-津山間「中国ハイウェイバス」と、大阪-新見・三次間高速バスが、この2つの盆地で棲み分けている形になっている。
「中国ハイウェイバス」に遠慮するかのように、津山まではノンストップで走り込んできた三次行き高速バスは、落合ICから降車扱いを始めて、中国勝山、中国新見、東城といった高速道路上のバスストップに停まり始める。


このあたりの地形は複雑を極め、主要な町を丹念に経由していく芸備線は山襞のままにうねうねと曲がりくねり、同じ地域に向かっているはずなのに、一体どこへ行くつもりなのかと心配になるほど、中国道から北へ離れていく。
地形に関係なくトンネルと橋梁で直線的に建設されているように見える中国道ですら、東城ICと庄原ICの間には半径250mというきつい曲線が連続し、北房ICと新見ICの間は、急カーブと急勾配のために時速60kmに制限されている。

かつて、福山から東城を経由して米子に向かう陰陽連絡バス「フライングフィッシュ」号が平成2年に開業し、終始一般道を走ることで、中国山地越えの醍醐味を堪能させてくれた。
福山を発着する陰陽連絡バスは珍しく、高規格道路を通らず中国地方を縦断するバス旅は大変楽しかったのだが、乗客数が低迷し、平成13年に松江に延伸したり、車両をマイクロバスに小型化して健気に頑張っていたものの、平成27年に廃止されてしまったのは残念である。


大きく北へ迂回した芸備線の頂点に位置する備後落合駅からは、松江と出雲の間にある宍道駅まで、JR木次線が敷かれている。
木次線は陰陽連絡線の中で最も高い地域を走り、広島と島根の県境では標高730mにも達するため、出雲坂根駅付近の三段式スイッチバックなど、峻険な地形に難儀していることがよくわかる線形となっている。
並走する国道314線にも、おろちループと呼ばれる螺旋構造で、急斜面の上り下りを余儀なくされる箇所がある。
芸備線から木次線に乗り入れて広島と松江を結ぶ急行列車が走っていた時代もあったが、中国道と国道54号線を経由する広島-松江間高速バス「グランドアロー」号が開業し、平成25年に松江自動車道が完成してからは、木次線を使って陰陽を行き来する客は殆ど見られなくなった。



木次線を有名にしているのは、ループ線ばかりではなく、亀嵩駅であろう。
松本清張氏の長編推理小説「砂の器」で、西日本でも東北弁に似たズーズー弁を話す地域として重要な舞台になり、駅舎で営業している奥出雲蕎麦の店に業務を委託している駅として、蕎麦目当てに訪れる人も多い。

僕も亀嵩まで足を伸ばし、単行のレールバスが僅かな客を乗せて駅を出入りする風情に心を打たれ、黒々と光るコシの強い蕎麦に舌鼓を打ったことがある。
大声では言えないけれども、レンタカーで訪れたのである。
本数が少なく、時間がかかる木次線でのんびりと往復する時間は、とても取れなかったのだ。


長かったような短かったような5時間が過ぎ、バスは三次ICで中国道を降りた。
大阪から三次まで310.3kmのバス旅も、間もなく終わりである。
終点の備北観光三次営業所とはどこにあるのか、次の乗り換えの関係から駅から遠いと少々やっかいだな、と心配したけれど、着いてみれば、JR三次駅から歩いて数分程度の国道沿いだった。
 
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