紀伊半島飛び石バス紀行 前編~ミルキーウェイ号で行く高野山と南海1000系・21000系の物語~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

紀伊半島は、僕にとって長いこと憧れの土地だった。
 
地図を開けば、真っ先に、重畳たる紀伊山地が海岸近くまで迫り出して、平野が殆どない地形が目につく。
このような険しさは、その地域で生活を営む人々にとっては苦しみの根源でしかないように思われるのだが、日常から離れて異質なものに触れたいと願う旅行者にとっては、海と山が織りなす詩情豊かな景観が想像されて、無性に旅情を掻き立てられる。
 
その奥深い懐に点在する高野、吉野、伊勢、熊野、伊賀、十津川といった神秘的な匂いに満ちた土地の数々。
密教と修験道、隠密の里、そして南北朝の時代から幕末に至るまで、数多くの反逆者や逃亡者が紀伊山中に身を隠していることを考えると、我が国の中心であった畿内に接しながら、歴史の主流とは一線を画し、文明の流入を拒み続けている不思議な土地という印象が付きまとう。

 

 

 

鉄道が不便な紀伊半島には、峻険な山塊を越えて半島中央部を縦横に結び、また、入り組んだ海岸の町をたどるバス路線が頑張っていた。
これまで幾度か、そのようなバスで旅したことがある。
 
大和八木-新宮特急バス・池袋-勝浦温泉夜行高速バス:『最長距離バスの系譜 (番外編) 奈良交通「八木新宮特急バス」』
津-紀伊勝浦「南紀特急バス」・名古屋-熊野市「名古屋南紀直通バス」:『紀伊半島飛び石バス紀行(1)~南紀特急バスと名古屋-南紀高速バスが織りなす海と山の交響詩~』
 
地域住民の貴重な足として懸命に走り続けるバスの姿は、厳しい自然と歴史に彩られた豊かな車窓とともに、忘れ難い記憶を僕の心に刻みつけた。
 

 

僕を初めて紀伊半島の入口まで誘ってくれたのは、渋谷発和歌山行きの夜行高速バス「ミルキーウェイ」号だった。
 
路線バス事業者が次々と高速バスを展開するブームに加わって、昭和63年10月に東急バスが満を持して開業した同社初の長距離夜行路線である。
天の川を意味する夜行高速バスにぴったりのネーミングは、同社の高速バス参入への意欲を充分に感じさせた。
パンフレットにも、『これから続々、「ミルキーウェイ」は全国各地を直通で結びます』と、高速バスファンにはこたえられない宣言が書かれていた。
 
 
実際は和歌山、酒田、姫路、出雲の4路線を開業した半年余り後に、東急バスは夜行高速路線から一切手を引いてしまったのだが、当時はそのような推移を知る由もなく、開業2ヶ月後の12月中旬に、渋谷駅バスターミナルに足を運び、心を躍らせて発車時刻を待った。
 
東急バスが開設した夜行高速4路線の大きな特徴として、共同運行事業者の便とは別々の愛称をつけたことが挙げられるだろう。
「ミルキーウェイ」は、あくまで東急バスの便の名前として、どの路線にも共通に用いられる一方で、和歌山線で組んだ南海バスは「サザンクロス」、姫路線で組んだ神姫バスは「プリンセスロード」、酒田線で組んだ庄内交通は「日本海ハイウェイ夕陽」、出雲線に算入した一畑電鉄と中国JRバスは「スサノオ」といった具合である。
 
例えば東海道・山陽新幹線「のぞみ」に、JR東海とJR西日本が別々の列車名をつけるようなものだから、個人的には若干の抵抗を感じてしまうのだが、このような命名方法は、その後、幾つかの高速バス路線で採用されることになる。
「ミルキーウェイ」号和歌山線は、その最初の例であった。
 
