東京発寝台特急の挽歌 第5章 ~南宮崎行き「富士」80年の足跡を偲ぶ 後編~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

 

「富士山、見えませんでしたね」

とS君が残念がったのは、東京と博多を結ぶ戦後初の寝台特急列車が計画された昭和31年に、列車名を「富士」と名付ける案があったという話題が出たからである。
この列車の運行ダイヤでは、富士山麓を走るのが下りは日没後、上りは夜明け前になるから、富士山を拝むことは出来ないと却下されて、「あさかぜ」に決定したのである。
そこまで杓子定規に考えなくても、と苦笑して済ませて良いことのようにも思うし、その後の「富士」の名の使われ方を見れば、たとえ富士山が見えなくとも、初めての「九州特急」に伝統の「富士」の名は相応しかったのではないかと、僕も宮脇氏と同意見なのである。

富士山が見えるのは、丹那トンネルで箱根を越えた三島駅付近から、富士川を渡った先の富士駅、もしくは静岡の手前の興津、由比駅のあたりまでであるから、午後7時前後にこの区間を通過する今の「富士」のダイヤならば、富士山を拝めるかも知れない、と2人で話していた。
秋の日はつるべ落とし。
車窓はどんどん暗くなっていったけれども、富士駅のあたりまでは山ぎわがほんのり黄色く染まる程度の明るさが残っていて、黒々とした富士山のシルエットくらいは見えるのではないかと期待した。
「富士」も、大小の駅のホームをかすめながら誠心誠意走った。
しかし、明るさが足りなかったのか、それとも雲に隠れていたのか、結局は我が国最高峰の山容を目にすることは出来なかった。

「新幹線だったら見えましたかね。新幹線の名前を『のぞみ』とか『ひかり』じゃなくて『富士』にすれば、外国人にも受けたんじゃないですか?」
 
S君の感想は、宮脇氏の意見と全く同じだから、頷かざるを得ない。


富士山と言えば、他の列車のヘッドマークが丸型もしくは四角の枠に収められているのに対して、「富士」では富士山をかたどっているのは、戦前からの伝統である。
「九州特急」として復活した当初は他の列車と同様の円形だったのだが、昭和60年に「富士」を東京-下関間で牽引する電気機関車をEF66型に変更した際に、戦前と同じ山型に変更された。
 
この時、葛飾北斎の赤富士を模したデザインも試作されたのだが、採用されなかったというエピソードがある。
僕も写真で目にしたことがあるが、現在のデザインが秀逸で見慣れているだけに、違和感を拭い切れなかった。
外国人には受けるかもしれず、S君の感想も聞いてみたいけれど、この旅の当時は携帯電話やスマホが普及していないため、すぐに情報や写真を提示する方策はない。


鉄道のことばかりを喋っていた訳ではないから、話が尽きることはなく、僕らはロビーカーに移動して日付が変わる頃までを過ごした。
 
深夜0時前後に京都、大阪、三ノ宮に停車するのは戦前の特別急行列車と同じであるが、現代のブルートレインは東京を2時間も遅く発車しているし、下関には2時間早く到着するという進化を遂げている。
そもそも、西鹿児島まで足を延ばしていた昭和40年代の「富士」の停車駅は絞られていて、静岡県内では熱海と浜松しか停まらなかった。
県都を通過するとは驚きであるけれど、東海道新幹線「のぞみ」が県内に停車しないことに憤慨して「通行税を取る」と息巻いたと言う静岡県知事ならば、「富士」にも矛先を向けたかもしれない。
当時は名古屋駅から福山駅まで乗降扱いがなく関西圏を通過していたことも、「あさかぜ」に始まる「九州特急」に共通する特色であったが、今では早い時間帯に東京を出る「さくら」と「富士」が関西に停車するダイヤに変わっているのは、戦前への回帰のようである。

高校生のS君にお酒を飲ませる訳にはいかないし、僕だけアルコールという薄情な真似も出来ず、ジュースとスナック菓子だけでよく話し込んだものだと思うけれど、三ノ宮が過ぎれば岩国まで停まらないのだから、そろそろ寝ようか、とお仕舞いにした。


静岡県内から名古屋、関西にかけて、この車両に加わった乗客は数名程度のようで、ぴたりとカーテンを閉ざしているベッドと、空のままカーテンだけが揺れているベッドが、半々程度の割合である。

「初めてですよ、寝台なんて」

S君は腰をかがめて寝台に潜り込みながら、心躍る様子である。
僕も横になって目を瞑ってみたものの、向かいの寝台ではごそごそと着替えたり身動きをしている気配がして、時々、 

