関西と九州を結ぶ夜行高速バスの栄枯盛衰~前史~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

今では信じ難いことかもしれないけれど、関西と九州の間の移動手段の主役が、夜行列車だった時代があった。
その最大の隆盛期は、昭和50年に山陽新幹線が博多まで延びるまでの時期ではないだろうか。


太平洋戦争中の昭和17年に関門トンネルが開通し、戦後を迎えると、九州の隅々まで関西からの直通列車が網羅するようになり、戦後の高度経済成長期には寝台特急列車となってこの区間の主力輸送機関に発展、昭和39年の東海道新幹線の開業後は新幹線から乗り換える首都圏方面からの利用客も運ぶようになる。
当時の時刻表を見れば、大阪駅をきら星の如く九州行きの寝台特急が次々と発車していく様が目に浮かぶようである。

紀行作家の宮脇俊三氏が処女作「時刻表2万キロ」の一節に、

『会社を30分ばかり早く脱け出して東京発16時48分の「ひかり」に乗り、三原で新大阪始発の「彗星1号」宮崎行に乗継いだ。
新大阪で乗継ぐには東京発15時00分に乗らねばならぬから、三原乗継ぎによって2時間弱の時間を節約できたわけである』

と記していて、新幹線と寝台特急列車にこのような使い方があったのか、と蒙を啓かれたものだった。
新幹線と関西発九州方面行き寝台特急の乗り継ぎは、時刻表の巻頭にある連絡早見表にも掲載されている方法で、東京駅を18時に発つ寝台特急「富士」に乗れば宮崎着が15時41分、「彗星」1号ならば8時26分には宮崎の地に立てる訳であるから、半日が節約出来たことになる。

残念なことに、東京に住む僕が関西対九州の寝台特急を利用した機会は極めて少なく、南宮崎発京都行き「彗星」の最終運転だけであったが(「南宮崎発京都行き 寝台特急『彗星』のラスト・ラン」)、鉄道ファンにとっては時刻表を開くだけでワクワクする垂涎の時代であった。

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歴史を紐解けば、昭和26年から大阪-博多間に運行されていた臨時夜行急行列車が、昭和27年に「げんかい」の列車名を与えられて定期運行となったことが、関西と九州を結ぶ優等列車の起源であるらしい。
京都-博多間で運転されていた準急列車も、昭和31年に京都-熊本間に延伸されて急行に昇格、「天草」を名乗った。
「げんかい」は昭和28年から東京-博多間に延長され、昭和31年には東京-長崎間に延長されたのだが、昭和32年に列車名を「桜島」に変更して京都-西鹿児島間に運行区間を短縮、昭和33年に名称を再び「玄海」に戻すという、ややこしい推移をたどっている。

昭和34年には京阪神と日豊本線沿線を結ぶ夜行急行列車として「くにさき」が京都-大分間で運転を開始、熊本発着の「天草」と京都-門司間で併結されていた。
それより前にも、東京-都城間に夜行急行「高千穂」が運転されていたが、必ずしも途中停車駅となる京阪神地区では利用しやすくなかったと言われている。
昭和35年に大分行き急行「くにさき」が都城まで延長され、列車名を「日向」に変更、乗客数の増加のために昭和36年から熊本行き「天草」との併結をやめて単独運転となった。
昭和36年には大阪-熊本間に寝台急行「ひのくに」が運行を開始し、昭和36年に大阪-佐世保間で急行「平戸」が運行を開始した。


昭和40年には新大阪-西鹿児島・長崎間を結ぶ寝台特急「あかつき」が登場、関西-九州間における初の20系客車を使用するブルートレインとなった。
「あかつき」には、後に熊本止まりや佐世保への系統も設けられて、昭和49年には1日7往復に増発、関西と九州各地を結ぶ寝台特急列車として君臨する。

昭和38年には夜行急行「しろやま」が大阪-西鹿児島間で運行開始している。
昭和39年には新大阪 - 博多間で寝台急行「海星」が運行開始、昭和42年に「海星」は、世界初となる寝台特急用電車581系を用いた「月光」に昇格する。


昭和40年には、新大阪-宮崎間を運行する寝台急行「夕月」が運転を開始。
昭和42年に、それまで運行されていた団体専用列車を「平戸」に改称し、大阪-早岐・大分間で運行された。
当時は、新婚旅行専用列車として大阪-宮崎間を1等寝台車のみで編成された臨時急行「ことぶき」も運行されており、「九州観光列車」と名付けられた団体専用列車も登場していて、新婚旅行をはじめとする観光地として宮崎県への旅客がとても多い時代だったのである。