 
この日は「ミルキーウェイ」号が来るのか、はたまた「サザンクロス」号の順番なのか、と思いながら、待ち時間を過ごすのは、なかなか楽しい。
 
僕が寒空の下で震えている場所は、昭和44年に廃止された東急玉川線渋谷駅の跡地を利用したバスターミナルで、待合室を備えた低いホーム、突き当りにあるターンテーブルや、道玄坂上に出入りするなだらかなスロープなどは、まさに軌道跡である。
東急が高速バスを展開する前から、この乗り場は、大井町駅を行き来する「渋44系統」や、幡ヶ谷折返し所を往復する「渋55系統」が発着していて、当時、大井町に住んでいた僕には馴染みだった。


すっかり身体が冷え切ってしまった僕の前に姿を現したのは、「ミルキーウェイ」号だった。
ブルーの濃淡を基調とした落ち着いた塗色は、それまでの高速バスの中で最も美しい部類に入るのではないか、と目を見張った。
同様の感想を抱いた人は少なくなかったようで、後に「ミルキーウェイ」号のカラーリングを復活させたリムジンバスも登場している。
 
 
その後に残り3つの夜行高速路線に乗車した時は、どれも共同運行事業者の車両だったから、和歌山線で「ミルキーウェイ」号に巡り会えて良かったのである。
この夜が、「ミルキーウェイ」号を体験する最初で最後となったのだから。
 
車内も、外観と同じく青系統の色調でまとめられ、すっぽりと腰や背を包み込むバケットシートの座り心地も上々である。
ただし、フットレストが金属棒を横に渡しただけという簡素な構造で、レッグレストもなかったため、足の重みを全て足底で支える形になり、ごつごつとして落ち着きが悪い。
車内設備を案内するビデオでは、備えつけのスリッパを履いて足を乗せるよう案内していたが、僕は何かを履いたまま眠るという習慣を持ち合わせていなかったので、多少の不便を感じた。
 
 
座席配置は横3列、縦10列の独立席で、僕が指定されたのは8C席である。
9列目と10列目は横4列シートで、当初はこの8席を販売せず、喫煙サロンとして使用する構想だったと耳にしたことがあるが、利用者の増加で横4列席も販売することになったため、定員は30名と、29名が標準となっていた他の路線より多くなっている。
現在では信じがたいことだが、当時は車内での一服が可能な路線が存在し、喫煙者に寛大な時代だった。
 
構想通りであれば、「ミルキーウェイ」号の定員は22名と、当時の夜行高速バスとしては破格の少人数ということになっていたはずであるが、真偽の程は定かではない。
 
サロンとしての名残りは、8列目と9列目の間に吊された仕切りカーテンに表れている。
9D席を占めたおっさんは、そのカーテンを閉めて、発車早々に鼾をかき始めた。
後になって普及する個室カーテンのような気分を味わっていたのかもしれない。
 
 
和歌山行き「ミルキーウェイ」号は、定刻23時ちょうどに、同時発車の姫路行きと隊列を組んで発車した。
どぎついネオンが煌めき、眠ることを知らない人々が集まる渋谷の賑わいを後にして、バスは大橋ランプから首都高速3号線に駆け上がり、しばらく首都高速独特の絶え間ないバウンドと高鳴るエンジン音に身を任せていた僕は、東名高速道路に入る前に深い眠りに落ちた。
 
ふと目を覚まして、そっとカーテンをめくると、窓外は漆黒の闇が覆い尽くし、中央分離帯に植えられている木々のぼやけた輪郭だけが、次々と後方へ流れていく。
時々、バスのウィンカーの黄色い光の点滅がアスファルトに反射して、その都度、中央分離帯が近づいたり遠ざかったりする。
 
膜がかかったようにぼんやりとした頭の中で、その暗さを異様なものと感じたのだが、しばらく眼を凝らしているうちに、その理由がはっきりした。
東名、名神高速のどちらを走っているのか定かではないけれど、いくら真夜中と言っても、我が国の大動脈にしては、対向車線の車が長いこと途切れたままなのである。
 