「おお!」

などと感嘆の声が小さく聞こえたり、枕元の明かりがついたりしていたから、生まれて初めての列車寝台を経験するS君の興奮ぶりが手に取るように伝わってくる。
僕も、子供の頃の家族旅行で初めて寝台車を経験した時に、3段式B寝台の最上段をあてがわれてなかなか寝つけなかったことを懐かしく思い出した。

寝ようか、と言いながらも、憧れの寝台特急に乗っているという軽い興奮と、翌日の午後1時過ぎまで寝坊が出来る身分であるためなのか、なかなか寝つけない。
一服でもしながらもう少し起きていようかな、と、そっとカーテンをめくってみると、S君もカーテンを開けていて、お互いに顔を見合わせて苦笑いしたものだった。
窓のブラインドを上げてみると、星があるのかすら判然としない漆黒の空の下を、「富士」は心地良い揺れと、レールの継ぎ目の音を奏でながら、申し分のない速度で走って行く。


『おはようございます。特別急行「富士」号を御利用下さいましてありがとうございます。今日は10月5日、日曜日です。ただいまの時刻は6時ちょうどです。列車は時刻表通りの運転を行っております。次は小郡に停まります。小郡には6時09分に着きます。小郡でお降りのお客様、お忘れ物、落し物のないように、お手回り品を今一度お確かめ下さい。洗面台等を御利用で席をお立ちの際には、貴重品を必ずお持ち下さい。また洗面台に時計、眼鏡、指輪などのお忘れ物がないようにお気をつけ下さい。また1号車は禁煙車になっております。1号車に御乗車のお客様、お煙草は御遠慮下さい。禁煙車の洗面所も禁煙となっております。乗り換えの御案内を致します。山陽線普通列車熊本行きが6時18分の発車で、階段を昇りました6番乗り場です。山口線普通列車津和野行きは6時31分、同じく階段を昇りました先の1番乗り場からの発車です。宇部線の普通列車宇部行きは6時16分、階段を昇りまして8番乗り場からの発車です。次は小郡です。小郡、厚狭、下関、門司の順に停まって参ります』

誰かが長々と喋っているな、と夢うつつで聞き流しながら目をあけると、闇に包まれた寝台は、夕べと変わらず程良い揺れとレールを刻む音だけの世界である。
自分は寝台特急に乗っているのだ、という幸福感に浸ったのも束の間、小郡だと?と飛び起きてカーテンを開ければ、窓の外は白々と明け始めていた。
しまった、と思う。
下りの「九州特急」で目覚めた時の、寝ぼけまなこで眺める瀬戸内の景色が、僕は好きだった。
ただし、山陽本線から瀬戸内海が見える区間は案外に少なく、三原近辺と岩国-柳井、光-防府くらいである。
小郡ということは、何れの区間も過ぎてしまっているではないか。
カーテンが閉め切られたままの向かいの寝台に目を遣りながら、S君に夜明けの瀬戸内海を拝ませてあげたかったのに、と申し訳なく思う。

小郡駅で弁当屋が乗って来たらしく、

「お弁当にお茶は如何ですか」

と控え目な声が聞こえると、向かいのカーテンが開いて、S君が眠そうに目をこすりながら顔を出した。

「おはようございます。朝御飯、来ましたね」

車内販売の人気は上々で、通路を覗くと、籠を下げたおばさんが、客がいる全ての寝台で呼び止められているようである。
品目は「あなごめし」と「幕ノ内弁当」の2種類で、2人とも迷わず「あなごめし」を購入した。


先月も、「はやぶさ」の朝御飯は同じだったな、と思ったが、包装や中身の配置がどこか違っているような気がする。
 
「あなごって、このあたりの名物なんですか」
「そうなのかな。徳山駅の名物だって聞いたことがあるけど、これには小郡駅弁当って書いてあるね。この前食べたのは徳山の方なのかな」
「徳山って工業地帯って習いましたけど、あなごが採れるんですね。小郡のも、ふっくらしてて美味しいですよ。あれ、徳山って、この先でしたっけ」
「いや、小郡より手前だよ。もう過ぎちゃった」
「じゃあ、さっき見えた海は徳山なのかな」
「え?海を見たの?」
「ええ、ちょっと目が覚めちゃいましてね、外を見たら、まだ暗かったですけど、島がいっぱい見える海岸を走ってました。綺麗でしたよ。なんか感動的でした。あれ、瀬戸内海ですよね」

うっすら海が見える程度に夜が明けていたのならば、光と防府の間であろうか。
S君も瀬戸内の夜明けを見ることが出来たのか、と胸を撫で下ろした。


『徳山に着くと車掌がやってきて、海側の窓の鎧戸を下ろすよう乗客に指示した。
これから西は海岸を走るので、停泊中の艦船や軍事施設が見えるからであろう。
春の朝日を浴びていた乗客たちは、いっせいに腰を浮かして鎧戸を下ろした。
眠っている客は揺り起こされ、動作の緩慢な客は、あなた早くしなさい、と叱られた(時刻表昭和史)』
 