昭和43年には大阪-佐世保間で夜行急行「西海」が運転を始め、京都-長崎間の「玄海」を「雲仙」に改称、大阪-熊本間急行「ひのくに」も電車化されて「明星」に改称、また「かもめ」として新大阪-西鹿児島間に昼行で運行されていた気動車特急が「なは」に改称された。
「なは」の列車名は、当時米国の占領下に置かれていた沖縄の本土復帰を願って、琉球新報が「本土に沖縄名の列車を走らせよう」というキャンペーンで公募したものである。
沖縄県の内外から5000通を超える応募があり、そのうち国鉄に提出された「なは」、「おきなわ」、「しゅり」、「でいご」、「ひめゆり」の5候補の中から選出されたと言われている。
鹿児島港で船に乗り継ぐことで、関西方面から沖縄へのアクセスの一端を担うという役割も期待されての命名だった。


同じく昭和43年には、新大阪-宮崎間で寝台特急「彗星」が登場する。
同年に、都城行き急行「日向」と宮崎行き急行「夕月」が、京都・大阪と南延岡・宮崎・都城を結ぶ3往復の急行「日南」に統合された。
昭和45年に、京都-西鹿児島間を結ぶ寝台特急として「きりしま」が運行を開始。


昭和45年に寝台特急「彗星」は都城まで延伸され、昭和47年には大分止まりの列車を増発した2往復体制となる。
昭和47年には山陽新幹線の新大阪-岡山間が開業し、合わせて新大阪-博多間を走っていた寝台特急「月光」の運行区間を岡山-西鹿児島間に変更、大阪-西鹿児島間急行「しろやま」の列車名が「屋久島」に、熊本行き夜行急行「天草」が「阿蘇」に変更された。
昭和48年に寝台特急「彗星」は新大阪-大分間の列車を2往復増発した4往復となり、昭和49年には大分止まり2往復、宮崎止まり2往復、そして都城発着1往復の計5往復へと発展する。

これが「彗星」における最大運行本数であり、翌年の寝台特急「あかつき」の7往復態勢への増発と、京都-西鹿児島間寝台特急「きりしま」、岡山-西鹿児島間寝台特急「月光」と合わせて、関西-九州間ブルートレインが合計14往復となり、熊本行き急行「阿蘇」と南延岡・宮崎・都城行き急行「日南」、長崎行き急行「雲仙」、佐世保行き急行「西海」が運行されていたこの時期が、まさに関西-九州間夜行列車史における最盛期だったと言えるだろう。

昭和50年の山陽新幹線新大阪-博多間の全通に合わせて、急行「明星」は、「あかつき」の熊本・鹿児島系統と「きりしま」、西鹿児島行き急行「屋久島」、そして「月光」を統合して7往復の寝台特急として生まれ変わる一方で、「あかつき」は新大阪-長崎・佐世保間の3往復となった。


関西対九州の寝台特急列車が、鹿児島本線は「明星」、長崎本線・佐世保線は「あかつき」、日豊本線は「彗星」に整理されたのであるが、この頃から夜行列車の衰退が始まる。

昭和50年に「彗星」は大分・宮崎・都城発着各1往復の計3往復に減便され、南延岡・宮崎・都城行き急行「日南」は博多発着の九州内の急行列車に名を譲り、代わりに新大阪-大分間を1往復に減便された急行列車として「くにさき」の名が復活する。

前述した宮脇俊三氏の新幹線と寝台特急を乗り継ぐ九州行は、この時期に当たる昭和52年4月のことで、

『寝台の客はまばらで、45人分の寝台があるのに10人ぐらいしか乗っていない。
国鉄の運賃・料金が一挙に約50%も値上げされていらい、はじめて乗る寝台車であるが、B寝台でもこれほど客が減っているとは思わなかった』