どうしたのだろう、と訝しんでいるうちに、右前方にオレンジ色の光芒が迫って来るのが見えた。
その輝きは、瞬く間に、虚空に火花を散らしながら高々と燃え上がる紅蓮の炎と化して、窓外を過ぎ去っていった。
どのような事故を起こしたのか、大型トラックが1台、丸ごと炎上していたのだ。
 
 
そこからの対向車線は、生き返ったかのように静から動へと変化し、渋滞する車のヘッドライトで満ち溢れた。
遠くから、けたたましいサイレンの音も近づいて来る。
 
車の炎上事故とは一定の確率で起きるものだと聞いたことがあり、平成20年には、JRバス関東がドイツのネオプラン社から輸入した80人乗りの超大型2階建てバス「メガライナー」が2台、営業運転中に相次いで炎上したこともある。
だが、燃え上がる車を実際に見たのが初めてだった僕は、偶然目にした劇的な光景に凍りついた。
眠ろうと眼を閉じても、瞼の裏に、真紅の火焔がちらついてしまうのである
 
 
「ミルキーウェイ」号は、何事もなかったかのように614.2kmの高速道路を走り抜き、定刻7時40分に終点の南海電鉄和歌山市駅に到着した。
朝が遅い師走だから、まだ薄暗さが街並みに残っている。
 
寝不足の眼で駅前を見回しても、然るべき朝食を摂れるような店は見当たらず、24時間開いているドーナッツ屋でぱさぱさのドーナッツを頬張ることになった。
当時は24時間営業の飲食店が少なく、その後、夜行バスを降りるとドーナッツ屋しか開いていないという有様をたびたび経験することになるのだが、和歌山は、その最初だったような気がする。
 
僕が和歌山市に降りたことは2回しかなく、もう1回は、所用で大阪を訪れた際に、鉄道ファンとしての欲望がむくむくと頭をもたげて、南海電鉄線と国鉄阪和線を使い、大阪と和歌山を意味もなく往復した時である。
南海電鉄の特急列車「四国」で難波から和歌山市駅に向かい、国鉄和歌山駅に移動すると、折しも新宮からの特急「くろしお」が到着したところだった。
 
僕は京阪神ミニ周遊券を購入していたので、ホームにいた駅員に提示しながら、
 
「これで乗れますか」
 
と聞いてみた。
初老の駅員は、何やらよく分からんモノだが、というような表情で、しげしげと周遊券を眺めながら首を傾げ、
 
「特急券がいるよ。いや、違うか、自由席ならいらないな。このまま乗って」
 
と、笑顔で僕に周遊券を返したのである。
 
そのおかげで、僕はがらがらに空いていた「くろしお」の自由席に納まり、かつて故郷の特急「しなの」で使われていた381系振り子式特急電車独特の乗り心地と、阪和線の短い初乗りの旅を大いに楽しんだのだが、実は大間違いであった。
後で時刻表を見直すと、ミニ周遊券の説明欄には「急行の普通車自由席は急行券なしで利用できます。特急をご利用の場合は、別に特急券をお求めください」と書かれている。
 
和歌山と言えば、朝食代わりのドーナッツと、周遊券でのしくじりばかりが思い出されるのだ。
 
 
「ミルキーウェイ」号を降りた僕は、南海高野線と接続する橋本駅に向かうべく、JR和歌山線の電車に乗り込んだ。
長閑な紀ノ川に沿い、和泉山脈を背負った明るく広い谷をのんびりと走る電車の旅には、心が和んだ。
 
和歌山線は紀伊山地の北側の縁をたどりながら奈良盆地の王寺駅まで延びていて、高野山の玄関である橋本駅の先には、後年、僕が吉野を訪れた際に通った近鉄吉野線と交わる吉野口駅がある。
その時には、高野と吉野、2つの神秘的な土地に分け入っていく鉄道を何かと比べたものだったけれど、吉野口は山あいの小駅、紀ノ川の中流に位置する橋本は沿線有数の大きな街で、大阪への通勤者、いわゆる和歌山府民が多く、和歌山県で唯一大阪都市圏に含まれているだけのことはある。
かつては材木の搬出地として、また高野山を行き来する参拝客の宿場町として栄え、橋本という地名の由来は、16世紀に高野山の木食応其がこの地に橋を架けたことによるという。
 
