東京発寝台特急の挽歌 番外編 ~寝台急行「銀河」特急と同等に東海道を走り続けた孤高の急行列車~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

何度か、夜の大阪の街を彷徨ったことがある。

いずれも、交通機関を乗り継ぐ待ち時間のことで、思い起こせば心が暖まる、というような楽しいひとときではなく、退屈で遣り切れなかった訳でもない。

 

遠方へ向かう往路に大阪で乗り換えたこともあるけれど、その場合は気分が高揚しているから何の問題もない。

旅の過程で最も幸せなのは待ち時間ではないか、と思うくらいである。

 

幾許かのほろ苦さとともに思い出されるのは、旅先から大阪に到着する交通機関を降り、更に東京へ帰らなければならない場合である。

 

 

紀伊半島を回って大阪に戻ってから、東京行きの夜行高速バスへ。

陰陽連絡バスを乗り継いだ後に大阪に行き、難波発の東京行き夜行高速バスへ。

倉敷から難波へ向かう高速バスを降りてから、大阪発横浜行きの夜行高速バスへ。

高知発梅田行きの高速バスから、梅田発千葉行きの夜行高速バスへ。

 

思いつくままに幾つか列挙してみても、新幹線ならば3時間足らず、航空機を使えば1時間で帰れるのに、敢えて夜行高速バスを選んでいるケースばかりで、しかも東京ではなく近郊への路線も少なくない。

もちろん、色々な高速バス路線に乗ってみたいという趣味から選んだ旅程であるけれど、それだけではないことを、僕自身がよく知っている。

 

阪神大震災の直後に臨時運航された岡山-伊丹間の航空機を利用してから、難波発富山行きの夜行高速バスへ。

金沢発梅田行きの高速バスを降りた後に、新潟行きの夜行急行列車へ。

高野山から南海特急電車で難波に着いてから、新潟行き夜行高速バスへ。

静岡から大阪行きの高速バスに乗ってから、仙台行きの夜行高速バスへ。

 

翌日の日程に余裕があれば、首都圏方面ですらない交通機関に乗ってしまう場合もある。

大阪よりは東京に近づいているから、これでも帰路である。

つまるところ、素直に家へ帰りたくない、と未練がましく愚図愚図していただけなのであった。

 

 

学生時代には、日常から逃れたい、という現実逃避を動機にして、旅に出掛けたことも少なくない。

旅が楽しければ楽しいほど、その終わりが間近に迫れば、反動が一気に襲い掛かって来る。

 

昭和54年に発表されたBOROの「大阪で生まれた女」が思い浮かぶ。

 

たどりついたら1人の部屋

裸電球をつけたけど又消して

あなたの顔を思い出しながら

終わりかなと思ったら泣けてきた

大阪で生まれた女やけど 大阪の街を出よう

大阪で生まれた女やけど あなたについて行こうと決めた

たどりついたら1人の部屋

青春に心をふるわせた部屋

 

大阪で生まれた女が今日

大阪をあとにするけど

大阪は今日も活気にあふれ

又どこからか人が来る

ふり返るとそこは灰色の街

青春のかけらをおき忘れた街

 

「たどりついたら1人の部屋 裸電球をつけたけど又消して」のフレーズは、独り暮らしの東京に帰りあぐねている僕の心に哀しく浸みた。

いつ来ても確かに大阪は活気にあふれているけれど、あとにする立場ではなく、どこからか訪れる方になりたいと思う。

 

大阪での時間の過ごし方が上手ければ、このような鬱々たる思いをすることもなかっただろうが、あいにく、それほど要領良く人間が出来ていない。

型通りに飲み屋に入ってみても、酒と旅はよく似ていて、どん底に落ち込んだ気分を魔法のように引っ張り上げてくれる、という作用は決して期待できないというのが実感である。

日常生活が充実していれば、酒も旅も一層楽しく、明日への糧になるけれど、そうでなければ虚しくなるばかりである。

行きずりの客や店員と気軽に会話を楽しむ積極性も持ち合わせてはいない。

 

鉄道やバスに乗ることが好きなのだから、大阪近辺の鉄道の未乗区間の乗り潰しを試みたこともある。

けれども、帰宅ラッシュが過ぎた深夜近くになることが多く、人気の少ない電車に揺られれば、侘しさが募る。

 

今、振り返っても、あの頃の僕はいったい何をしておったのか、という遣り切れなさが込み上げて来る。

 

 

平成2年真夏の週末のこと、品川から米子に向かう夜行高速バス「キャメル」号の初乗りを兼ねて山陰へ足を延ばし、帰路は岡山行きの高速バス「ももたろうエクスプレス」号で陰陽を横断してから、大阪まで出てきた。

大阪から東京へ向かう交通機関は新幹線、航空機、高速バスなど多種多様であるけれど、この時は、最初から夜行急行列車「銀河」に乗ってみようと決めていた。

 

戦前から運転されていた東京-大阪間の夜行急行列車が、昭和22年に急行103・104列車として復活し、昭和24年に「銀河」と命名された。

急行列車に愛称をつけたのは、「銀河」が初めての例である。

昭和24年のダイヤ改正では、戦後初の特別急行列車「平和」が東京-大阪間に登場するなど、一時期優等列車が途絶えていた我が国の鉄道界が、復興に向けて大きく第1歩を踏み出した。

 

ただし、戦後の混乱がまだ続いているにも関わらず、国鉄は、戦前に「名士列車」と呼ばれた急行列車を甦らせたつもりであったらしく、「銀河」は一等車と二等車のみで編成されていた。

そのため利用が伸び悩み、殺人的な混雑を呈する列車も少なくない中で、がらがら状態で走っていたことから批判を浴び、「銀河」と命名された9日後に、三等車を連結したと伝えられている。

 

昭和25年に「銀河」の運転区間は東京-神戸間に延長された。

 

 

内田百閒は、昭和28年に京都-博多間で運転を開始した特別急行「かもめ」の処女運転に招かれた際に、東京から京都まで「銀河」を利用し、その様子を「春光山陽特別阿房列車」に記している。

 

『戦後、列車の運行が大分常態に復した時、夜の急行「銀河」が走り出して評判になった。

その当時、盲宮城検校が神戸から「銀河」に乗って帰って来て、その土産話をしてくれた。

戦争中、方々へ出掛けた時の汽車と違って、大変乗り心地がいいと云う事。

自分には見えないが、一緒に乗った人の話に、「銀河」の最後部には、天の川をあしらった中に、「銀河」と云う文字を浮かした列車標識が、美しい電気で暗い中に輝き、実に綺麗だそうです、と教えてくれた。

検校はそう云う話が好きなので、自分は見えなくても、そう云う汽車に乗っていると思うと、いい気持だと云った。

今晩、いったんコムパアトには落ちついたが、私も検校に教わった「銀河」の標識を見たいと思った。

「つばめ」や「はと」の標識は珍しくないけれど、夜汽車の尻に電気をともしている標識は、まだ見た事がない。

山系君を促して、その最後部の標識を見、引き返して最前部に廻り、今夜の電気機関車を検分して来ようではないかと云いながら、デッキに出たら、丁度そこへ来合わせた夢袋さんと顔が合った。