太平洋戦争下の昭和19年に、中学生だった宮脇俊三氏が第1種急行1列車、つまり格下げされた「富士」に乗って九州旅行に出掛けた時の描写である。
身近な人々が次々と招集されて戦場に向かい、いずれは自分たちにも順番が回って来る、空襲で命を落とすかも知れない、と刹那に感じていた少年たちが、1週間の春休みを最後の青春として受け止めていた時期であった。

『山へ出かける者が多かったが、学校のグラウンドで野球をする者、映画館に入りびたって古い洋画を繰り返し観る者などいろいろだった。
なかには女学生との交際に全力を挙げた者もいた(時刻表昭和史)』

という暗い風潮の中で、鉄道ファンだった宮脇氏は、完成したばかりの関門トンネルを体感したくなって鉄道旅行に行くことを決め、それまでは断固として反対していた両親も、この時ばかりは許したのである。
東京駅の窓口に長時間並んでも入手が困難な指定券を、何とか手配できた宮脇少年であったけれど、全車指定席の車内にいる乗客は男ばかりで、軍人が3分の1を占め、『この第1種急行には、重要な用務を持った軍公用者以外は乗ってはならぬような空気がただよっていた』と記している。


一見華やかに思える「富士」の歴史に思いを馳せれば、我が国を代表する列車として常に世相を反映する存在であり続けただけに、戦争の時代を避けて通る訳にはいかない。
 
「『悲しいけど、これって戦争なのよね』って感じですか」
 
とS君が「機動戦士ガンダム」の名台詞を口にしたけれども、おどけた口調と裏腹に、表情は暗かったように思う。

「ここで窓を閉めて何を隠したんですか」
「連合艦隊の司令部が呉に置かれていたからね。戦艦『大和』とか、徳山沖で公試運転を行った写真があったような気がする」
「『大和』を隠してどうするんですか?見せてあげれば、みんな元気になったんじゃないですか。自衛隊も観艦式とかやってますよね」
「列車にスパイでも乗っていると思ったのかな」

徳山から下関までは、殆どが山中の鄙びた車窓であったが、本州の果てが近づくと、過ぎ去る建物の合間から、再び海がちらちら見えるようになる。


7時10分に到着した下関駅では機関車を交換するために5分間停車する。
受刑者の更生保護の問題に一石を投じた平成18年の放火事件により、昭和17年の関門トンネル開通時に建設された三角屋根の駅舎が全焼する前である。
僕はS君を誘って、機関車の付け替えでも見てみようと外へ出た。

「ここが昔の『富士』の終点かあ」

とS君は海が見える高架ホームで大きく伸びをした。
家並みの向うに見えるこの海を関門海峡と思って眺めたことがあったけれども、実は小門海峡で、向かいに見える陸地も九州ではなく下関市に含まれる彦島であることを知ったのは、恥ずかしながら、それほど昔のことではない。


「朝鮮への船は何処から出たんですか?」
「僕も知らない。この駅は、関門トンネルの開通で移転したらしいんだ。昔は、駅前に山陽ホテルっていう国鉄直営のホテルがあって、そこで1泊してから乗り継いだ人も多かったんだって。帰国したお偉いさんの記者会見なんかもよく開かれていたらしいよ」
「ヨーロッパまで、ただでさえ15日掛かるのに、ここで1日過ごしちゃうんですか?のんびりしているなあ」

山陽ホテルを建てたのは山陽本線の前身である私鉄の山陽鉄道で、国営化とともに国鉄に譲渡された。
国鉄が直営するホテルは、東京ステーションホテル、奈良ホテル、山陽ホテルの3軒のみで、収支より格式を重んじる運営だったと伝えられているのは、如何にも国鉄らしい鷹揚さである。
昭和17年に営業を中止し、国鉄下関ビルとして残されていたビルが取り壊されたのは、平成20年前後と聞いているから、この旅の頃にはまだ存在していたのだろうが、長いホームの西の端まで歩いてみても、どの建物が旧山陽ホテルなのか判然としなかった。


下関駅の全盛期は、興亜景気に湧く日中戦争の最中で、年間300万人が下関と大陸を往還し、終戦後には大陸からの引揚げ者と在日朝鮮人の帰国が錯綜して、凄まじい混雑であったと伝えられている。
横浜や神戸、長崎に劣らぬ国際港湾都市だったのだな、と思うが、現在の下関は、そのような昔の栄華など微塵も感じさせずに、ひっそりと静まり返っている。