明治33年に発表された「鉄道唱歌」でも、橋本と共に高野山が取り上げられている。
 
瞬くひまに橋本と
叫ぶ駅夫に道とへば
紀の川わたり九度山を
すぎて三里ぞ高野まで
 
弘法大師この山を
ひらきしよりは千余年
蜩ひびく骨堂の
あたりは夏も風さむし
 
木陰をぐらし不動坂
夕露しげき女人堂
みれば心もおのづから
塵の浮世を離れたり
 
当時は南海高野線が開通しておらず、高野山へは橋本駅から約12kmの山道を歩いて登る必要があった。
 
 
1521年に、伽藍300余宇、塔婆19基、僧坊など3900余宇を焼失した大火で全山壊滅状態となった高野山を、豊臣秀吉や石田三成と親睦を深めることで再興に務めたのが、木食応其である。
木食とは、火食・肉食を避けて木の実や草のみを食べる木食戒の修行を受けた僧のことを指す。
調べてみるとなかなか興味の湧く人物で、高野山で出家したのが38歳と遅く、俗体の時にもうけた娘と、高野山に入ってからもしばしば手紙のやり取りをしていたという記録が残されている。
 
高野山の再建ばかりでなく、応其は全国を行脚しつつ寺社の勧進につとめ、造営に携わった寺院は、方広寺、東寺、醍醐寺、清水寺、三十三間堂、平等院、石山寺、東大寺、室生寺、善光寺、厳島神社など97ヶ所にのぼると言われている。
応其は多くの高野衆や各地から集めた何百人もの大工を率いて寺社の大規模造営・整備に当たり、豊臣政権の行政機構の中に組み込まれてはいなかったものの、実質上、寺社造営における豊臣家の作事組織として機能していた技術者でもあったのである。 
 
あだし世を めぐり果てよと 行く月の きょうの入日の 空にまかせん
 
連歌の名手としても知られ、73歳で没した応其の辞世の句である。
 
 
橋本駅で乗り換えた南海高野線の極楽橋駅橋行き列車は、特急「四国」で運用されていた1000系車両と外見がそっくりな21000系であったから、嬉しくなった。
 
前面に「急」と掲げられているから急行なのであろうが、
 
「この電車は極楽橋行きです。終点の極楽橋まで各駅に停まります」
 
とのアナウンスが流れた。
 
数人の客がぽつりぽつりと腰を下ろしている車内は、クロスシートではなく、ロングシートである。
明治32年に、和歌山港と小松島港を結ぶ、我が国における鉄道連絡船の先駆けとも言うべき航路が開設され、南海電鉄が連絡列車の運行を開始する。
大正12年には、難波駅と和歌山市駅の間で喫茶室を連結した電7系による急行列車が運転を始め、「浪速」、「和歌」、「住吉」、「濱寺」、「大濱」、「淡輪」の愛称がつけられている。
後に登場した電9形電車は、難波と和歌山市の間を1時間で走破したという。
昭和29年には難波と和歌山市の間に特急列車が運転を開始、昭和31年に南海和歌山港線の和歌山市-和歌山港間が開業すると、特急の運転区間も和歌山港へと延長、「四国」と命名されて、関西-四国間の最短ルートとして君臨する。
 
僕が和歌山へ向かう際に利用した1000系の登場は昭和48年で、難波と和歌山市駅の間の所要は55分まで短縮された。
昭和60年に、10000系新型電車を使用する特急「サザン」の運転が開始されるまで、1000系「四国」は南海電鉄の看板列車だったのである。
 