例に依るお見送りである。

夜汽車のお見送りはおよしなさいと云っておいたのだが、彼は亦その思う所を行うにたゆたう所以がないと云うわけであろう。

一緒にさそって、長い列車の腹に沿って歩いた。

コムパアトのある一等車は、機関車の後に荷物車が1輌あって、すぐその次だから、最後部へ行くには13輌の長さを通らなければならない。

客車1輌の長さが20米、13輌で260米、その長さを往復すれば520米、1粁の半分よりまだ遠い。

おまけにそこいらに人がいっぱいいて、みんな銘々にうろうろして、私共の通行の邪魔をするから、真直ぐには歩かれない。

一体発車前の汽車の横っ腹を、そう云う風に歩いて行こうとする者がいると云う事は、人の予期しない所である。

駅の係員なら制服を著ている。

らちも無い風態のおやじが、せかせかと人ごみを押し分けて行こうとしても、だれも道をあけてはくれない。

だからなおの事歩きにくい。

漸くの思いで最後部まで辿りついた。

最後部は三等車である。

この長い列車の尻が、蛍の様に光っているとばかり思って、1番うしろへ廻って見たら、そんな物は何もない。

真っ暗なお尻であった。

 

「ないね」

 

夢袋さんが「ありませんね」と云った。

それでお仕舞で又人を押し分けてもとの所へ戻って来た』



「銀河」と名付けられた昭和24年の当時の編成は7両で、特急列車と同等のテールマークを付けたことで話題になったのだが、登場の9日後に三等車を連結して仕切り直すにあたり、テールマークは外されてしまったのである。

この時のデザインは今と異なっていたらしい。

内田百閒の記述を読むと、その4年後には一等車2両、二等車5両、三等車6両の13両編成に増結されていて、大変な混雑を呈していることが窺える。

昭和28年に、少なくとも鉄道界は戦後の混乱期を脱したと言うことなのだろう。

 

内田百閒の親友であり、「春の海」などを作曲した盲目の箏曲家宮城道雄氏は、昭和31年に「銀河」から転落して命を落とす。

大阪での公演に向かう途中だった宮城氏は、午前3時頃に東海道本線刈谷駅の手前で車外に落ち、30分後に通過した貨物列車の乗務員から「三河線ガードのあたりで線路際に人のようなものを見た」という通報を受けた駅員に発見された。

その時点では意識があり、自らの名前を漢字の説明をしながら名乗ることが出来たものの、搬送された病院で死亡が確認されたのである。

 

 

現場には宮城道雄遭難の碑が建立され、内田百閒は、2年後に東京発博多行き急行「西海」で通り掛かる。

 

『6時55分の刈谷駅着の一寸前に、山系君が不意に手を挙げて窓の外を指しながら、「あっ、あれです」と云った。

私は進行方向に向かって坐っていた。

だから私と向き合っている山系君は、その前を汽車が通り過ぎてから指差したのである。

何だと思って振り返った私の目に線路際に立った白木の太い柱が映り、宮城道雄と云う字が読めた。

その上にも下にもまだ外の字があったけれど、気づいたのが遅かったので走り過ぎる窓からは読み取れなかった。

ああ、ここだったのかと思った。

そこはすでに刈谷駅の構内なので、そうしてこの「西海」は刈谷に停車するので徐行しかけている。

それから停まって、すぐに出たのだろう。

その前後の事を丸で知らない。

覚えていないのではなく初めから頭に這入っていない。

ただ、今見た白い柱が目先にちらつき、あすこなのか、あすこだったのかと思う。

涙が止めどなく流れ出して、拭いても拭いても切りがない』

 

九州への旅行の途上にあった内田百閒は、復路に刈谷駅に下車して旧友を偲ぼうと計画していたものの、『線路際の夕空の下に起った柱の悲しさ、わざわざ汽車から降りて、そのまわりをうろつく勇気は私にはないだろう』と思い始める。

この描写がある短編「臨時停車」は、東京行きの上り「西海」が広島付近の踏切事故の煽りで臨時停車したまま動かなくなった場面で筆が置かれている。

 

当時の国鉄の客車の扉は手動で、鍵もかからず、走行中でも自由に開閉できた。

通勤電車等では自動ドア化が進んでいたが、客車としては、この事故の直後に設計された20系が鎖錠装置を初めて設置したのである。

 

 

東京-大阪間には、「銀河」に続いて、昭和25年に「明星」と「彗星」が登場した。

昭和28年に「月光」、昭和33年に「あかつき」、昭和36年に「金星」「すばる」「いこま」「やましろ」「よど」「六甲」と、数多くの夜行急行列車がきら星の如く東海道本線を行き交った。

東海道本線と関西本線経由で東京駅と湊町駅を結ぶ夜行急行「大和」も、昭和25年に運転を開始している。

日中の急行列車も、昭和31年に「なにわ」、昭和35年に「せっつ」が運転を開始、「いこま」「やましろ」「よど」「六甲」は昼夜行で運転される座席専用列車であった。

 

昭和30年代の東京と大阪の行き来には、特別急行「つばめ」や「はと」でも所要7時間以上を要し、日帰りを可能にするビジネス特急と持て囃された昭和36年登場の電車特急「こだま」でも片道6時間であった。

特急列車の指定券は1週間前の発売と同時にほぼ売り切れてしまうために入手が難しく、自由席車両は連結されていなかった。

急行列車は昼行で8時間、夜行で10時間が費やされるにも関わらず、自由席車両の多い急行を利用する人が圧倒的に多かったのである。

 

 

昭和30年当時の「銀河」の編成は、個室二等寝台1両・開放式二等寝台1両・二等座席指定車2両・二等自由席車1両・三等寝台車3両・三等座席車6両・荷物車2両という編成であった。

 

下り:東京21時00分-品川21時11分-横浜21時33分-大船21時54分-小田原22時35分-熱海23時03分-沼津23時30分-静岡0時30分-浜松1時55分-名古屋3時55分-岐阜4時28分-米原5時31分-大津6時28分-京都6時45分-大阪7時27分-三ノ宮7時53分-神戸7時57分

 

上り:神戸20時50分-三ノ宮20時56分-大阪21時30分-京都22時16分-大津22時30分-米原23時30分-岐阜0時31分-名古屋1時15分-浜松3時02分-静岡4時24分-沼津5時26分-熱海5時55分-小田原6時22分-大船7時14分-横浜7時31分-品川7時52分-東京8時03分

 

というダイヤで、東京-大阪間の所要は10時間30分だった。

 

昭和39年の東海道新幹線開業は、この移動形態を根本的に変えた。

同じ年に「彗星」「あかつき」「せっつ」「すばる」が廃止され、昭和40年には「金星」「よど」「六甲」「なにわ」が、昭和43年には「明星」「いこま」が姿を消し、「大和」は東京と紀伊勝浦・鳥羽・王寺を結ぶ夜行急行「紀伊」に統合されて、関西本線経由で東京と湊町を結ぶ系統は廃止された。