と書いている。


昭和53年には、「明星」の京都-西鹿児島発着の1往復が「なは」に改称、熊本行き急行「阿蘇」と大分行き急行「くにさき」の併結運転が「天草」・「くにさき」の併結以来17年ぶりに再開された。
併結と言えば聞こえはいいけれども、要は1本の列車の利用客が減少したために連結車両数が減らされた訳であり、凋落の一途をたどり始める関西-九州間夜行列車において、その後多用されるようになる。
併結運行に減量したにも関わらず、昭和55年に「阿蘇」と「くにさき」、そして長崎行き急行「雲仙」と佐世保行き急行「西海」が廃止され、関西と九州を結ぶ定期の夜行急行列車は消滅した。

同じ年に「彗星」の大分発着の列車が消えて宮崎・都城発着の2往復となり、「あかつき」も運転本数を減らされて、昭和61年には新大阪-長崎・佐世保間の1往復だけとなってしまう。
昭和57年に「明星」も西鹿児島を発着する1往復のみに削減されたが、「なは」が同じ区間で1往復が残っており、一時は客車寝台が「明星」、電車寝台が「なは」と区別されていた時期もあったが、後に「なは」も客車寝台に変更された。
昭和59年には宮崎発着の「彗星」がなくなり、新大阪-都城間の1往復のみとなる。

昭和61年、寝台特急「明星」が臨時列車に格下げされたが、使用車両が旧式であるという理由から、続け様に臨時急行「霧島」へと降格されて、「明星」の愛称名は消滅してしまう。
この時点で、西鹿児島行き「なは」、長崎・佐世保行き「あかつき」、都城行き「彗星」と、関西対九州の寝台特急列車は3往復まで削減されたのである。

西鹿児島行き臨時急行「霧島」は平成7年に「桜島」へと列車名を変更し、平成8年に廃止された。
同じ年に、都城行き寝台特急「彗星」が南宮崎止まりとなる。
平成9年に東京-西鹿児島間で運転されていた寝台特急「はやぶさ」が熊本駅止まりに、東京-南宮崎間で運転されていた寝台特急「富士」が大分止まりに短縮されたため、宮崎県と鹿児島県に乗り入れる唯一の寝台特急となった「なは」と「彗星」の利用客が一時的に増加するという現象が起きたのだが、それでも焼け石に水であったようである。


平成12年に「あかつき」が佐世保系統を廃止した上で、「彗星」との併結運転を開始、京都発着となっていた「あかつき」に合わせて「彗星」の起終点も新大阪から京都に変更される。

平成16年に九州新幹線の新八代 - 鹿児島中央間が開業し、並行在来線となる同区間の鹿児島本線が第3セクターへ移管されたことに伴い、「なは」が西鹿児島から熊本発着に変更、鹿児島県への寝台特急は皆無となった。
平成17年に南宮崎行き「彗星」が廃止されて宮崎・大分への夜行列車も消え、長崎行き「あかつき」は代わりに熊本行き「なは」との併結運転を開始、関西-九州間の夜行列車はついに1往復という寂しい状態となる。

そして、平成20年、遂に「なは」「あかつき」ともに廃止の時を迎え、京阪神と九州を結ぶ夜行列車の歴史に終止符が打たれたのである。
最終の「なは」下り列車に装着されたヘッドマークは、熊本駅での式典で那覇市の関係者に贈呈され、沖縄都市モノレール本社の「ゆいレール展示館」に陳列されているという。


最盛期の運転本数が多かっただけに、昭和50年頃からの関西対九州における夜行列車の歩みは諸行無常、容赦ない時代の移り変わりを感じさせる。

時刻表を開けば、対照的に躍進した交通機関があることが一目瞭然である。
東海道新幹線が開業した昭和39年10月号に掲載された大阪と九州各地を結ぶ航空路線は、大阪-福岡の日本航空の幹線が夜行便「ムーンライト」を合わせて9往復、全日空の大阪-北九州1往復、大阪-大分2往復、大阪-長崎2往復、大阪-宮崎経由鹿児島が2往復、大阪-宮崎1往復、大阪-鹿児島直行便が3往復と、全てを合わせても20往復である。
時刻表の欄には、日本航空の東京-大阪-福岡-沖縄を結ぶ幹線が一括して掲載され、大阪と福岡を結ぶ便は全て羽田を発着して伊丹に寄港する運航であり、羽田と福岡を結ぶ直行便は存在するものの、大阪と福岡の間だけを運航する便は存在しない。
全日空では、東京・大阪-熊本・長崎・宮崎・鹿児島の欄と東京・大阪-北九州・大分の2欄だけにまとまって掲載されているが、羽田と伊丹の両方を経由する便はなく、後の東亜国内航空の前身である日本国内航空と東亜航空に大阪と九州を結ぶ航空路線は見当たらないのである。