 
一方、1000系と外見が酷似している21000系車両は、昭和33年に南海高野線用として製造された。
 
1000系の車長が20mであるのに対し、21000系は山岳路線に相応しく17mに短縮されているものの、高野線の急勾配では時速30km、平坦部では時速100kmの運転を両立させる高ギア比の電動機、二重三重にも備えられた強力な制動装置、揺動を極力抑止した台車などが備えられていた。
車内設備も、転換クロスシートに加えて、網棚の下の読書灯など、同社の優等列車の伝統を受け継いだ内装で、高野線の座席指定特急「こうや」で昭和36年から運用された20000系車両の代替としての運用も想定されていた。
 
僕らが子供の頃の鉄道書籍では、南海電鉄を代表する車両の定番は20000系「こうや」で、「ズームカー」という車両名が添えられていたものだったが、「ズームカー」は21000系を元祖とする高出力の高野線用車両の総称であり、20000系は「デラックスズームカー」と呼ばれていた。
 
 
僕は、奇抜なスタイルの20000系よりも、1000系や21000系の方が好みだった。
僕の故郷を走る長野電鉄の特急用車両2000系と瓜2つとも言える外観であることが、一因かもしれない。
 
長野電鉄2000系は昭和32年から製造が開始され、地方私鉄でありながら大手にも引けを取らない高性能と、上質な車内設備を兼ね備えた車両として、長野駅と志賀高原の入口である湯田中駅を結ぶ特急「志賀高原」に投入され、平成24年まで半世紀もの長期に渡って活躍したのである。
 
時に普通列車に用いられることもあり、中学時代に長野電鉄で通学していた僕は、2000系が現れると心が弾んだものだった。
僅かな時間とは言え、クロスシートで旅行気分に浸れたからである。
 
 
曲面を基調とした2枚窓の前面形状、2扉の乗降扉の配置、2段窓といった2000系のスタイルを、僕は、昭和25年の登場以来「湘南電車」の愛称で親しまれた国鉄80系電車の系譜を継ぐ「湘南型」の1つとして捉えていた。
80系電車は、東海道本線のラッシュ輸送対策として機関車牽引の客車列車を置き換えることを目的に、長大編成を前提とし、加えて100kmを超える長距離運転を目的として開発された。
試験走行の結果、性能面で客車列車を大きく凌駕し、居住性でも遜色がなかったことで、電車が長距離大量輸送に耐え得ることを世界で初めて実証し、東海道新幹線の実現にも影響を及ぼした先駆的車両なのである。
 
 
長野電鉄2000系は、昭和30年に登場した名古屋鉄道5000系の影響を受けているとする見解もある。
 
名鉄5000系は、新たに開発されたカルダン駆動方式が採用されたことで安定した高速走行が得られ、航空機の技術を応用して台枠と車体を一体化する張殻構造が、強度を保ちながら、5tにも及ぶ軽量化を実現した。
当時の名鉄の担当者をして「5000系は今までとは全く異なる概念の車両である」と言わしめた、画期的な車両だったのである。
5000系が投入された名鉄特急は、日中でも立ち客が出る盛況となり、運転士が早着しないよう気を使うほどの俊足だったと伝えられている。
 
ちなみに、豊橋-名古屋-岐阜間の名鉄本線と平行する国鉄東海道本線で、名鉄5000系としのぎを削っていたのが、国鉄80系であった。
 
 
カルダン駆動方式などと言われても、僕にはチンプンカンプンなのであるが、電車のような動力分散型の車両では、常に振動に晒されている車輪と電動機との位置関係について、技術的に難しい課題となっていたことは理解できる。
 
旧来の電車は、車軸を支えるバネの下に電動機を吊り下げる吊り掛け駆動方式で、車軸に電動機の重みが加わることでレールを傷めたり、乗り心地が悪く騒音が大きくなって、高速運転の障害となるばかりでなく、電動機が車軸と一緒に振動するために破損しやすいと言う欠点があった。
国鉄80系に投じられた技術は、国鉄が蓄積してきた伝統的な設計を継承していたため、駆動方式は吊り掛け式が踏襲されていたものの、大幅な改良が加えられたことで、国鉄における吊り掛け駆動電車の集大成と評される存在となる。
 
