新宿-日光高速バスと特急けごん・日光の思い出~世界遺産日光と鬼怒川温泉の栄枯盛衰~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

日光へ初めて行ったのは昭和50年のこと、僕が小学校4年だった年の家族旅行だった。
秋の連休が始まる土曜日の午後に、父が仕事を終えるのを待ち、故郷の長野から上野へ向かう特急「あさま」に乗り、東京で1泊、翌朝に浅草に出て東武鉄道の特急「けごん」に乗車したのである。
 
 
既に鉄道ファンになっていた僕は、東照宮や中禅寺湖などといった観光地よりも、「けごん」に乗れることが嬉しくて仕方がなかった。
まずは、江戸通りの正面に立ちはだかる松屋デパートの2階に入った東武浅草駅の、ローカル私鉄の駅とあまりに異なる威容に度肝を抜かれた。
デパートの中から列車が出入りするのも珍しかったし、国鉄の駅と接続していないことも意外で、東武鉄道を利用する客は不便さを感じないのだろうかと、子供心に心配になったものだった。
 
東武鉄道が北千住と久喜の間を開業したのは明治32年のことで、明治45年には現在の佐野線に当たる佐野鉄道を、大正2年には現在の桐生線を運営していた太田軽便鉄道を、大正9年には現在の東上線である東上鉄道を合併するなど、北関東を中心に着々と路線網を拡大し、昭和4年には日光線が全通、日光特急の運転が開始されている。
明治35年に北千住から吾妻橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)まで線路を延伸し、そこを浅草駅へと改称したものの、隅田川を越えることがなかなか出来ず、現在の地にターミナル駅を設けたのは昭和6年のことであった。
 
 
建設当初の東武浅草駅は、アール・デコ様式の外観を持ち、阪急梅田駅と東急五反田駅に出店した白木屋に次ぐ、日本で3番目のターミナルデパートだったという。
今では創業当初の姿に復元されているものの、僕ら家族が訪れた時は、如何にも百貨店でございます、といった印象の真四角な建物に改造されてしまっていたけれど、それでもお上りさんの目には、堂々たる建築物に写った。
駅舎は隅田川と平行して建ち、直角に川を渡るために、半径100mというきつい曲線が構内から始まっていて、ホームは先細りになっている。
列車がかなりの速度で轟々と通過していくJR総武線や京成電鉄の鉄橋と比べて、時速15kmのノロノロ運転で川を渡る東武電車の姿は一種の風物詩となっているけれども、このカーブが災いして、乗り入れる列車は6両以内という制約も受けている。
 
 
当時の「けごん」は、昭和35年に登場した、デラックスロマンスカー(DRC)の愛称を持つ1720系車両の時代で、国鉄とはひと味異なるいかつい風貌は、長大編成の先頭車にも相応しいと思われたが、やはり6両編成だった。
国鉄の特急列車では10両以上が常識という時代であったから、6両の特急なんてあるものか、やっぱり私鉄だな、と思ったものだった。
 
浅草駅のホームに上がってみれば、幅が狭く、大きく右へカーブしている構造に、どこか無理をしている駅だなあ、と感じた。
図鑑や写真集で何度も目にしていた1720系を目の当たりにした時には、飛び上がりたくなる程に嬉しかったけれども、頭端式のホームの車止めぎりぎりまで寄せて停車している先頭車を撮影できるアングルがどうしても定まらず、父親から、何をモタモタしている、早く乗りなさい、と叱られた。
 
 
北千住駅を通過すると、「けごん」はみるみる速度を上げて、北関東の広大な田園地帯を疾走する。
浅草から日光まで135.5kmの距離を、当時の「けごん」は1時間40分で走り抜いた。
途中停車駅のないノンストップ運転で、そのような長時間を無停車で走る列車に乗車したのは初めてだったから、東武鉄道は何という凄い特急列車を走らせているのだ、と驚嘆した。
辛子色に塗られた、国鉄のグリーン車を思わせる豪華なシートに座り、特急で1時間40分もかかる距離の線路を私鉄が所有していることにも驚かされた 。
東武鉄道の路線総延長が当時で467.5km、近畿日本鉄道と名古屋鉄道に次ぐ日本で3番目の規模であることは知っていたけれど、僕が圧倒されたのは、初めて接する大手私鉄の雰囲気ではなかったかと思う。
 