21年後の昭和60年3月の時刻表では、大阪-福岡8往復、大阪-大分4往復、大阪-熊本5往復、大阪-長崎4往復、大阪-宮崎7往復、大阪-鹿児島6往復の計34往復にまで運航本数が膨れ上がり、全ての航空路線が別々の欄に分けられてページが増え、起終点以外の空港に寄航する運航方式は姿を消している。


航空運賃は、大阪-福岡間を例に挙げれば、昭和39年が6000円、昭和60年には1万5400円と大きく値上がりしながらも、航空機は大衆化していったのである。
一方で、国鉄の大阪-博多間を見てみると、昭和39年には運賃1270円、2等特急料金800円、寝台利用の特定特急料金が2等300円、2等寝台料金が下段800円・中段700円・上段600円で、在来線の昼行特急列車の2等車における支払額の合計は2070円である。
当時の寝台特急列車は東京発着の日豊本線経由西鹿児島行き「富士」と鹿児島本線経由西鹿児島行き「はやぶさ」、熊本・長崎行き「みずほ」、長崎・佐世保行き「さくら」、博多行き「あさかぜ」だけで、関西発着ではないけれど、寝台特急の2等寝台下段の利用で計2370円であった。

東海道新幹線開業の年に赤字に転落した国鉄は小刻みに値上げを繰り返し、昭和60年になると、大阪-博多間の運賃7900円、普通車指定席利用の新幹線特急料金5400円、寝台特急料金3000円、2段式B寝台料金6000円と跳ね上がり、新幹線普通指定席利用で1万3300円、寝台特急のB寝台利用で1万6900円と、新幹線は航空機と2000円程度しか変わらず、寝台特急は航空機より割高になっている。
航空機の大衆化は、鉄道の運賃が値上げされて航空機と大差が無くなったことでもたらされたと言うことなのだろう。

昭和32年に発表された、我が国における社会派推理小説のはしりである松本清張の「点と線」では、東京と北海道を行き来する容疑者のアリバイを崩したい担当の刑事たちが、鉄道ばかりに目が向いて、航空機利用になかなか思い至らないというもどかしさを感じる展開だったが、高度経済成長期を挟んだ20年間で、日本の交通体系も旅客の意識も大きく変化したのである。


関西と九州各地を結ぶ夜行高速バスの嚆矢は、昭和58年3月に登場した梅田-福岡間「ムーンライト」号である。
夜行高速バスと言えば、東京-名古屋・京都・大阪・神戸間に国鉄「ドリーム」号しかなかった時代で、後に我が国で初めて採用された横3列独立シートや、起終点のバス事業者が収入をプール精算する運行方式など、現在の高速バスの基礎を築いた路線と言っても過言ではなく、以後、全国に続々と高速バスが開業することになる。

関西と九州の間も例外ではなかった。

昭和63年7月:上本町(後にあべの橋)-熊本「サンライズ」
昭和63年12月:あべの橋-長崎「オランダ」
平成元年3月:梅田-長崎「ロマン長崎」
平成元年7月:難波-佐世保「コーラルエクスプレス」
平成元年8月:梅田-佐賀・唐津「サガンウェイ」
平成元年9月:大阪-久留米・荒尾「ちくご」
平成元年10月:京都-長崎「ながさき」(下り)・「きょうと」(上り)
平成元年12月:奈良-福岡「やまと」、あべの橋-都城・宮崎「あおしま」
平成2年2月:梅田-黒崎・飯塚「ムーンライト」筑豊系統
平成2年3月:神戸・姫路-北九州・福岡「山笠」、あべの橋-鹿児島「トロピカル」、堺・難波-鹿児島「サザンクロス」、梅田-鹿児島「さつま」
平成2年6月:尼崎・神戸-熊本「トワイライト神戸」、神戸・姫路-熊本「ユウヅル」・「レッツ」
平成2年7月:梅田-別府・大分「ゆのくに」、あべの橋-別府・大分「エメラルド」
平成2年9月:尼崎・神戸-鹿児島「トロピカルライナー」
平成2年10月:京都-福岡「きょうと」、京都・枚方-熊本「きょうと」、神戸・姫路-長崎「エトランゼ」・「プリンセスロード」
平成2年11月:堺・難波-福岡・前原「サザンクロス博多」
平成2年12月:あべの橋-高千穂・延岡「ひえつき」
平成3年10月:京都-鹿児島「南洲」
平成15年4月:大阪-博多「山陽道昼特急博多」
平成20年12月:京都・大阪・神戸-都城・宮崎「おひさま」
平成23年12月:京都・大阪・神戸-別府・大分「SORIN」
平成29年2月:京都・大阪・神戸-延岡・日向・宮崎「ひなたライナー」