一方、電動機を車軸から離してバネの上の台車枠に置き、振動を吸収するカルダンジョイントと呼ばれる継手を電動機と車軸の間に挟んだ方式がカルダン駆動で、レールのうねりや捻れに対して車輪がよく追従するため安定した走行性能が得られ、線路の継ぎ目などによる衝撃から電動機が分離していることで騒音や乗り心地が改善した。
終戦直後、カルダン駆動方式の技術は米国のメーカーが先んじていたが、我が国でも、昭和26年から小田急電鉄が電動機を車軸と90度の方向に置く直角カルダン駆動方式の研究を開始、名鉄も数ヶ月遅れで開発に乗り出している。
 
直角カルダン駆動方式は特殊な歯車装置を要するなど複雑な構造を余儀なくされたが、続いて開発された中空軸平行カルダン駆動方式は電動機を車軸に平行して設置し、電動機が若干かさばるものの、軸方向の寸法を短縮できるため、小型の車両に大出力の電動機を搭載でき、保守と整備が容易になった。
 
昭和29年に、世界初の軌間1067mm狭軌車両向けの中空軸カルダン駆動装置が名鉄と南海電鉄に納入され、名鉄5000系や南海1000系に採用されることになる。
カルダン方式の導入を躊躇っていた国鉄も方針を一転し、通勤電車の傑作と評される昭和32年製造の101系電車を生み出していく。
 
 
長野電鉄が2000系を発注するにあたって、製造元の日本車輌製造に名鉄5000系を踏襲するよう要望し、それを皮切りに「日車タイプ」と称された地方私鉄向け高性能電車は、5000系を原型とすることとなった。
 
車体形状と電車運用の基礎を築き上げた国鉄80系、駆動方式など最新技術を取り入れた名鉄5000系と南海1000系・21000系、その技術を地方私鉄まで拡大した長野電鉄2000系に至る「湘南型」電車の歩みは、鉄道大国日本の技術革新の歴史そのものに思えてならない。
 
 
どのような名車であっても、容赦のない時代の変遷と共に、老朽化は避けられない運命である。
 
僕が幼少時を過ごした昭和40年代後半に、国鉄80系は東海道本線などの主要幹線から淘汰されていたが、信州では昭和48年から中央本線、篠ノ井線、飯田線で運用されて、小学校の遠足で篠ノ井線の80系電車に乗った時の拙い写真が、今でも残っている。
昭和58年に全面的に引退した80系が、最後まで活躍していたのは飯田線で、父の実家を訪ねた折りに、短区間ではあったものの、80系に巡り会った。
満席のためにデッキで過ごしたが、武骨な乗り心地と、重々しくも勇ましい吊り掛け駆動方式のエンジン音を、まるで飛行機のようだと感じた記憶は、今でも鮮やかである。
 
 
名鉄5000系は昭和61年に名鉄線から全て姿を消し、長野電鉄2000系も平成24年に全廃された。
 
南海1000系は、昭和60年に特急「四国」が最新車両10000系を投入した「サザン」に置き換えられるとともに廃車が始まり、昭和62年に全編成が廃車となった。
高野線向けの21000系も、平成9年に南海線から姿を消し、一部が大井川鐵道と一畑電鉄へ譲渡されている。

 

 

 

 
僕は、平成18年に、大井川鐵道で余生を送る21000系に乗車したことがある。
南海線よりも厳しい自然条件下であるためか、幾筋もの錆の痕が残る大井川鐵道の21000系の姿には、栄枯盛衰を感じずにはいられなかったけれど、大井川を遡っていく急勾配をものともしない力強い走りっぷりと、クロスシートや読書灯など往年の設備が全て温存されていたため、1000系特急「四国」や、今回の旅で高野線21000系に乗車した時のことを、懐かしく思い浮かべたものだった。

 

 
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