日光では、東照宮を詣でてから中禅寺湖を訪れて華厳滝を見る、というお決まりのコースを予定していたのだが、タクシーの運転手さんが両親に向かって、
 
「お客さん、いろは坂は渋滞でとっても無理ですわ。代わりに霧降高原にしませんか。いいところですよ」
 
と誘い水をかけてきた。
ちょうど紅葉シーズンたけなわで無理もない話であったが、霧降へ行き来した車窓は全く覚えていない。
目がくらむような白亜の高い橋を見物した記憶だけが残っていて、後に、それは六法沢大橋であると知った。
父も母も、
 
「タクシーの運ちゃんにとって都合の良い場所に行かされてしまった」
 
などと、後々まで不機嫌そうにぼやいていたが、東照宮から中禅寺湖までは17km、霧降高原までは12kmであるから、霧降高原の方が実入りが良いわけではなく、渋滞の話は本当だったのであろう。
 
 
それから20年の月日が流れて、平成7年3月に、新宿と日光・鬼怒川温泉を結ぶ高速バスが開業した。
 
運行するのは関東バスと東武バスで、関東バスとは、東京在住でなければ馴染みが薄い名前かも知れない。
宇都宮に関東自動車というバス事業者が存在するからややこしいけれども、全くの無関係である。
東京西部の中野・杉並・世田谷・練馬区の鉄道駅や住宅地を歩いていると、こんな小さな路地に、と思うような場所でも同社のバスを見かけることが多く、地元に密着した路線展開に徹しているのだが、その歴史は、昭和7年に関東乗合自動車として発足し、新宿駅と小滝橋を結ぶ路線の運行を開始したことに始まる。
地元の有志によって設立された規模の小さい会社で、発起人と初代社長は歯科医だったという。
昭和13年には東京横浜電鉄(現・東急バス)の傘下に収まり、戦時中の昭和20年に、中野駅以西の早稲田通り近辺をエリアとする中野乗合自動車、五日市街道沿いに杉並区と武蔵野市にかけて営業していた進運乗合自動車、荻窪を拠点に西荻窪・阿佐ヶ谷、高井戸方面への路線を運行していた昭和自動車商会の3社を合併、昭和39年11月に関東バスと社名を変更し、独立した。
昭和45年には、我が国のバス事業者で初めてワンマン化率が100%となっている。
 
 
長距離高速バスとしては、昭和63年8月に開業した新宿-奈良間と新宿-五條間の2系統の「やまと」号が、他に直通交通手段のない区間に登場した路線として好評を得た。
 
その後は、
 
平成元年12月:新宿-京都・枚方間「東京ミッドナイトエクスプレス京都」号
平成2年3月:新宿-岡山・倉敷間「マスカット」号
平成4年4月:新宿-宇治・枚方間「宇治」号
平成18年8月:新宿-豊橋・田原間「ほの国」号
平成29年1月:池袋-大阪間「ドリームスリーパー」号
 
と5本の夜行高速バスを開業させているが、都内の他社の高速バス網に比べれば控えめである。
 
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新宿-日光・鬼怒川線のターミナルは、何本もホームが並ぶ新宿駅西口の14番乗り場で、都営バスや関東バスなどの一般路線バスに混じって乗降扱いが行われていた。
 
当時、新宿発着の高速路線は、箱根行き高速バスが出入りする小田急ハルク前の乗り場か、中央高速バスが出入りする新宿西口高速バスターミナル、または新宿駅南口のJRバス関東のターミナルを起終点にしていて、後に、一時期だけ西武バスの長距離路線が乗り入れていたことがあったものの、一般路線バス乗り場から発着する路線は新宿-日光・鬼怒川線が初めてであった。
奈良・枚方・岡山・豊橋方面への夜行高速バスも、京王バスが運営する新宿西口高速バスターミナルに間借りしていたことから、やっぱり同社の高速バスは影が薄いのだが、日光・鬼怒川線もそこから発着していれば、少しは知名度が上がったかもしれない。
 