『薄暮になって下ノ関に着いた。
随分長く、15分くらい停車した。
その間に今までの蒸気機関車を電気機関車につけ代える。
海の底の関門隧道を通る為であって、隧道を出て門司に着いたら、又はずす。
停車中歩廊に出て、辺りを眺めた。
下ノ関には今まで1度しか来た事がないが、その時の模様は覚えている。
どうも様子が違う様で、丸で見当がつかない。
同じく歩廊に出ているボイに、駅から直ぐ行かれる所にあった山陽ホテルはどうなったのか、聞いて見た。
あれがもとの山陽ホテルですと云って指さしたのは、随分離れた向うの方である。
関門隧道が出来て、列車が従前の路線より別の所を通る様になり、駅もその時出来た新しい建物だと云うことを教わった。

この前来た時、山陽ホテルに1泊して、翌朝目がさめて見たら、窓の向うに新造の八幡丸が、真白に塗った1万7千噸の巨体に美しい朝日を浴びて、狭い海面を圧する様に浮かんでいたのを思い出す。
八幡丸も、姉妹船の新田丸も、日本の海運の新しい希望だったが、前後して海の底へ沈められてしまった(鹿児島阿房列車)』

内田百閒が、博多行き急行「筑紫」で九州に向かっていた途中の描写である。
世界有数の海運国である我が国の、戦前の隆盛を彷彿とさせる一節である。

欧州航路に配される計画の下に昭和13年から16年にかけて建造され、高名な神社の名を冠して「NYK三姉妹」と呼ばれた新田丸級豪華客船「新田丸」「八幡丸」「春日丸」は、戦況の逼迫に伴い、それぞれ小型空母「冲鷹」「雲鷹」「大鷹」へと改造を受け、南方への航空機輸送に従事した。
しかし、「冲鷹」は昭和18年に八丈島沖で、「雲鷹」は昭和19年に南シナ海で、「大鷹」は同年にルソン島沖で、米潜水艦の攻撃を受けて沈没している。
 

昭和20年代に日本全国を股に掛けて鉄道で旅行した「阿房列車」シリーズには、東京と九州を結ぶ急行列車が数多く登場する。
内田百閒が最も愛用し、何度も登場する鹿児島本線経由鹿児島行き「霧島」をはじめ、日豊本線経由西鹿児島行き「高千穂」、長崎行き「雲仙」、博多行き「筑紫」「玄海」など、長距離急行列車が東京-九州間輸送の主役であった時代の貴重な記録にもなっている。

中でも「富士」と関わりが深いのは、昭和26年に東京-都城間を運行する夜行急行として登場した501・502列車で、昭和27年に「高千穂」と命名された。
「高千穂」は東京-熊本間の急行「阿蘇」と併結されていたが、昭和29年に併結相手が東京-博多間の急行「玄海」に変更され、昭和31年には単独運転となる。
運転区間が日豊本線経由の東京-西鹿児島間に延長され、寝台特急「富士」が昭和40年に同じ区間で運転を開始するまで、我が国で最長距離を走る列車となり、その所要時間は31時間28分であった。
昭和43年に、「高千穂」は鹿児島本線経由の東京-西鹿児島間の急行「霧島」と併結されるようになり、昭和45年に「霧島」の名称が「桜島」に変更されている。
昭和50年に、「高千穂」は名古屋-宮崎間の臨時列車に格下げとなって、東京と九州東海岸を直結する旅客輸送を「富士」に譲る形で、事実上廃止された。


東京から下関まで1100.3kmを走り切ったEF66型機関車が客車から切り離され、代わりに手旗を振る作業員をステップに乗せたEF81型機関車が近づいて来る。
客車を全く揺らすことなく、鈍い音を立てて機関車が連結されると、

「はあ、上手いもんですねえ」

とS君が感心したように独りごちた。
鉄道ファンでなくても、車両の連結作業は面白い見ものなのだろう。
新幹線でも、盛岡駅や福島駅における東北新幹線と秋田・山形新幹線の連結作業には人だかりが出来る。


「いよいよ海底トンネルですね」

高揚した表情でS君が視線を向ける窓の外を、家並みがみるみる流れ始め、上方にせり上がったと思うと、真っ暗な壁が視界を塞いで、走行音が反響するだけの世界に変わった。
関門トンネルの長さは3614mであるから、

「おおお、これが海の底なんですかあ!」

と窓に囓りつくS君の興奮が鎮まるより早く登り勾配が始まり、外がパッと明るくなって、車輪がポイントをがたがた鳴らすと、門司駅の構内である。
 
「え?これだけですか」
「そうだね」
「本州と九州って、こんなに近いんですか」
「関門海峡に立てば、向こう岸がすぐそこに見えるよ」

長さ50kmを超える青函トンネル程ではなくても、もう少し歯応えのあるトンネルを期待していたらしい。
僕の九州初上陸は、大阪と福岡を結ぶ夜行高速バス「ムーンライト」号だったから、壇ノ浦SAでの休憩でライトアップされた関門大橋を見上げ、対岸の灯を眺めながら、本州と九州の距離を実感したものだった。
あの光景をS君にも見せてあげたいと思うけれども、海の底をくぐる宮崎行きの列車に乗っているのだから、如何ともし難い。