東京と大阪を片道3時間あまりで行き来できるようになって、東海道を走る夜行急行列車の需要は激減したのである。

 

 

紀行作家宮脇俊三の「うらめしや新幹線」と題されたエッセイには、出版会社の編集者であった氏が、京都の大学の先生方に執筆を依頼するための出張について言及されている。

東京から関西への出張は、現在の海外出張に匹敵する程の大仕事であったけれど、迎える立場の人々も「遠路おおきに」「お疲れやす」と労う気持ちが強く、仕事を推進する上で無形の力となっていたと宮脇氏は振り返る。

夜行列車で着く宮脇氏のために朝風呂を沸かしてくれた先生もいたり、夕食に誘えば京都ならではのお店を教えがてら付き合ってくれ、仕事の話もじっくり出来たおかげで、出張の成果は絶大だったと言う。

交通機関は速ければ速いほど良い、と思い込んでいた僕にとっては、大いに蒙を啓かれた内容である。

 

『昭和39年10月の東海道新幹線の開通を機に様相が変わってしまった。

東京-関西間は日帰り圏となり、距離は不変でも時間的には「遠路はるばる」ではなくなった。

それ以前でも飛行機があり、空港へのアクセスを含めて東京から大阪・京都まで3時間前後で行けたのだが、やはり空を飛ぶ以上と地上を走る正常との違いであろうか、新幹線によって東京と関西との往復が、通勤と大差のない日常茶飯事のことになったのである。

東海道新幹線が開通したとき、これで京都での仕事はやりやすくなるぞ、と私は思った。

が、これは愚かな考えで、結果は逆であった。

京都を訪れても、かつてのようなぐあいにいかなくなってきた。

「遠路おおきに。今日はどこへお泊まりか」の代わりに「何時の新幹線で東京へお帰りか」というふうに変わった。

夕食を共にしても早めに切り上げて京都発20時何分かに乗れば、その日のうちに東京へ着いてしまう。

そこまではまだよいのだが、新幹線の便利さは京都出張の効果を減殺したようであった。

「遠路はるばる」の歓迎と協力は昔話となり、1回の出張ですんでいたことが、2回、3回になるという傾向がでてきた。

日帰りが多くなれば労働強化でもある。

これに加えて新しい現象が現れた。

結婚式や祝賀パーティーなどの招聘状が関西から送られてくるようになったのである。

わずか3時間であれば行かねば失礼になる。

新幹線以前は祝電や弔電ですんでいたのだが。

電話で事足りた用件でも出向かねばならない。

往復で1日が費やされ、運賃もかさんだ。

というわけで、新幹線以前の時代を私は懐かしんでいる。

新幹線を運休してみたら、のどかな時代が戻ってくるのではないかとさえ思う』

 

 

内田百閒の随筆の一節に、ハタと手を打ったことがある。

 

『東京から大阪まで必ずの用事があって出かけると云う場合に、草履を穿いて歩いて行くよりは汽車に乗った方が便利である。

しかしそれは用事が先にあって、汽車と云う交通機関がそれに伴った時の話であって、今我々の経験している便利と云う考えはそんな物ではない。

汽車が先にあって、後から用事が起こるのが普通である。

歩いて行くよりは汽車に乗った方が便利ではあるが、実際の場合は、汽車さえなければ大阪へ行く用事なんか起こらないであろう』

 

昭和の初めに、このような鋭い考察を加えていることには頭が下がる。

世の中、色々便利になりましたけれども、それに振り回されていませんか、と警鐘を発しているのである。

 

『いくら汽車が早くても、あるいは飛行機で出かけるとしても、行かないよりは時間がかかる。

交通機関の発達の極致はどこへも行かないと云う事でなければならぬ』

 

上質のユーモアに満ちた百閒節には思わず吹き出しそうになるけれども、数十年後に宮脇氏も、もう少し硬い筆致で同様の分析をしている。

 

『「より速く」を求めるのは人間の本能であり、交通機関発達の原動力である。

それは多くの恩恵を人類に及ぼした。

けれども、より速い乗り物が、よりたのしい旅をもたらしてくれたかとなると、これはもう疑問である。

急用のある人、忙しい人、忙しがっていないと不安になる人、乗り物ぎらいで一刻も早く降りたい人、等々が、大阪から高松まで飛行機に乗り、東京から熱海まで新幹線に乗るのはよいとしても、のんびりと旅をたのしもうとするはずの人たちまでが、しきりに飛行機や新幹線に乗るのは、どうしたことかと思う。

旅は食事に似ている。

忙しいビジネスマンは5分間で天丼を平らげ、また机に向かう。

優雅な人は1時間かけて昼食をたのしむ。

前者は生きるためのみの動物的食事であり、後者は手段をたのしみの域までに高めた人間的食事である。

どちらが幸福な食事かは明らかで、時間に余裕がある人までが大急ぎで食べることはないだろう』


首都圏と関西圏の間の移動で新幹線や航空機を使わない人は、圧倒的に少数派となった。

『新幹線は「文明とは人間にとって何なのか」との問いを発してやまない存在』と指摘する宮脇氏であるが、弁解がましく次のように付け加えている。

 

『かくいう私にしても、つい新幹線に乗る。

とくに急ぐ必要のないときでも、しばしば乗る。

そして、新幹線に「乗らされている」自分に気づく。

そうした反省もあって、最近は新幹線の切符を買おうとするとき、一歩踏みとどまって「ほんとうに新幹線に乗る必要があるのか」と自問するようにしている』

 

『やっかいなのは、東京発7時57分の在来線で静岡へ行くつもりが、眠さに負けて「新幹線ならば9時40分発でも間に合う」と、またひと眠りするような場合である。

こんなこともあった。

山陰へいく所用があり、東京発21時00分の「出雲3号」の寝台券を入手しておいた。

ところが当日、友人と酒を飲んでいるうちに愉快になり、出発を1時間遅らせて東京発22時00分の最終「こだま」で「出雲3号」を追いかけ、静岡に11分早く着いて乗り継いだ』

 

なあんだ、新幹線の恩恵を存分に満喫しているじゃないか、とニヤリとさせられるけれど、頷ける話である。

僕も、新幹線の指定券を購入する際に、後の時刻の新幹線が空いているなら数時間遊んで行こうか、と欲が出ることがある。

所要6~7時間の在来線特急列車に乗るのと、結果は変わらない。

 

 

そのような趨勢でも、唯一「銀河」は生き延びた。

新幹線開業の年に、「銀河」の運転区間が東京-姫路間に延長され、昭和43年に「明星」が「銀河」に統合されて、「銀河」は東京-姫路系統と東京-大阪系統の2往復になる。