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「けごん」に乗車した幼い頃のことを思い浮かべれは、浅草より立地の良い新宿から出る高速バスには案外需要があるのではなかろうか、と考えていたが、新宿を8時30分に発車する便に乗り込んだのは、僅か数人に過ぎなかった。
すいているバスは有難いけれども、この路線は果たしていつまでもつのだろう、という心配が先立ってしまう。
 
この路線は、新宿を7時30分と8時30分、日光東照宮を14時と16時に発車する、運行距離159.6km・所要2時間45分の日光系統と、新宿を8時、9時、13時30分、15時に、鬼怒川温泉駅を8時、9時、14時、16時に発車する、運行距離172.2km・所要3時間15分の鬼怒川系統に分かれていた。
 
 
ちなみに、東武鉄道の特急電車のダイヤは、僕が乗車した昭和50年の時刻表を紐解いてみると、下りは、浅草発7時20分から9時20分まで6本の東武日光行き「けごん」が続け様に発車し、あとは浅草発11時から19時40分までは11本の鬼怒川温泉もしくは鬼怒川公園行き「きぬ」に入れ替わって、20時10分発の最終特急だけは「けごん」が務めていた。
上りは、鬼怒川公園や鬼怒川温泉を発車する「きぬ」が8時30分から16時05分までの間に9本が運転され、その間の「けごん」は東武日光発10時50分と12時50分、16時の3本だけだが、16時40分から18時までは続々と5本の「けごん」が発車し、18時30分と19時30分の2本の「きぬ」が締めくくるというパターンであった。
細かな変更はあるものの、高速バスが走り始めた平成の初頭も、ほぼ同様のダイヤが組まれている。
東武日光線と鬼怒川線が分岐する下今市で、「けごん」には鬼怒川温泉発着の、「きぬ」には東武日光発着の普通電車が接続し、時刻表でも同じ欄に掲載されているものの、日光への観光客は午前に首都圏を出発して午後に帰り、鬼怒川温泉への宿泊客は午後に着いて午前中に宿を発つという傾向を反映したものと思われる。
 
高速バスのダイヤも同様に、日光系統の下りが午前、上りが午後の運行となっているものの、鬼怒川系統は午前と午後の偏りがないことが特徴で、便によっては乗客数に大きく差が出たのではないかと思われる。
日光系統より鬼怒川温泉系統の運転本数が多いことは、意外であった。
この頃から、後に顕著になる日光への観光客の低落が始まっていたのだろうか。
 
 
新宿駅西口を出た日光行きのバスは、青梅街道から山手通りに右折し、川越街道との交差点に近い地下鉄有楽町線要町駅で乗車扱いをする。
当時の山手通りは工事箇所ばかりで、車線規制があったり、掘り返しては埋め直し、舗装を重ねて継ぎはぎだらけの区間があちこちに見られた。
もともと曲線が多い線形だから、自分でハンドルを握っていても、東京の環状道路の中では群を抜いて走りにくかった。
いったい何を工事しておるのかと思っていたが、そのうちに、首都高速道路中央環状線の地下トンネルを建設していることを知った。
平成27年に中央環状線が開通した後には、見違えるようにすっきりとした山手通りを見て、なるほど、と1人頷いたものである。
 