「もじー、もじもじー」
 
と駅員が連呼する放送にS君がウケまくった門司駅で、機関車をED76型に付け替え、5分ほどで小倉駅に着くと、「富士」は長い夜を駆け抜けた疲れを見せることなく日豊本線へと進路を変える。
この前の九州鉄道旅行では、寝台特急「みずほ」で鹿児島本線を熊本まで南下し、豊肥本線で大分、日豊本線で西鹿児島、鹿児島本線で熊本と回り、その次の「はやぶさ」の旅では鹿児島本線をひたすら南下するだけだったので、小倉から大分までの日豊本線は僕にとって初めての経験である。

行橋、中津、宇佐と停車していくうちに、数える程ではあるけれど、新しく乗車してくる客もいる。
降りていく客の方が圧倒的に多いから、車内はみるみる閑散としていく。


下関から先は、立席特急券で1号車から6号車の宮崎編成を利用することが出来るので、下関駅で作業員が乗り込み、下段のシーツや枕、毛布を上段に放り込んでいったのである。
鉄道ファンが「ヒルネ」と呼ぶこの乗車方法は、「はやぶさ」でも下松以降で行われ、寝台券の二重売りではないかとの批判も耳にしたものだった。
「富士」の「ヒルネ」客が多いように感じたのは、鹿児島本線よりも日豊本線の方が昼行特急列車の運転間隔が開いていて、速度が遅いからであろうか。
「ヒルネ」客も、先客がいる区画を避けて空の寝台を広々と使いたいだろうから、僕らのいる区画に同居することは、まずないものと思われる。

下関駅での作業は午前7時過ぎのことであり、カーテンを閉めたまま寝入っている客の寝台は片付けないまま放っておかれたので、

「朝寝坊した方が得するみたいですね」

とS君が苦笑した。

このあたりからの車窓は一気に鄙びて、中津から先の日豊本線は、単線の線路になってしまう。
刈り入れを待つばかりの黄金色の穂波を、一陣の風が渡っていく。
果樹園に林立する木々の緑に映える蜜柑や柿の鮮やかさ。
線路脇に咲くコスモスの可憐さ。
秋祭でも催されているのか、村の鎮守の森に幟が何本もはためいている。


国東半島の根元にある立石峠を越えると、右手の山腹に別府温泉郷の白い湯煙が見え、あれは湯気なんだよ、と教えると、

「あそこが有名な別府ですか。あんなに湯気が立って硫黄臭くないんですかね」

と、身を乗り出したS君が目を剥いた。

別府から先は、凪の豊後水道に沿って線路が敷かれているが、並行する国道10号線を走る車が「富士」をびゅんびゅん抜いていく。
多数の野生の猿が住みついていることで有名な高崎山の麓を通り、大分駅では、7号車から14号車の切り離しのために6分間停車する。
ぶらりとホームに出てみると、彼方の立ち食い蕎麦スタンドに人だかりがしている。
立ち食い蕎麦、という手もあったか、と食指がそそられる。
 
「ここは大分県ですよね」
「そうだね」
「さっき停まった門司は福岡県、その前の下関は山口県ですね」
「うん」
「これで3県も制覇しましたよ。次は宮崎県ですね」

ホームに降り立った駅がある県には行ったことにしよう、という魂胆らしい。

「『富士』が通って来た府県なら全部で13もあるけれど、そっちは数えないんだ」
「通過しただけなら飛行機と同じじゃないですか」
「なるほど」


大分を出て20分程経った頃に、「富士」は古びた小駅に停車し、素っ気ない放送が流れた。

『運転停車のため5分停車します』

静まり返ったホームの駅名標には、幸崎と書かれている。
周囲には大分市の郊外らしくマンションが幾つか見受けられ、路床に雑草が繁っている、あっけらかんとした雰囲気の駅である。
ぷいっと席を立ったS君が、

「5分も停まるのに扉があいてないんですよ」

と言いながら戻って来た。
ここでも降りてみたかったのだろう。

「運転停車だからね。すれ違いでもあるんじゃないかな」

と答えているうちに、窓外を、特急「にちりん」が颯爽と通過して行く。

「あれ?あの列車、僕らと同じ方向に走っていませんか?宮崎ってあっちですよね」
「すれ違いじゃなくて、追い抜きだったね」
「『富士』って特急ですよね?じゃあ、あの列車は?」
「特急だよ。『にちりん』」
「特急が特急に抜かれるって、マジっすか」
「しょうがないよ。客車列車より電車の方がずっと速いんだから」