昭和47年に「銀河」姫路系統は大阪止まりに短縮され、その1本は東京と紀伊勝浦を結ぶ急行「紀伊」と東京-名古屋間で併結運転を開始する。

昭和50年に「紀伊」は寝台特急に昇格するが、併結されていた「銀河」の1往復は廃止されてしまう。

 

孤高の存在となったこの頃の「銀河」のダイヤは、

 

下り:東京22時45分-品川22時54分-横浜23時13分-大船23時30分-小田原0時11分-熱海0時33分-静岡1時42分-浜松2時59分-豊橋3時35分-岐阜5時23分-米原6時10分-大津7時06分-京都7時19分-大阪8時00分

 

上り:大阪23時10分-新大阪23時16分-京都23時50分-大津0時01分-豊橋3時58分-浜松4時27分-静岡5時44分-富士6時24分-沼津6時58分-熱海7時28分-小田原7時58分-大船8時44分-横浜9時01分-品川9時26分-東京9時36分

 

と発車時刻が大幅に繰り下がり、名古屋をはじめとする中京圏の駅の大半を通過するようになって、東京-大阪間の所要時間は、下り列車が9時間15分に短縮されているものの、上り列車は10時間26分と大きな差が生じている。

 

ちなみに、同時期の国鉄夜行高速バス「ドリーム」号は、東京22時20分-大阪7時37分、大阪22時40分-東京8時15分という運行ダイヤで、会社や学校の始業前に到着する。

上り「銀河」の東京着が遅くなったのは、多数の通勤列車が集中する時間帯を避けたものと推察されるが、夜行明けでそのまま日常に戻ることが多い僕には使い辛く、なかなか乗る機会を見出せなかった。

 

 

今回、新幹線や航空機ではなく夜行列車を選んだ僕は、百閒先生や宮脇氏のような文明論的思考の結果ではなく、その日のうちに旅を終えたくなかっただけである。

今思えば、そのような心境の時に「銀河」という選択肢が残されていたことは恵まれていたと思うけれど、大阪に所用があって留まっていた訳ではないから、「銀河」に乗る前に何処で何をしていたのか、全く覚えていない。

 

大阪での時間潰しとして印象に残っている方法として、キタならば梅田の古書店街めぐりや紀伊國屋書店での立ち読み、ミナミならば難波や心斎橋といった商店街の冷やかしなどが思い浮かぶのだが、どれがどの時のことだったのか、前後の旅の記憶と全く繋がらない。

 

難波の戎橋筋商店街を歩いたのは、豚まんで有名な551蓬莱本店を訪ねてみたかったからである。

同店のHPを開いてみると、終戦の昭和20年に「蓬莱食堂」として発足した時にはカレーライスを販売していたと書かれており、昭和21年に豚まんが誕生したと記載しながらも、その直後に洋菓子部を新設してクリスマスケーキが記録的な売上げであったことが書かれているから、大阪らしい商魂だと苦笑してしまう。

僕が訪ねた蓬莱本店では、出来立ての豚まんやチャーシューまん、あんまん、焼売、アイスキャンデーなどが売られている1階のテイクアウト店を横目に、2階のレストランに昇って夕食を摂った覚えがあるけれど、メニューを見て大いに迷った記憶はあるものの、何を注文したのかは忘却の彼方である。

活気に溢れた戎橋筋の路地で人波に揉まれながら、孤独な疎外感に苛まれた記憶だけが残されている。

 

 

古書店めぐりは好きなので、大阪では梅田や心斎橋に集まっていると耳にして足を運んでみたけれど、東京の神保町のような街並みを期待していた僕にとって、梅田は「古書のまち」と看板を掲げた狭い通路の両側に連なる店の佇まいがあまりにも渋すぎて、拍子抜けした覚えがある。

 

巨大なアーケードが600m近く延びている心斎橋商店街を訪ねたのは、すっかり夜も更けた頃合いだった。

大丸百貨店をはじめとする服飾店や飲食店などが軒を連ね、休日ともなれば約12万人もの「心ブラ族」と呼ばれる買物客が訪れる商店街も、殆どの店がシャッターを下ろしていて、閑散としていた。

看板を眺めてみれば、江戸時代に書籍店や古書店、小道具屋、琴三味線店、呉服屋が軒を連ね、明治以降は舶来品を扱う小売店、時計店など洒落た店舗が増えた名残りは感じられるけれど、時折、自転車に乗ったおっさんが凄まじい勢いで通り過ぎていく他は、酔って気勢を上げている若者たちを見掛ける程度であったから、気晴らしどころか、ますますうらぶれた気分にさせられた。

 

 

何処をどのように彷徨しようとも、「銀河」が発車する22時10分に、僕が大阪駅10番線に立っていたことだけは間違いない。

内田百閒にあやかって、最後尾で銀河をあしらったテールマークを見物し、先頭まで歩を運んで今夜の牽引機を務めるEF65型電気機関車の勇姿を眺めた記憶もはっきりと残っている。

それまで「急行」と表示されていただけのテールマークが、昭和55年に、列車名とイラスト入りの図柄で復活していたのである。


 

ホームの人混みを掻き分けて「銀河」のテールマークとEF58型機関車を見て回った内田百閒は、

 

『私は汽車に乗る時、これから自分の乗る列車の頭から尻まで全体を見た上でないと気が済まない』

 

と、「阿房列車」に記している。


「阿房列車」で常に百閒先生に同行したヒマラヤ山系こと平山三郎氏は、「実歴阿房列車先生」の冒頭で、以下のように触れている。


『先生は汽車に乗る前には、自分の乗る列車の図体、編成を自分の眼で確かめないと気分がわるいらしい。

発車時間までたっぷり時間をとっておいて、まず、先頭の機関車からゆっくり点検する。

持っているステッキで、機関車の胴体をコツコツ叩いてやりたいくらいの気持らしい。

そして順次、最後尾の車輛まで、時間があれば車内に這入っていって、納得するまで眺めてたのしむ。

わたしはそんな時は、ホームに立っていて、いつもとちがって先生がびっくりするほど敏捷に車内の寝台車の具合なんかをながめて車輛から次の車輛へ乗りうつるのを追っかける。

いつも荘重な先生の歩調が、別人のように軽快になっているのにおどろくのである』


宮脇俊三氏も、「阿房列車讃歌」で百閒先生の一文を取り上げて、

 

『汽車旅好きが読むと、同病ならではというか、思わず天を仰ぎ、あるいは膝を叩きたくなる箇所が随所にある』

 

と肯いている。


 

宮脇氏の著作では、乗る前に列車の全編成を通しで見て歩くことに拘っているくだりが、幾つも見受けられる。

 

「シベリア鉄道9400キロ」でソビエト連邦を訪れた宮脇氏は、ナホトカ発ハバロフスク行き「ボストーク」号の寝台に収まってから、発車時刻を過ぎてもなかなか動き出さないことを良いことに、

 

『私は急いで「ボストーク号」の編成を点検することにした。

自分がこれから乗る列車がどんなぐあいになっているかは、知りたいものである』

 