要町付近では首都高速5号池袋線の高架が頭上を覆い尽くし、昼でもヘッドライトを点灯したくなるような薄暗さである。
バスは中山道に針路を変じて高架道路の下を走り続け、環状7号線の橋梁で荒川を渡り、鹿浜橋ランプから首途高速川口線の高架に駆け上がる。
荒川の河川敷が広がり、街並みの彼方に池袋のサンシャイン60まで見通せる景観に、心が晴れ晴れとするのも束の間のことで、浦和JCTで東北自動車道に入るまでは、視界の殆どが防音壁に遮られてしまう。
浦和料金所を通過し、ようやくバスの速度が上がって気持ちよく走り始めると、いつの間にか、窓外が田園風景に変わっていることに気づかされる。
目を見張らされるような風光明媚という訳ではないけれど、それまでの車窓にはぎっしりと都市景観が詰め込まれていただけに、一気に都会を抜け出したことを実感させてくれる、東北道の伸びやかな導入部が、僕は好きである。
 
東北道は、青森まで700kmを超える我が国最長の高速道路であるけれど、この日の僕は、関東平野をちょっぴり縦断しただけで、関東山地の山々が窓外に押し寄せてくるあたりの宇都宮ICで降りてしまう。
この路線には、高速道路上に白岡、佐野、鹿沼のバスストップが設けられていたが、この日は利用客が見受けられなかった。
 
宇都宮ICから日光宇都宮道路に乗り換えたバスは、今市ICで高速を降り、東武線上今市駅に近い春日町のバス停で1人の客を降ろしてから、国道119号線を西へ向かう。
川原に白い石ころが転がり、水流が激しく波打っている大谷川に沿う道路は、今市の市街地を抜けると登り坂に差し掛かる。
両側から東武日光線とJR日光線が、狭い平地を奪い合うように寄り添ってくる。
今市の中心部の標高は390m、日光駅が530m、東照宮の西の馬返しで870m、中禅寺湖が1270mであり、日光の地は、2486mの男体山の稜線に連なる傾斜地にある。
 
大谷川は「だいやがわ」と読み、中禅寺湖に源を発して、華厳滝をはじめ裏見滝、霧降の滝、寂光滝、白糸の滝など、著名な滝が見られることで知られている。
東武鉄道は、「けごん」を補完する座席指定の急行「だいや」を、浅草-東武日光間に走らせていた。
子供の頃は、ダイヤって何?──と時刻表をめくりながら首を傾げていたが、後に「きりふり」へと愛称を変更し、平成13年に特急に昇格する形で定期運行から消えてしまった。
 
午前11時過ぎに到着した東武日光駅では、乗客が全員席を立ってしまい、土産物店やホテル、寺院がひしめく街並みをすり抜けて、終点の日光東照宮停留所まで乗り通したのは、僕だけだった。
金谷ホテル直営のパン屋が入っている日光食堂本店の、古めかしい建物が目立つ神橋バス停付近から、大谷川のせせらぎに耳を傾けながら短い橋を渡って、杉並木がそそり立つ東照宮の入口を左折し、西参道の手前の東照宮バス停までの街路は、子供の頃に訪れた時の記憶と何ら変わりがなく、20年の歳月が一気に短絡した。
 
 
この道を、路面電車が走っていたことがある。
日光駅前から神橋を経て、いろは坂の登り口に当たる馬返までの9.6kmを、東武鉄道日光軌道線のチンチン電車が行き来していたが、車の通行の邪魔になるという地元の要請により、昭和43年に廃止されてしまった。
実に勿体ないことをしたと思う一方で、車がひしめく狭い道路を目にすれば、路面電車が走っていた頃はかなり窮屈だったのではなかろうかと推察するが、一時は、沿線の古河精銅所までJR日光線から乗り入れる貨物列車が乗り入れていたというのだから、驚きである。
我が国の路面電車では最も標高が高い所に敷設されていたことでも知られ、途中の勾配は、40‰以下にするよう定められている軌道法の規定を大きく超えた50~60‰にも及んでいたという。
 
子供の頃から無性に心惹かれていた路線で、かつて日本各地で走っていた路面電車を網羅した写真集をめくりながら、1度でいいから乗ってみたかったなあ、と残念に思ったものだった。
 