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九州各地がきめ細かに関西発着の高速バス網で網羅されていく平成元年から同3年にかけては、関西対九州の夜行列車が衰退していく時期と重なっているため、かつての寝台特急・急行列車の華やかなりし頃が蘇ってきたように感じられたものだった。

夜行高速バスが夜行列車廃止の元凶のように言われ、JRが、平成2年に寝台特急「なは」と「あかつき」に高速バスと同じ3列独立席の「レガートシート」を設けた車両を連結したこともある。
しかし、高速バスは、例えば大阪-福岡間が1万円といった廉価な運賃で利用客の支持を得たのであって、仮に高速バスが登場しなくても、割高で所要時間が長い夜行列車に利用者は戻って来なかったのではないかと思う。
世の中は、仕事のために私事を犠牲にしたり、少しくらいの不便を我慢するような時代ではなくなり、旅行者は夜行よりも日中における短時間の移動と、自宅やホテルで夜を過ごすことを好む風潮になっている。


歴史は繰り返す、と言うべきなのか。
関西と九州を結ぶ夜行高速バスにも、今、大きな試練が訪れている。

平成4年:堺・難波-福岡・前原「サザンクロス博多」は、開業後わずか2年で廃止
平成4年:京都-鹿児島「南洲」も、開業後わずか1年2ヶ月で廃止
平成5年:梅田-黒崎・飯塚「ムーンライト」筑豊系統は、梅田-荒尾間の「ちくご」が筑豊地区を経由する形になって廃止
平成5年:梅田-佐賀・唐津「サガンウェイ」が廃止
平成5年:あべの橋-高千穂・延岡「ひえつき」が廃止
平成6年:堺・難波-鹿児島「サザンクロス」が、競合相手だったあべの橋-鹿児島「トロピカル」に統合
平成9年:あべの橋-別府・大分「エメラルド」は、平成8年に佐伯まで延長されるものの翌年に廃止
平成9年:神戸・姫路-熊本「ユウヅル」・「レッツ」が廃止
平成11年:梅田-別府・大分「ゆのくに」が廃止
平成11年:梅田-荒尾「ちくご」が廃止
平成11年:神戸・姫路-福岡「山笠」が廃止
平成11年:奈良-福岡「やまと」が廃止
平成11年:あべの橋-都城・宮崎「あおしま」は、平成8年に季節運行になった上で3年後に廃止
平成13年:京都-長崎「きょうと」「ながさき」が廃止され、翌年にあべの橋発着の「オランダ」が京都発着に延伸。
平成14年:京都-熊本「きょうと」が、あべの橋発着の「サンライズ」が京都発着になると同時に廃止
平成22年:尼崎・神戸-熊本「トワイライト神戸」は、平成4年に熊本側の発着地を八代に延伸した上で、平成6年に尼崎・神戸-鹿児島「トロピカルライナー」と統合され、尼崎・神戸-熊本・八代・鹿児島間を結ぶ路線となるも、平成22年に廃止。
平成22年:京都-北九州・福岡「きょうと」は、梅田発「ムーンライト」が京都発着に延伸し、統合される形で廃止
平成23年:大阪-福岡「山陽道昼特急博多」は、平成20年に難波・神戸三宮経由となったものの3年後に廃止
平成23年:神戸三宮・姫路-長崎「エトランゼ」・「プリンセスロード」が廃止。京都・大阪発着の「オランダ」号が平成31年に神戸三宮へ乗り入れ予定。
平成24年:梅田-鹿児島「さつま」が廃止
平成25年:梅田-長崎「ロマン長崎」は平成23年に神戸三宮経由へと梃入れされるものの、2年後に廃止
平成25年:堺・難波-佐世保「コーラルエクスプレス」は平成5年にハウステンボスまで延伸され、平成18年に神戸三宮経由となるものの、平成25年に廃止
平成28年:「あおしま」廃止以来9年ぶりに復活した京都・大阪・神戸三宮-都城・宮崎間「おひさま」が廃止
平成28年:あべの橋-鹿児島「トロピカル」は、平成23年に神戸三宮経由になったものの、5年後に廃止
平成29年:梅田-北九州・福岡「ムーンライト」は、一時、北九州地区を通過する特急便が設けられ、筑豊便と合わせて3往復と隆盛を極めたものの、平成11年に特急便が廃止され、平成22年に京都発着に延伸、平成25年に神戸三宮を経由するようになったが、平成29年に廃止
平成31年:「おひさま」の経路を変更して平成29年に登場した京都・大阪・神戸三宮-延岡・日向・宮崎「ひなたライナー」は、平成31年に廃止予定