と車外に出てしまう。

ハバロフスクからモスクワまでを走破する「ロシア」号でも、16両が連なっている列車の先頭から末尾まで見物に出掛け、車両ばかりでなく、賑わうホームの様子や行き交うロシアの人々の様子をつぶさに観察している。

 

 

「インド鉄道紀行」で、宮脇氏がニューデリー発カルカッタ行き「ラジダーニ急行」に乗車した時は、

 

『ところで、私には自分の乗る列車の頭から尻尾まで見ておきたがる習性がある。

鉄道ファンならわかる気持だろう。

頭の方の半分は入線の際に見たが、後半がどうなっているか判らない。

それが気になるので、ホームに降りようとしたが、デッキでは車掌が乗客の切符をチェックしている。

私たちの切符はポール氏が持ったままどこかへ消えている。

ホームに降りてしまうと乗れなくなるかもしれない。

私は諦めてコンパートメントに戻った』

 

と、最初こそハプニングに見舞われたものの、その他の列車では、

 

「先生、ゆっくり列車を見てきていいよ」

 

とガイドに言われて、検分を完遂できている。

 

 

ところが、検分がままならない国もある。

 

「中国火車旅行」で、宮脇氏が編集者と上海発烏魯木斉行きの特快列車に乗ろうとした時には、

 

『いよいよ駅へ向かうのかと思ったが、鄔さんは、

 

「これから昼食をしに行きます」

 

と言う。

昼食をと言われても、まだ朝食をすませたばかりである。

それに、一刻も早く駅へ行って、車中3泊の長途を共にする列車をじっくりと眺めたい。

自分の乗る列車が、どんな編成であるかと頭から尻尾まで点検したい気持は、同好の士にはわかることだろうと思う。

私たちは、昼食は割愛して駅へ行って欲しいと言った。

これから乗る汽車をよく見たいのだとも言った。

鄔さんは、わかりましたと愛想よく頷いたが、

 

「まだ11時27分の発車まで、たくさん時間があります。汽車の中での食事は、きょうの夕食からさしあげることになっています。ですから昼食をすませて乗っていただかないといけないのです」

 

と答え、私たちを5階建ての「友誼商店」へ連れて行った。

外国人向けの土産物百貨店で、最上階に食堂がある』

 

と、全く相手にして貰えない。

結局、駅に着いたのが発車の17分前で、

 

『ホームには見送り人や物売りが群がっていて見通しがきかないし、歩いて行って確認する時間もない』

 

という顛末になる。

 

別の機会に大連発瀋陽行き特快列車に乗車した時は、

 

『本来ならディーゼル機関車が「東方紅3形」であることの確認をはじめ、編成車両を1両ずつ見て歩きたいのだが、そういう行動に及ぶと非常に迷惑がられるのは経験済みなので、おとなしく王さんの後に従う』

 

と、すっかり諦めている。

 

 

中国における国営旅行社の通訳は、単なる案内人という役割だけではなかったようである。

阿川弘之氏の「南蛮阿房列車」に記されている「東方紅阿房快車」では、豪華客船「クィーンエリザベスⅡ世」が大連に初寄港したクルーズで、遠藤周作氏と中国を訪れた阿川氏が、昔の満州鉄道を偲んで鉄道に乗りたいと通訳に頼んだところ、

 

「無理です、それは」

 

と無下に断られてしまう。

 

「お前、また汽車で駄々こねとるんか」

 

と遠藤氏に呆れられながらも、阿川氏は食い下がる。

 

「僕は汽車に乗るのが趣味なんです。ただ乗ってればいいんで、誰にも迷惑かけるようなことはしません。乗せてさえもらえば、1人でどこかまで言って、1人でおとなしく帰って来ますよ」

「それ、いけません。私、先生たちのお世話しなくてはならない」

 

困惑するガイドの様子に、阿川氏は、

 

『27歳の人なつこい若者だが、肩書きは国営中国国際旅行社の服務員である。

通弁役案内役のほかに、外賓保護監察の役目を負わされているにちがいなかった』

 

と推察する。

それでも阿川氏は粘りに粘り、しまいには遠藤氏も同行すると言い出し、

 

「僕を汽車に乗せないと、汽車の恨みで、どんな中国の悪口書くか分からないぜ」

「四人組追放後、中国は建設的な批判を歓迎しています」

 

という何処かズレたやり取りを交わしながらも、結局は誠実な通訳が上司と交渉してくれて、

 

「大連駅の同志が、先生たち汽車に乗ること承認してくれました」

 

と、瓦房店まで往復する汽車旅が実現する。

ところが、阿川氏が車内を歩き回れば、

 

「先生、どこ行ったか、心配した」

 

と通訳が慌てて連れ戻しに来るし、折り返しの瓦房店駅では、大連駅の上司も列車に乗り込んでいたことを知って、

 

『これでは王青年が気をもむわけだ。

通訳が私どもを保護監察する、そのうしろに通訳を保護監察する別の人がいる』

 

と、窮屈極まりない汽車旅に阿川氏は嘆息する。

せめて車内を見て回りたい、と主張すると、またまた押し問答の末、

 

『やがて列車長が、

 

「御案内します」

 

とにこやかにあらわれ、遠藤はいやだと言い、私1人でおぞましきことになった。

何しろ列車長が先導に立つ、うしろに通訳と赤い襟章の警乗兵がつき従う、さながら周総理の車内巡視である』

 

という羽目になる。

 

 

鉄道ファンの列車検分に対する反応は、お国柄がよく反映されていて、比較するとなかなか興味深い。

それだけに、この汽車旅の結末は、強く僕の心に刻まれた。

 

「私、これまで日本人の旅行者300人以上お世話したけれど、こんな我侭な人たち、見たことない」

「君、しかしなあ、君はきのうから工場々々て、しきりに工場見学させようとするけど、そないに工場好きなんか。好きなんなら、今度君が日本へ来た時、東芝、日立、日産、ソニー、新日鉄、三菱、全部見せたるで」

「ありがとうございます。でも、私、個人としては工場あまり興味ない。好きなのは日本語と日本文学です」

「それ見てみい。それで君ら、日本語勉強して大学卒業して、国際旅行社に就職して、偉うなって行くためには次々試験があるんか」

「あります。ありますけど、今は出世のためでなくて、みんな祖国の4つの近代化のために試験受けます」

「分った分った、分りました。君の言うことは全部、2たす2イクォール4ちゅう公式論や。近代化のためであろうと何であろうと、試験があるんでしょ」

「あります」

 

通訳も一緒に酔いが回り、会話が刺々しくなってはらはらさせられるけれど、教科書以外に日本語の本が手に入らず、日本の歌をテープで聴いて勉強していると言う通訳が歌を披露する。

途中で遠藤氏が「アラ、エッサッサア」と合いの手を入れて、「先生、真面目に聞いて下さい。泥鰌すくいとちがう」と怒られながらも、多少は場が和み始める。

 

『王青年は次に「南の花嫁さん」を歌ってみせた。

これは私も知っている。

もともと中国の旋律らしい。

 