小倉発南宮崎行き「にちりん」5号の小倉駅の発車時刻は、「富士」より30分近く後の8時03分であるが、大分ではその差が10分に縮まり、終点の南宮崎には30分以上も早い12時59分に着く。
340km程度の距離で1時間も所要時間に差をつけられるとは、客車列車が淘汰されるのもむべなるかな、と思う。


特急「にちりん」にしても、当時は博多から小倉経由で宮崎、西鹿児島まで長駆する系統が残されていたものの、後に博多-大分間は「ソニック」、大分-宮崎間は「にちりん」、宮崎-西鹿児島間は「きりしま」に分断され、しかも航空機と高速バスに客を奪われて、福岡と宮崎を移動する選択肢から外れてしまう運命が待っているのだから、栄枯盛衰は寝台特急だけの話ではない。

そこから先の車窓は山がちになり、気を取り直したように臼杵、津久見、佐伯とマイペースで歩を進めた「富士」は、原生林が鬱蒼と生い繁る宗太郎峠に挑んでいく。
この区間は、日豊本線で最後に完成した難所である。
九州に入ってから10~30分ごとに停車していた「富士」も、佐伯から延岡までの宗太郎越えでは1時間以上無停車になってしまうほど、人跡稀な土地なのである。
車窓を掠める木々の緑が、秋とは思えないくらいに濃く感じられる。

ベッドに横になって昼寝を決め込んだり、窓際に腰かけて茫然と車窓を眺めたりしながら、席を立つのはトイレの行き来くらいである。
他の区画を見るともなしに見てみれば、ベッドに寝転びながら読書をする青年、缶ビールを傾けている赤ら顔のおじさん、トランプに興ずる若い女性グループ、中から鼾が聞こえる閉め切られたままのカーテンなど、寝台があるだけに、昼間の座席特急よりも気怠さが目立つ。
長旅の果てに、乗客からは一切の飾り気が消え失せたようだった。


しばらく姿を消していたS君が戻って来て、

「おかしいですね。夕べのロビーカーがないんですよ」

と首を傾げている。

「大分で切り離されちゃったよ」
「マジっすか?切り離した方にロビーカーがあったなんて。宮崎まで繋がないんですか」
「宮崎まで連結すると、その日のうちに東京へ戻せなくなるんだ。上り列車の南宮崎発は13時25分で、この列車が着く7分前だからね。終点まで繋いじゃうと、ロビーカーをもう1両造らなければならなくなるだろ。食堂車も同じ理由で、だいぶ前から大分止まりにしていたんだよ」
「節約のためですか。残念だなあ、あのソファーでもういっぺん、まったりしたかったんですけどねえ」
 

2ヶ月後に控えた「富士」の大分止まりも、同じ節約の発想なのであろう。
曲線の多い山あいを縫う単線の線路を、車体を軋ませながらとろとろと走っていく僅か6両の「富士」を、外から眺めれば、戦前の花形列車の面影は何処へやら、哀愁すら漂っているのだろうな、と思う。

延岡駅で正午を迎えた。
1300kmあまりを走り抜く「富士」の旅も、残り1時間程度である。

「いよいよ最後の県だね」

と声を掛けたが、S君は浮かない表情で頷いただけだった。
東京から19時間、さすがに疲れたかな、と多少心配しているうちに、延岡と日向の明るい街並みが過ぎ、日向灘が左手の車窓いっぱいに広がる。
深く切れ込んだ入江と、海に突き出した岬が代わる代わる現れるうちに、右手から山塊が押し寄せてきて、ふっと陽が翳る。


「天祖の降跡より以逮、今一百七十九万二千四百七十余歳。而るを遼邈なる地、猶未だ王沢に霑わず。遂に邑に君有り、村に長有り、各自疆を分かちて用て相凌躒せしめつ。抑又塩土老翁に聞きしに曰く、「東に美地有り、青山四に周れり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降れる者有り」といいき。余謂うに、彼地は必ず当に以て大業を恢弘し天の下に光宅するに足りぬべし。蓋し六合の中心か。厥の飛び降れる者は、謂うに是饒速日か。何ぞ就きて都なさざらむや」

と神武天皇が東征に船出したと伝わる美々津では、漁船が浮かぶ入江の奥の狭い平地に、家々が身を寄せ合っている。
天孫降臨伝説の高千穂をはじめ、宮崎県内には神話の舞台となった土地が多く、過ぎ去る景観は鄙びてはいるものの、何処か格調高く感じられる。
海と山に彩られた豊かな車窓を眺めていると、「富士」が日豊本線に乗り入れることについて「国鉄は何をしておるのか」という宮脇俊三氏の慨嘆は当たらないような気がしてくる。