このように路線廃止が相次いだたために、現在走り続けている関西対九州の高速バスは、京都・大阪・神戸-長崎「オランダ」号、京都・大阪・神戸-熊本「サンライズ」号、京都・大阪・神戸-大分「SORIN」号の3本だけという寥々たる有様となってしまった。
末期には京都-熊本「なは」、京都-長崎「あかつき」、京都-南宮崎「彗星」の3本の寝台特急列車だけになってしまった鉄道史を思い起こさせる寂れ方である。

しかも、寝台特急列車は博多駅を経由していたけれど、夜行高速バスは、関西と九州の間で最大の流動があると思われる関西-福岡間からも撤退してしまった。
平成29年の京都・大阪・神戸-福岡「ムーンライト」号の廃止には驚愕した。
政令指定都市間を結ぶ、我が国の夜行高速バスのパイオニアとも言うべき伝統路線ですら生き残れないとは、いったい世の中に何が起きているのか、と目を見張らされた。

平成20年前後までの廃止路線については、後背人口が少なく流動が望めない区間であったり、複数路線が競合して共倒れになったりと、需要の見込み違いだけだろうと高をくくっていた。
ただし、京都・奈良・神戸といった大阪周辺の都市を起終点にする路線が成り立たなくなって、大阪発着路線に1本化される傾向は、夜行列車の末期に複数の列車が併結されるようになった推移を彷彿とさせて、夜行高速バスの利用者数が減少していることを示唆しているのではないかと危機感を抱いていたのも事実である。



大分・宮崎といった九州東海岸に向かう高速バス路線が早々と姿を消したのは、長距離フェリーが一因とも言われている。
大阪-別府、大阪-志布志、神戸-大分には「フェリーさんふらわあ」が、神戸-宮崎には「宮崎カーフェリー」が就航、平成26年までは大阪-宮崎にフェリー航路が存在し、僕も利用したことがあるけれども、高速バスとは比べものにならない広々とした船内空間を生かした居住性、そして2等船室利用ならば高速バスと大差ない運賃や所要時間に、これは勝てないな、と諦めたものだった。

それでも、ダブル、もしくはトリプルトラックであろうが、大阪以外の衛星都市の発着であろうが、開業後20年近く頑張り続けた路線が消えていく平成20年代の趨勢には、過当競争や需要見通しの甘さとは異なる原因があるのではないかと思い始めた。


最近顕在化した運転手の人手不足や燃料費の高騰、人口の減少による旅客数の減少なども一因であろうが、無視できない外的な要因として、格安航空会社の出現を挙げざるを得ない。

我が国の国内線におけるの格安航空会社の元祖は、平成10年にスカイマークが羽田-福岡線を就航させたことに始まると言われ、同年にAIR DOが羽田-札幌線を、平成14年にスカイネットアジア航空が羽田-宮崎線を、平成16年にスターフライヤーが羽田-北九州線をそれぞれ初就航させている。
今では、これらの航空会社はMiddle Cost Carrier(MCC)と呼ばれており、本格的なLow Cost Carrier(LCC)の攻勢は平成24年に始まる。
この年、日本航空系列のジェットスター・ジャパン、全日空系列のPeach Aviation、全日空とマレーシアのエアアジアにより設立されたエアアジア・ジャパン(後のバニラ・エア)が設立され、また平成26年には中国の春秋航空日本が、それぞれ本格的な格安運賃で国内線に参入したのである。