 
東照宮に参拝してから東武日光駅に戻った僕は日光線の上り普通電車で急勾配を下り、下今市で鬼怒川温泉行きに乗り換えた。
鬼怒川が山々を削った渓谷沿いに広がる温泉街は、17世紀に西岸で源泉が採掘された滝温泉に端を発し、明治初頭には東岸にも藤原温泉が発見され、上流に水力発電所が建設されて水位が下がると、川底から新たな源泉が次々と見つかったことから、全てを合わせて鬼怒川温泉と呼ぶようになったのだという。
 
「東京の奥座敷」として熱海や箱根と並び称されることもあった伝統ある温泉街でありながら、鬼怒川温泉駅前の商店街を抜けて北に歩を進めると、どこか異様さが漂う光景になってくる。
温泉街を貫く国道121号線の旧道には、古くからの温泉街に付き物の射的屋、ゲームセンター、カラオケボックスといった遊戯施設や飲食店、土産物店がほとんど見当たらず、たまに見かけても、軒並み入口を閉ざしている。
宿泊客が押し寄せるにはまだ早い時間なのかもしれないが、それらの店舗は埃をかぶり、固く閉ざされたシャッターは赤錆びて、夕方になれば開店するような気配は微塵も感じられない。
散策する浴衣姿の宿泊客も見かけず、通りは物音1つなく静まり返って、居並ぶホテルの玄関やロビーに人影はなく、年間200万人以上の客で賑わう歓楽街とはとても思えない。
 
 
バブル崩壊による観光客の落ち込みや海外旅行へのシフトによって、全国的に温泉街が経営不振に陥ると、鬼怒川温泉も、熱海や別府と並んで凋落した温泉の代表格に挙げられてしまう。
後の話であるが、多くの宿泊施設のメインバンクであった地元の銀行が平成15年に経営破綻し、鬼怒川温泉でもホテルが相次いで倒産、幾つかのホテルだけが産業再生機構の支援を受けることになる。
現在でも、再建されて設備投資が可能となった大型ホテルに客が集中し、内部の遊興施設や店舗ばかりが潤って、温泉街に金が落ちないという状況が続き、また倒産した複数のホテルが解体も出来ずに放置されて、廃墟のまま無残な姿を晒していると聞く。
 
僕は駅のある東岸を歩き、くろがね橋で鬼怒川渓谷を見下ろしてから、西岸を南へと戻った。
雄大な渓谷の両岸に、大型ホテルが崖の縁までせり出して建っている景観は鬼怒川温泉独特の構図である。
この旅の数年後にホテルが軒並み倒産し、特に東岸側が荒れ果てた廃墟街道と化すという激動に見舞われることなど、想像も出来なかったけれど、僕が感じた異様さは、その予兆であったものかもしれない。
20年前の家族旅行では、鬼怒川温泉のホテルが満室で予約が取れず、やむなく東京に宿泊して日光を日帰りで往復する羽目になったのだ、と両親から聞かされた覚えがある。
諸行無常、改めて、僕らが生きている時代の厳しさを実感する。
 
杉木立が多い日光市内では気づかなかったが、鬼怒川では、渓谷を彩る紅葉の鮮やかさが目に滲みた。
 
 
鬼怒川温泉駅を14時に出発した新宿行き高速バスの客も疎らであったけれど、途中の東武ワールドスクエア、日光江戸村、お猿の学校、ウエスタン村といった途中停留所からは幾ばくかの客が乗り込んできて、中には子供を連れた家族も混じり、それでも総勢10名ほどであったものの、日光東照宮行きのバスよりは賑やかな道中となった。
ああ、またか、と気づいたのは、バスが走り始めてしばらく経ってからのことだった。
草津、石和、下呂、有馬、南紀勝浦、道後、別府など、高速バスで訪れた温泉は幾つもあるけれど、大抵は湯に浸かることなく立ち去っている。
温泉に入る時間よりも、乗り物の時刻を優先して日程を組んでしまうためで、自業自得なのだけれど、鬼怒川では街並みに気を取られるばかりで、温泉に入ろうという気分にならなかったな、と思う。
 