押し黙っていたS君が、唐突にこちらへ向き直った。

「どうして『富士』は宮崎行きなんです?宮崎から中国への船が出ているんですか」
「そんな航路はないよ。戦前の『富士』はあまりに存在感があったから、それに相応しい列車が登場するまでは、と温存し過ぎて、機会を失くしたって感じだと思う」

前述した寝台特急「あさかぜ」や、東京と大阪を史上最速で結んだビジネス特急「こだま」などが登場した際に、列車名称の候補として決まって「富士」が挙げられたものの、将来別途使用の計画がある、と見送られて来た。
 
ところが、昭和36年になって、「つばめ」「はと」「こだま」と並ぶ東海道本線電車特急の一翼を担う東京-神戸・宇野間の電車特急が、「富士」と命名された。
2往復のうち1往復は「四国連絡特急」として東京と宇野を結び、その走行距離765.7kmは、当時の電車特急として最長であった。
残り1往復は、電車特急のパイオニアである「こだま」の1往復を置き換えたもので、最長距離を走る列車、もしくは我が国の中枢である東海道メガロポリスを行き来する東京-神戸間の列車に「富士」の名が使用されたことは、それなりの格付けであったと言えないこともないけれど、温存してきた割には唐突な印象が否めない。
しかも、東京-大阪間を結んでいた「つばめ」1往復が昭和37年に広島まで延伸されたため、「富士」の最長記録はあっけなく覆されてしまう。


昭和39年の東海道新幹線開業を期に、東海道本線の電車特急は全廃されることとなり、「富士」の名は東京と大分を結ぶ寝台特急列車に冠されることとなった。
昭和40年に、「富士」の運行区間が日豊本線経由で西鹿児島まで延長され、運転距離で頂点に立ったものの、昭和55年には宮崎止まりになって、またもや最長距離列車の称号を他の列車に譲る羽目になる。

平成2年に運転区間が南宮崎まで1駅だけ延びたのも束の間、平成9年に運転区間が大分まで短縮されることが決定したという時点で、僕らは「富士」に乗っているのである。


「分からないですねえ。それだけ大切にしていた名前を、どうして大分行きの列車につけたのかな。いえ、大分がどうこうって訳じゃありませんけどね」
「だよね。でも、僕の推測に過ぎないけれど、国鉄は『富士』の西鹿児島延長を見越していたのかもしれない。国際列車を運行するような時勢でもないし、日本で初めての寝台特急やビジネス特急、新幹線には別の名前がつけられたから、残された花道は、日本で最長距離を走る列車しかない、と考えた人間がいたんじゃないかな。そう考えれば、宇野行きや大分行きの『富士』が生まれた理由が分かる気がする」
 
僕が鉄道ファンになった昭和50年代、「富士」は憧れの対象だった。
当時の子供向け鉄道書籍には、必ず「日本最長距離を走るブルートレイン!」などという修飾詞がつけられ、眩しい思いで写真に見入ったものだった。
「富士」の名に相応しくないとは、これっぽっちも思わなかった。
 
日本一に君臨していた15年間こそ、「富士」が戦後で最も輝いていた時代だったと思う。
 
 
この時点では僕もS君も知る由もなかったが、この旅の8年後の平成17年に、「富士」は「はやぶさ」と併結して運転されるようになる。
平成11年から「はやぶさ」と併結運転されていた長崎行き「さくら」と、下関行きだけになっていた「あさかぜ」もその年に廃止されており、大分・熊本行き「富士/はやぶさ」が、唯一残された「九州特急」となった。
 
そして、平成21年3月13日、「富士」は「はやぶさ」とともに、80年近い歴史に幕を下ろしたのである。
 
 
仮に、寝台特急「あさかぜ」の名が「富士」になっていたとしても、平成17年に廃止されてしまうことになる。
ビジネス特急「こだま」が「富士」であったとしても、東海道新幹線の開業で廃止、新幹線が「ひかり」ではなく「富士」と命名されても、それよりも速い「のぞみ」が平成4年に登場する。
世の中の進歩は日進月歩、古い物はどんどん淘汰されていく。 
僕たちが生きているのは、伝統だけを重んじて、1つの名称が長期間相応しい地位を保ち続けられるような、安定した時代ではない。
我が国初めての特別急行として誕生し、「九州特急」の最期を飾る列車となったことで、もって瞑すべしであろう。