「花なら赤いカンナの花か

 散りそで散らぬ花びら風情」

 

真面目に聞いてくれと言われた遠藤が、また口を出した。

 

「王君、その唄の意味分かってるのか。それはやね、色っぽい女の子が、処女をくれそうで嫁に来るまでなかなか処女をくれんちゅう意味やで」

「はあ?」

「はあって、そうだよ。君かて27歳の独身で、恋愛がしたいやろが。可愛い女の子を早う抱きたいやろが。抱かせてくれなんだらいらいらするやろが」

「四人組追放後」

 

と、王青年は答えた。

 

「中国においても個人の恋愛は自由です。しかし祖国の4つの近代化のために……」

「この人、少し思想改造の必要があるな」

 

私が言うと、──冗談のつもりだったが、

 

「この人って、誰の思想改造ですか」

 

王通訳がいささか気色ばんだ。

で、こちらもちとムキになった。

 

「君のに決まってるよ。王君の齢で女が欲しい。美味しい物をたっぷり食いたいは、健康な人間の自然の摂理だろ。遠藤じゃないけど、君は2たす2ばかり言ってて、ちっとも本音を吐かない。ほんとのことをほんとと認めないで、3つでも4つでも近代化なんて出来るのかね。鄧小平さんはそれほど分からず屋ではなさそうだがな。それとも、このコンパートメントに反鄧派の盗聴マイクでも仕掛けてありますか」

「そうやそうや、もっとほんとのことを言え、君」

 

と狐狸庵が私を声援し、

 

「盗聴マイクなんか仕掛けてないです」

 

王青年は憮然として歌を歌わなくなった』

 

先人たちの鉄道文学は、僕らの隣国がどのような時代を歩んで来たのかという事実を、余すところなくさらけ出している。

我が国が鉄道ファンにとって居心地の良い政治体制であることに、感謝すべきであろう。

 

 

僕が乗車した「銀河」は11両編成で、A寝台1両、2段式B寝台10両というシンプルな編成であった。

先頭から最後部まで通しで歩いても片道220m、百閒先生の時代ほどホームは混雑しておらず、実行するのは大して苦行ではなかったけれども、それまでの僕にこのような習癖はなかった。

 

「鉄道ファンならば分かる気持であろう」

 

と言われても、そのような誘惑に駆られたことがない僕は本当に鉄道ファンなのだろうか、と自信を喪失してしまう。

ちょうど内田百閒、阿川弘之、宮脇俊三の著作に嵌まっていた頃で、「銀河」で試しに頭から後ろまで歩いてみたものの、その後、同様の検分を繰り返すことはなかった。

我が国から機関車が牽引する客車列車が消え、効率の良い電車ばかりになって、先頭も最後尾も同じ顔になってしまったためかもしれない。

 

宮脇氏の処女作「時刻表2万キロ」に、次のような一節がある。

 

『それにつけても亡くなった太田忠さんの話を思い出す。

山陽本線、福塩線などの蒸気機関士を35年勤めた人で、10年ほど前の夏、引退先の広島県三次のお宅でお会いしたことがあった。

上半身裸になり私にも裸になれとすすめながら、蒸機への愛情にあふれた話をしてくれた。

スクラップにされる蒸機を一生懸命磨き上げ、「さようなら」と言って送り出すあたりでは涙が出そうになって困ったけれど、話のなかで太田さんはこんなことを言った。

 

「蒸機いうのは前とうしろがはっきりしちょるけん、こっちに尻向けとりゃ、向きかえてやりとうなってくるけ。ちかごろのはの、なんやら前うしろがはっきりせんようになっとって、新幹線、あれなんや」』

 

百閒先生や阿川氏、宮脇氏ならば、新幹線でも検分したのだろうか。

 

 

身にそぐわない列車検分で始まった僕の「銀河」の夜は、乗り込んでからの記憶が、またあやふやになる。

僕が乗車した「銀河」のB寝台が、3段式だったように思えてならないのである。

 

「銀河」が、それまで寝台特急だけに用いられていた20系客車に置き換えられたのは昭和51年のことで、座席車を連結しない寝台専用列車になったのも同時期である。

昭和50年にはA寝台1両・B寝台10両・普通指定席車2両という編成の記録が残されているが、昭和58年の時刻表にはA寝台1両、残りは3段式B寝台という編成表が掲載されている。

 

 

20系客車から14系客車に更新され、更に24系客車に置き換わって、3段式だったB寝台が2段式B寝台に改良されたのは昭和61年で、いずれも当時の寝台特急で使われている車両ばかりであったから、「銀河」は急行として破格の扱いであったことが窺える。

実際、昭和50年代には特急化も検討されたらしいのだが、あまりに遅い出発や早過ぎる到着を避ける有効時間帯の観点から、それほど所要時間を短くする訳にも行かず、単なる値上げと受け取られかねないため、急行のまま据え置かれたと聞く。

 

ならば、僕が乗車した平成2年の「銀河」のB寝台が3段式である筈がない。

僕が所持している時刻表でも、昭和60年3月号の巻尾に掲載されている列車編成表では、「銀河」のB寝台は「客車3段式」と記載されているが、昭和63年3月号では2段式になっている。

 

 

僕が初めて寝台車を経験したのは、家族で長野から京都へ旅行した時に乗車した急行「ちくま」だった。

ブルートレインのはしりとなった20系客車が、「銀河」に続いて他の夜行急行列車にも連結されるようになった昭和50年代の話である。

 

20系客車のB寝台は、進行方向に対して直角に並ぶ3段式で、僕ら家族は、1段目に母と小さかった弟が添い寝し、2段目が父、そして僕は最上段をあてがわれた。

最上段は客車の屋根の丸みがそのまま内部にも反映した形をしていて、まさに屋根裏そのものであったが、天井は高く、通路の天井裏の空間を利用した荷物棚がついて、3段のうちでは最も広々とした空間に感じられた。

実際に、20系客車の3段式B寝台は、上・中・下段とも長さ190cm・幅52cmで統一されていたものの、高さは上段が84cm、中段が74cm、下段が76cmと差が生じている。

最上段の窓は、開閉ができる金属製の蓋がついた小さな覗き穴が1つだけである。

 

初体験の列車寝台に有頂天になっていた僕は、覗き窓から外を眺めたり、仰向けになって丸く弧を描く天井を見上げながら、とても幸せな気分だった。

 

 

この体験に味をしめた僕は、「銀河」でも、わざわざ「みどりの窓口」でB寝台の最上段を指定したのである。

2段式B寝台の寸法は、上段で高さ95cm・長さ195cm・幅70cm、下段では高さ111cm・長さ195cm・幅70cmと、下段でも上半身を起こせる高さに改善されている。

上段でも10cm以上高くなっているのだが、窓際に固定されている梯子を昇ってベッドに潜り込んだ時の記憶を探っても、2段式ではなく3段式寝台だった、という思い込みを訂正するほどの明確さではない。