 
今市ICからの日光宇都宮道路と、東北道を南下する高速走行は順調で、都内では少々の渋滞に引っ掛かりながらも、新宿駅西口に到着したのは、定刻17時15分より10分ほど遅れただけであった。
それでも、車中での子供の退屈ぶりは容易ではなく、時々後席から愚図る声が聞こえて気になっていたのだが、バスを降りていく家族連れは疲れ切った表情で、
 
「やっぱり今度は電車にしようかしら」
「うーん、家と浅草の行き来が大変なんだよなあ」
 
とやり取りしていた。
 
新宿-日光・鬼怒川温泉間高速バスは、日光系統が平成9年3月に、鬼怒川系統が平成10年3月に、それぞれ廃止されてしまった。
 
 
平成18年に、驚くべき列車が走り始めた。
特急「日光」と特急「きぬがわ」で、前者は往年の国鉄列車の愛称の復活であるが、運転区間はJR新宿駅と東武日光駅の間で、池袋・浦和・大宮・栃木・新鹿沼・下今市に停車する。
特筆すべきなのは、上記の停車駅のうち、新宿から大宮まではJR東日本の線区で、JR東北本線と東武伊勢崎線が接続する栗橋駅に設けられた連絡線を渡り、栃木から東武日光の間は東武鉄道の線路を利用するのだ。
 
全国どこでも見られるJRと私鉄の乗り入れ運転じゃないか、と思われるかも知れないが、JRの前身である国鉄と東武鉄道は、かつて東京と日光の間の輸送においてしのぎを削ったライバル同士であったから、当時は何かと話題になったものだった。
 
 
明治23年に国鉄日光線が開通した時には、上野と日光の間に、東北本線から乗り入れる1等車連結の定期列車が1日5~6往復運行されていたという。
日光という土地が、我が国の鉄道の黎明期にも無視できない観光地であったことは、明治 年に作詞・作曲された「鉄道唱歌」が、東北本線を歌う部分の途中で、日光線に寄り道している歌詞からも容易に想像できる。
 
いざ乗り替えん日光の 線路これより分かれたり 25マイル走りなば 1時半にて着くという
日光見ずは結構と いうなといいし諺も おもいしらるる宮の様 花か紅葉か金襴か
東照宮の壮麗も 三大廟の高大も みるまに1日 日ぐらしの 陽明門は是かとよ
滝は華厳の音たかく 百雷谷に吼え叫ぶ 裏見霧降とりどりに 雲よりおつる物すごさ
 
昭和4年に東武鉄道日光線が開業してから、両者は競合関係となり、熾烈な誘客合戦を展開していく。
国鉄は、昭和31年に上野と日光の間でキハ44800形気動車による準急「日光」の運転を開始して、所要時間を約2時間に短縮した。
昭和34年には日光線全線を電化した上で、準急「日光」に特急並みの設備を持つ「日光型」157系電車を投入して、東京-日光間の所要時間は2時間を切り、新宿と日光を結ぶ準急「中禅寺」も運行された。
 
 
しかし、国鉄の上野-日光間146.6kmという距離数は、東武線の浅草-東武日光間よりも長い。
直通運転の場合に宇都宮駅で列車の進行方向が変わる線形も災いして、昭和35年に東武鉄道が1720系車両を投入した「けごん」の運行を開始すると、同時期に相次いだ国鉄の運賃値上げによる客離れと相まって、昭和43年に「中禅寺」が、そして昭和57年に「日光」が廃止されてしまう。
以後、国鉄・JRともに、日光への本格的な観光輸送に手を出そうとはしなかったのである。
 
 
JR東日本が、自前の日光線ではなく、東武線を経由する特急列車を運行することになった理由は、自社の歴史で果たせなかった日光・鬼怒川温泉への観光客の本格的な取り込みに触手を伸ばしたものとされている。
新宿駅と東武日光駅の間は134.9km、東武鉄道の浅草-東武日光間とほぼ同じ距離で、「日光」の所要は2時間を切っている。
一方の東武鉄道は、新宿や池袋、大宮における首都圏広域からの集客に期待したものと思われ、これは平成7年開業の高速バスと異榻同夢である。
 