「僕はですね、歴史のある『富士』に乗れて良かったって思ってるんです。最初は、どうして日本一長い『はやぶさ』に誘ってくれなかったのかって思ったんですけど
「ごめん、やっぱりそうだったのか」
「いえ、違うんです。僕のおじいちゃんやおばあちゃんの時代から走っている列車に乗れて、光栄なんです。ただ、『富士』で鹿児島まで行きたかったなあって。宮崎で終わっちゃうのが残念なんですよ」


車窓を覆っていた山々が後退し、緩やかな傾斜の丘陵に広大な畑が広がる伸びやかな景観に変わると、宮崎平野も近い。
畦道や農家の庭先に、背の高い棕櫚の樹が並んでいる。
空も明るく、強烈な光が流れて眩しい。
南国に来たと思う。
 
「あれは何ですか?」
 
と目を見張ったS君の視線の先には、日豊本線の線路と並行する一筋の高架が続いている。
 
「リニアの実験線だね。去年から山梨に移っているけど」
「おお、あそこをリニアモーターカーが走っていたんですか。時速何キロ出したんでしたっけ」
「517km」
「写真で見たことありますよ。ここだったのかあ」

いっぺんに元気になったS君の様子に安堵しながら、実現が何時になるのか予想もつかないけれど、東京-大阪間の中央新幹線として計画されているリニア超特急の愛称が「富士」になるのも悪くないのではないか、と夢想した。


いつしか沿線の建物の数がびっしりと増えていた。
内田百閒が訪れた頃には、
 
『道幅も広く立派な市街であるが、何となく薄っぺらな感じがする。
それは無理もないと云うのは、宮崎市は今度の戦争で17回に及ぶ空襲を受けたそうで、皮切りは昭和20年の3月8日、仕上げは戦争終結の詔勅が下りた直前の8月10日と12日とで、その時は海からの艦砲射撃と空からは焼夷弾爆弾と云う二重のサアビスを受け、綺麗に焼尽した所謂戦災都市なのである』
 
と記された宮崎市であるが、今では戦争の痕跡など全く感じられない。
ビルの谷間の街路を行き交う車や人も多いけれど、あと2ヶ月で『富士』がこの街に来ることはなくなる。
この街に住む大多数の人々が、東京や名古屋、大阪に行くならば航空機が便利だから関係ない、と思うような些細なことかもしれないけれど、「富士」がこの街の復興を支え続けたことに間違いはない。
戦争を挟んだ1つの時代が終わりを迎えようとしているのだ、と思う。

宮崎駅で、上り「富士」とすれ違った。

「あれが東京に戻る『富士』ですか?」
「そうだね」
「惜しいなあ、こんな終点近くですれ違うなら、もう少し発車を遅くして、そのまま折り返せるようにすれば、ロビーカーを宮崎まで持って来れるのに」

それほどロビーカーのことが悔しかったのか、と苦笑しながらも、清掃や車両整備の必要性から短時間での折り返しは難しいし、東京の発車や到着時刻もなかなか移しにくいのではないか、と答えておくにとどめた。
上り列車とは夜中に山陽本線でも邂逅しているはずで、自分の分身と2度もすれ違う列車は、「富士」と「はやぶさ」だけであり、我が国第1位、第2位を誇る長距離列車の貫禄と言えるだろう。

宮崎駅を出ると、大淀川を渡る鉄橋の轟々たる走行音に掻き消されがちではあるものの、最後の案内放送が聞こえて来た。

『皆様、長らくの御乗車、お疲れ様でございました。およそ5分で、終点の南宮崎に着きます。13時32分、定刻に到着を致します。車内にお忘れ物などございませんようにお降りのお支度を下さい。ホームは左側、2番乗り場に到着です。降り口は左側でございます。南宮崎から先、都城方面、西鹿児島行きの普通列車は13時38分です。1番乗り場から連絡を致します。日南線青島方面は14時06分、2番乗り場からの連絡です。次は終点の南宮崎、13時32分に到着を致します。御乗車ありがとうございました』


宮崎では、毎年春季キャンプを張る巨人軍の御用達として知られる釜あげうどん屋「重乃井」に寄って、遅くなった昼食を摂ってから、宮崎空港を発つ航空機で羽田に戻る予定だった。
貴重な週末のうち、宮崎に来るだけで20時間を費やしたのであるから、のんびりと宮崎を観光する余裕はなかった。

南宮崎駅の高架ホームに降り立った客は、数えるほどだった。
東京、名古屋、関西から乗り通してきた客も僅かであっただろうし、下関以降の「ヒルネ」客も、速さで勝る「にちりん」に乗り換えてしまったのだろう。

S君は、少しばかり埃っぽくなっている「富士」を名残惜しそうに何度も振り返りながら口を開きかけたが、言葉は発しなかった。
すっかり秋めいていた東京と異なり、僕らの身体にまとわりつく宮崎の空気は、あたかも夏のような温もりと湿り気が感じられた。


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