僕が「銀河」に乗車したのは2段式に改良される前のことだったのか、それとも、たまたま車両点検などの都合で、この夜だけ3段式の車両が使われていたのか、と迷うほど、思い込みは強いのである。

 

 

上段寝台に籠っている身体がガタン、と小さく揺さぶられて、「銀河」は定刻22時10分に大阪駅を発車した。

 

にじむ街の灯を ふたり見ていた

桟橋に止めた 車にもたれて

泣いたらあかん 泣いたら せつなくなるだけ

Hold me tight 大阪ベイブルース

俺のこと好きか あんた聞くけど

Hold me tight そんなことさえ

分からんようになったんか

 

大阪の海は 悲しい色やね

さよならをみんな ここに捨てに来るから

 

夢しかないよな 男やけれど

一度だってあんた 憎めなかった

逃げたらあかん 逃げたら 唇かんだけど

Hold me tight 大阪ベイブルース

河はいくつも この街流れ

恋や夢のかけら みんな海に流してく

Hold me tight 大阪ベイブルース

今日でふたりは終わりやけれど

Hold me tight あんたあたしの

たったひとつの青春やった

 

上田正樹の「悲しい色やね」の歌詞が、ふと心に浮かぶ。

「大阪の海は 悲しい色やね さよならをみんな ここに捨てに来るから」の一節が、今の僕にぴったりに感じられる。

にじむ街の灯を見に通路へ降りてみようか、との誘惑に駆られないでもなかったけれど、わざわざ梯子を降りることが億劫だった。

淀川の長い鉄橋を轟々と渡る響きが、上段のベッドに伝わってくる。

川の水面が悲しい色に見えたら嫌だな、と思う。

 

『お待たせ致しました。寝台急行「銀河」号、東京行きでございます。新大阪、京都、大津の順に停まって参ります。各駅の到着時間は、後程、新大阪を出ましてから御案内致します』

 

との放送も、ぐいぐいと滑るような勢いで速度を上げていく列車の走行音に掻き消されがちである。

 

 

どうして「銀河」が新幹線の駅である新大阪に停車しなければならないのか、と思うのだが、おそらく山陽新幹線からの乗り継ぎを図っているのだろう。

当時、新幹線を使って東京へ向かうには、博多17時32分発、広島19時05分発の「ひかり」32号が最終列車になるのだが、翌朝に東京へ着けばいい、と新大阪で「銀河」に乗り継ぐと、1時間以上遅い博多18時40分発、広島20時12分発の「ひかり」188号で間に合う。

 

22時15分発の新大阪駅を発車すると、本格的な案内放送が流れた。

 

『お待たせ致しました。寝台急行「銀河」号、東京行きです。これから先、停まります駅と到着時間を御案内致します。次は京都で、22時50分です。大津23時02分、米原23時44分、名古屋0時56分、名古屋を出ますと、次は富士です。富士には明朝4時23分、沼津4時48分、熱海5時08分、小田原5時31分、大船6時03分、横浜6時19分、品川6時38分、終点東京には6時47分の到着になります。東京には6時47分です。

お休みになられます方も御座いますので、車内放送による御案内は、明朝、横浜到着前まで、特別な御用のない限り中止させていただきます。なお、盗難防止のため、お休みの際には、貴重品、現金類は肌身につけて御旅行されますよう、お願いを致します。また、火災予防上大変危険でございますので、ベッド内でのお煙草は固くお断り致します。お煙草をお吸いの際には、A寝台の方は喫煙室で、B寝台の方は通路側の補助席のところに灰皿受けがございます。補助席を御利用下さい』

 

ちなみに、この旅の時代の下り列車の運行ダイヤは以下の通りであった。

 

東京22時45分-品川22時54分-横浜23時13分-大船23時31分-小田原0時12分-熱海0時37分-静岡1時47分-岐阜5時03分-米原5時47分-大津6時37分-京都6時50分-大阪7時28分

 

昭和50年代と東京側の発車時刻に殆ど変化は見られないものの、浜松、豊橋、名古屋を通過して、関西側の到着時刻が30分も早まっており、ホテル代わりと考えれば、かなり使いやすい時間帯の運転になっている。

夜行列車でスピードアップしてもあまり意味はないのかもしれないけれど、在来線での時間短縮は一筋縄では行かないはずであるから、一度は乗ってみたかった。

 

しかし、その後の東京と大阪の行き来は高速バスばかりに偏ってしまったので、この旅が、僕にとって唯一の「銀河」体験となった。

 

それにしても、上りの夜行列車など乗るものではない、と思う。

僕が乗る上り「銀河」が終点まで走り切ってしまえば、今回の旅も終わりを告げる。

夜行列車で停車駅の到着時刻の案内を聞けば、旅の前途に思いを馳せて心が躍るのが常だったが、「銀河」の放送は幕引きに向けての道標であって、気持ちが沈むばかりだった。

 

 

しばらくして改札に来た車掌さんに、

 

「今日はすいていますから、下の段もあいていますけど?」

 

と怪訝な顔をされたが、僕は、上段は広いから大丈夫です、と答えた覚えがある。

2段式ならば下段の方が寸法が大きいので、車掌さんは僕の返事では納得しかねたかもしれない。

おそらく、3段式であろうと2段式であろうと、上段の居住性に大差はなかったのだろう。

停車駅の多い「銀河」では、通路を行き来する人の足音や、床下から響いてくるブレーキ音などを嫌って、敢えて上段を選ぶ客も少なくなかったと聞く。

 

大阪の街なかでの記憶と同じく、「銀河」の滑り出しも、曖昧模糊として忘却の彼方である。

 

 

上段のベッドの位置は、窓枠の上縁とほぼ同じ高さで、下段の客が窓を独り占めにする形になる。

普段ならば下段にすれば良かったと後悔するのだろうけど、この日は、外界と接する下段で寝ることが煩わしく感じられてならなかった。

上段を選ぶということは、夜行列車らしい車窓や梯子の昇降の面倒よりも、独りで籠もりっきりになる環境に身を置きたかったことに他ならない。

他の段より広いと思い込んでいたにせよ、所詮は天井裏のように限られた空間であるから、山小屋やコテージなどで見られるロフトを好む心理、もしくは母胎回帰なのだろうか。

 

外は見えなくても、仰向けになって丸く曲線を描く天井を見上げていれば、幼少時の淡い記憶が蘇ってくる。

カーテンを閉め切って、暗闇の中で鉄輪が線路の繋ぎ目を噛むリズミカルな音色に心を研ぎ澄ませ、心地良い揺れに身を任せれば、それだけで夜行列車の情緒は満点である。

「銀河」に乗って良かったと思う。

 

時折、思い出したように走行音が緩やかになって、ガタン、と小さな衝撃と共に列車が停まる。

もとより深夜であるから、案内の放送はない。

モーターのついていない客車列車であるから、停車中の静寂は耳鳴りがするほどである。

外の喧騒が車内に流れ込んで来ることもない。

駅なのだろうな、と思うけれども、梯子を降りて確かめに行く気力はなかった。

 