 
その頃、平成20年前後の東武鉄道の特急列車は、大きく様変わりしていた。
平成2年に新型特急車両100系「スペーシア」がデビューしていたものの、そのダイヤは、下りでは、東武日光行きの「けごん」が、浅草を7時30分、9時30分、20時、21時に発車する4本だけに数を大きく減らし、8時から19時まで14本運転されている鬼怒川方面の「きぬ」が主役となっている
上りでも、鬼怒川温泉を8時44発から19時25分発まで16本が運転される「きぬ」に対して、「けごん」は東武日光を9時54分発、11時54分発の2本だけという体たらくであった。
日光を訪れる観光客が減少していることは耳にしていたものの、この頃の時刻表を開くたびに、僕は、どうしてしまったのだ日光よ、と心を痛めたものだった。
 
 
平成18年の秋の週末、僕は東京駅を14時に発った高速バス「足利わたらせ」号を乗り終えて、JR両毛線の足利駅に降り立った。
 
この路線は平成17年10月に開業したばかりで、宝町ランプから首都高速都心環状線に入り、江戸橋JCTと箱崎JCTでの渋滞を切り抜けて、首都高速6号向島線堀切JCTで中央環状線、江北JCTで川口線と渡り歩いてから東北道に入る。
隅田川を遡る向島線の高架からは、対岸に浅草の街並みがちらりと見える箇所があり、いつも、子供の頃の日光旅行を思い出しては懐かしい気分になる。
佐野藤岡ICで東北道を降り、佐野プレミアムアウトレットに寄ってから、国道50号線を西進して足利の街に至る、所要2時間の道中であった。
 
 
東北道から国道50号線に入っていく道のりには、悔しい思い出がある。
免許を取得してバイクに乗り始めたばかりの平成7年の真夏のこと、東北道から国道50号線で足利の先の桐生まで行き、国道122号線で渡良瀬川の渓流を眺めながら、足尾を経て日光へ抜けるツーリングを試みたことがあった。
 
国道50号線は敷地にも余裕があって決して悪い道ではなかったけれども、どうして車線を増やさないのかと焦れったくなるほど、ぎっしりと列を成した車が、ベルトコンベアで運ばれているかのようにノロノロと進んでいる。
工場や住宅地が点在する北関東の田園風景も面白みに欠け、激しい渋滞と照りつける強い陽射しに辟易して、ついに途中で引き返してしまったのである。
 
 
「足利わたらせ」号に乗って10年ぶりに国道50号線を走れば、渋滞は相変わらずで、あの時引き返したのは足利市内の手前の渡良瀬川あたりだったのか、などと、挫折したツーリングの記憶がほろ苦い車窓風景であった。
この渋滞が「足利わたらせ」号の足枷になり、平成19年に佐野と足利の間の運転を取り止めて、東京と佐野を結ぶ「マロニエ東京」号に変じてしまう。
 
 
バスを降りた足利駅で、これからどのような方法で東京に帰ろうか、と思案しているうちに、両毛線の5駅先にある栃木駅を17時19分に発車する、新宿行き特急「日光」をつかまえるプランが思い浮かんだ。
 
足利駅で「日光」の座席指定券も手に入れることができ、栃木駅の東武線高架ホームで電車を待つ間は、胸が高鳴った。
初めての特急列車に乗る体験は、久しぶりだった。
定刻に姿を現したのは、東武日光を16時37分に出て来た「日光」2号で、東武の新鋭特急車両100系「スペーシア」と同じ塗装に塗り替えたJRの特急用車両485系は、ひと目で日光直通列車であることが分かるけれど、内装はJRの標準的な座席のままであった。
 