関西-九州間に限ってみれば、現在、ジェットスター・ジャパンが伊丹もしくは関西空港から福岡と熊本に、Peach Aviationが福岡、長崎、宮崎、鹿児島に、スカイマークが伊丹や神戸空港から長崎、鹿児島に就航し、現在は休止しているものの、スカイマークは伊丹・関西・神戸から北九州、福岡、熊本にも路線を延ばしていた時期もあった。
例えば、伊丹-福岡線には10往復が運航されて全てがJALとANAであるが、関西-福岡線では5往復のうちLCCが4往復を占めている。

これらのLCCは、関西-福岡間の運賃が最安値で5000円を切るなど、高速バスと比しても半額に近い運賃で座席を提供している。
この値段ならば、到着地でのホテル代を加算しても、下手をすれば高速バス運賃より安くなりかねない。
本来は自宅やホテルで夜を過ごしたいけれども、航空機や鉄道より低運賃だから、やむなく夜行高速バスを利用していた客層を、LCCは見事にかっさらっていったのだと思う。
平成の初頭に運行距離500kmを超える高速バスが登場した時には、「航空機が担っている距離にまで高速バスが進出して来た」と驚きの声が上がったものだったが、この30年間の価格変動により、現在では「高速バスが担っている価格帯にまで航空機が進出して来た」という、予想外の驚くべき情勢になったのである。

僕は、膨大な地上設備を要し、購入と維持コストが高価な機材を使う航空路線が高速バスより廉価になるからくりがどうしても理解できない。
古い観念なのかもしれないけれど、人件費や整備代をぎりぎりまで削減した航空機が果たして安全なのか、と思ってしまう。
かつて、高速バスにおける規制緩和で数多くの格安ツアーバスが登場したものの、少なからざる犠牲者を伴う重大事故が発生し、結局、それまではツアーバスを容認していた国土交通省が規制に乗り出す、といった経過があったことが忘れられないのだ。

このような時代の流れの中で、長距離夜行高速バスは生き残ることが出来るのだろうか。

人手不足のために儲けの良い路線を優先する、という傾向は、短距離の高速バス路線は維持、もしくは増発しながらも、コストが嵩む夜行高速バスからは手を引く、という事業者が増えていることで顕在化している。
関西対九州間で存続している3路線は、全て大阪の近鉄バスだけが担当しており、かつて参入していた地方側の事業者は運行から撤退して、乗車券の発行や車庫の提供などといった運行支援に携わっているだけである。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

それでも、関西と九州を結ぶ高速バスを存続させて気を吐いている事業者が、この3路線の他に存在する。
現在、WILLER EXPRESSが京都・大阪・神戸と北九州・福岡を結ぶ路線を、オリオンバスが同じく京都・大阪・神戸-小倉・福岡線を、ユタカ交通が京都・大阪・三宮-小倉・博多・武雄温泉・佐世保・ハウステンボス、京都・梅田・三宮 - 博多-諫早・長崎、USJ・梅田-小倉・博多・武雄温泉、京都・難波・三宮-博多・佐賀、千里中央・難波・USJ・三宮-小倉・唐津・伊万里・佐世保といった夜行路線を展開している。
ロイヤルバスも、大阪・神戸-北九州・福岡と京都・大阪・神戸-北九州・福岡・久留米・熊本の2路線を走らせていたことがあったが、平成29年に定期運行を中止して、以後は多客期だけ福岡まで運行している。

皮肉なことに、いずれも過去にツアー高速バスを運行していた事業者であり、どの路線も経由している大阪-福岡間では4000円程度の最安値で売り出している。
関西対九州路線を展開するためには、格安に乗車券を販売出来るスリムな体質が求められるのかもしれない。
厳しい時代になったものだと思う。 


僕はこれまで、関西と九州を結ぶ高速バス路線を幾つか利用してきた。
このブログにも以下の路線を取り上げている。

・難波・大阪・神戸三宮-福岡「山陽道昼特急博多」号(「日本縦断高速バス紀行3000km」
・京都・あべの橋・神戸三宮-都城・宮崎「おひさま」号(「寝台特急富士を偲びながら東海道昼特急号とおひさま号で宮崎へ!」

その後も、関西対九州の夜行高速バスを利用した印象深い旅を3回ほど経験した。
奇しくも、それらは現在も運行が継続されている区間である。
末永い健闘を祈りながら、紹介させていただきたい。

†ごんたのつれづれ旅日記†

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