1回目の停車は新大阪、2回目は京都、3回目は大津、と小刻みに停車していくうちに、自分まで旅の終焉を秒読みしているような心持ちになって、数えるのをやめた。

 

 

『おはようございます。ただいまの時刻は午前6時を回ったところでございます。あと19分ほどで横浜に着きます。横浜の到着は6時19分です。横浜を出ますと、品川、終点東京の順に停まります。あと19分ほどで横浜でございます。列車はただいま、時間通りの運転でございます』

 

いつの間にか眠りに落ち、横浜駅への到着を知らせる放送で眼が覚めたけれども、二度寝を決め込み、もう起きなければならないと身体を起こしたのは、次の品川駅だった。

 

『品川、品川に到着です。お出口は右側です。田町、浜松町方面は1番または3番線、山手線の渋谷方面は2番線です。品川を出ますと、次は終点の東京でございます』

 

心なしか、横浜駅よりも品川駅の案内の方がせわしなく聞こえた。

残された時間は10分程しかない。

素直に東京へ帰りたくないという女々しい動機で「銀河」を選んだのに、ぐっすりと熟睡してしまったから、あっという間だった。

もっと寝ていたい、もっと先まで行きたいと思うけれど、東京駅が終点なのだから如何ともし難い。

『あと〇〇分』などと言われれば、ますます気が滅入る。

山手線だの、田町、浜松町、渋谷だの、聞き慣れた線名や駅名を耳にすると、一気に日常へと引き戻された気分になり、もう観念するしかない。

 

『あと5分で終点の東京でございます。東京駅からの乗り換えの御案内です。中央線を御利用の方、1番線または2番線です。山手線、京浜東北線で上野、赤羽、大宮、池袋方面へお出での方は3番線または4番線です。総武線の快速電車、錦糸町、船橋、千葉方面は、地下ホームにお回り下さい。上野駅から東北・上越新幹線、東北線、常磐線、高崎線、上信越線を御利用の方は、3番または4番線の電車で4つ目の上野の駅でお乗り換えになります。お手回り品等、お忘れ物ございませんか。今一度お確かめ下さい。本日は「銀河」号を御利用下さいましてありがとうございました。東京駅のお出口は右側です。間もなく終点東京でございます』

 

東京着が午前6時47分である意味は、昭和50年代と同じく朝のラッシュ時間帯を避けるとともに、降りた後の所用にも間に合うように設定されたのであろう。

以前よりも3時間近くも到着を早めた発想は充分に理解できるものの、実際に乗ってみれば、午前9時過ぎの到着だった時代が羨ましくなる。

 

ただし、それは僕の我が儘とも言うべき感想で、「銀河」の存在意義は、新幹線や航空機の最終便より遅い時間に出発し、翌朝の新幹線や航空機の初便よりも早い時刻に到着できるという点にあった。

 

そのような運転時間の優位性は維持されていたものの、21世紀に入ってからの「銀河」は、車両や設備の老朽化が目立ち、新幹線や飛行機、高速バスの台頭や、ホテルの価格破壊のために乗客数が低迷するようになり、昭和60年代には8割程度であった乗車率も、平成10年代後半には4割程度まで落ち込んだという。

 

平成20年3月、寝台急行「銀河」は廃止される。

この時の編成は、8両まで減らされていた。



当時、首都圏と関西の間には多数の夜行高速バスが運行されているのに、なぜ、と不思議でならなかった。

 

ある経済誌で、『「寝台列車廃止」はJRの最も賢明な選択だった~夜行バスは多いが列車に勝ち目はない』と題された記事を読んだことがある。

著者は「銀河」の廃止を例に挙げて、平成22年度に実施された国土交通省の「全国幹線旅客純流動調査」を引用し、平日に東京と大阪の間を移動した人々の旅行目的を、交通機関別に探っている。

 

鉄道:総数1万3928人(仕事86.4%・観光6.5%・私用 帰省6.5%)

航空機:総数3317人(仕事90.0%・観光6.0%・私用 帰省3.6%)

高速バス:総数317人(仕事27.1%・観光26.2%・私用 帰省36.9%)

 

鉄道や航空機は仕事目的、高速バスは私用という棲み分けになっている実態が浮かび上がり、日帰りの方が宿泊費や出張手当を安く抑えられることから、交通機関の選択基準は費用よりも速さであると分析している。

東京-大阪間における1列車当たりの運転コストが209万906円、という数字も併せて紹介され、競争力を保つために高速バス並みの運賃を設定するならば、1列車で300人程度、上り下り1往復で600人が利用する必要がある。

先の流動調査で、東京-大阪間を高速バスで移動する人数が往復の合計で300人程度に過ぎないことから、高速バスの旅客が全て夜行列車に移っても赤字である。

国鉄の赤字体質を脱却し、膨大な債務の返済を担うために発足したJR各社が、赤字が必至の夜行列車を走らせることなど許されるはずもなく、そもそも東京-大阪間で日中だけでも1万4000人が利用してくれるのだから、手間と費用をかけて夜行需要をすくい上げる行為は無駄であり、寝台列車の廃止は賢明な選択である、という結論が導かれていた。

 

つまるところ、夜行列車は、高速バスに対抗可能な廉価な運賃では採算が合わず、コストに見合う運賃にすれば顧客が振り向かないという、デッドエンドに追い込まれていたことになる。



宮脇俊三氏の「うらめしや新幹線」は、次のような一文で締めくくられている。

 

『新幹線の東京-大阪間は増発につぐ増発で、まもなく線路容量満杯になる見通しだという。

そうなれば、リニアモーターカーが登場するだろう。

東京-大阪間が1時間になる。

そんな時代まで生きていられそうもないから知ったことではないが、次の世代は嘆くにちがいない。

「大阪まで3時間もかかった昔はよかった」と』

 

速い乗り物の登場を僕たちは持て囃すけれども、世の中の進歩は、僕らの日常を世知辛く慌ただしいものに変えてしまい、折に触れて「昔はよかった」と嘆くことになる。

「銀河」に対する郷愁は、古き良き時代への感傷なのかもしれない。

 

航空運賃に手が届かず新幹線もなく、夜行急行列車が時代のニーズに応えていた時代があったことは事実であり、「銀河」は、日本を支え続けた歴史を誇りとして、胸を張って退場すればいいのだと思う。

 

幾許かの寂寥感と共に東京駅へと降り立った僕は、18年後に「銀河」が廃止されることなど想像もしていなかったけれど、「銀河」が主役であった時代が既に過ぎ去っていることは、漠然と感じ取っていた。

ただし、この時、胸中に去来していた寂しさとは、とうとう旅が終わってしまったという全く個人的な理由である。

リニア新幹線で帰って来たら、どのような心境になるのだろう。


大学の講義が始まるには、まだ時間が残されていた。

僕は、裸電球がぶら下がる独り暮らしのアパートに向けて、とぼとぼと帰途についた。



ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>