東武伊勢崎線で渡良瀬川の西岸に沿って南下し、利根川と合流する栗橋駅の構内で減速した「日光」は、そろそろと東武とJRの連絡線を渡っていく。
車内の照明や空調音が、ふっと消える。
真っ暗になった客室では非常灯だけが仄かに瞬き、もうこんなに暗くなる時刻だったのか、と思う。
両社の連絡線では、双方の電流を区別するため、架線に電流が流れていない80mのデッドセクション(死電区間)が設置されていて、列車は惰行で通過していく。
JRの直流と交流電化区間の接続箇所でよく見かける構造であるが、たとえば小田急線とJR御殿場線を直通する特急「あさぎり」では、このようなことをしていたっけ、と思う。
栗橋駅で乗務員の交替が行われるらしいのだが、煌々と照明に照らされたホームに列車が滑り込んでもドアは開かず、乗降は出来ない。
なかなか車内の照明が復旧せず、人気が少ないホームを眺めながら、この列車は先に進んでくれるのだろうか、と不安が募る。
 
 
デッドセクション内の架線は東武鉄道の電線に接続されており、万が一、列車が途中で停止した場合には、東武側から電流を流して動かすことが出来る仕組みになっているという。
この年の3月にJR485系が故障した際に、東武鉄道100系による「スペーシア日光」が運転されたことがあり、故障するようなロートル車両をJRが投入していたことや、その代車を東武が用意したことなども含めて、この新宿-日光直通特急の運転には、東武の方が乗り気だったのではないかと勘ぐってしまう。
 
その後、「日光」のJR担当列車には、新幹線開業前の信越本線の特急「あさま」などで使用されていた189系が加わり、現在では、かつて「成田エクスプレス」用に建造された253系車両が臙脂色に塗り替えられて充当されている。
JRは徹底してお古の車両を使っている訳で、かつて、「日光型」157系など日光線専用の豪華車両を製造していた国鉄時代とは温度差が感じられる。
 
 
それでも、「日光」「きぬがわ」のJR・東武直通特急列車は、2年あまりで100万人を輸送し、首都圏を代表する列車に成長した。
日光東照宮・日光二荒山神社・日光山輪王寺に含まれる103棟の建造物群と文化的景観が、「日光の社寺」と銘打って、平成11年12月に世界遺産に登録されたことも、追い風となったのであろう。
 
東北本線の田端信号所から山手貨物線に進入する、特急「日光」の都心部の経路は、同じ経路を通る湘南新宿ラインを使ったことがない僕にとっては、なかなか新鮮だった。
定刻18時36分に、浅草駅とは比べものにならないほど賑わっている新宿駅に到着した時には、新しい時代の到来が感じられた。
 
 
新時代を迎えたのはバスも同じで、平成29年7月に、東武鉄道系列の東北急行バスが東京駅と日光・鬼怒川温泉を結ぶ高速バスを、また平成30年2月には、京浜急行バスと東武バスが横浜駅東口から羽田空港を経由して下今市駅・東武日光駅・鬼怒川温泉駅を結ぶ高速バスを開業した。
20年ぶりに、高速バスが日光へ乗り入れたのである。
いつか、この2つの高速バスに乗って、日光や鬼怒川温泉を再訪してみたいものだと思う。
 
 
平成20年の秋であったか、妻を連れて、紅葉真っ盛りのいろは坂をマイカーで登ってみたことがある。
その前の年には、同じくマイカーで、国道122号線を桐生から日光へ、バイク時代に乗り残した行程を走り抜けた。
いろは坂でも、三十数年前に成し得なかった旅行を完成させたいという腹づもりがあったことは否めない。
 
子供の頃に親に連れて行かれた場所へ、自分の運転で訪れるという行為には、格別の感慨が湧いてくる。
聞きしに勝る大渋滞で、麓の馬返しから中禅寺湖半までの16kmに片道3時間を要する有様だったから、あの家族旅行で、霧降高原ではなく中禅寺湖へ向かっていたならば、帰りの列車に間に合わなかっただろうな、と納得した。
それでも、ノロノロ運転のおかげで、道路の両側から覆い被さる鮮やかな紅葉をじっくりと鑑賞することが出来た。
両親に、この紅葉を見せてあげたかったと思う。
妻は大喜びで、身を乗り出しながら、写真を何枚も撮りまくっている。
これほど苦痛のない渋滞は、初めての経験であった。
 
 
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